第二十四話 今、此処
神崎先生にパンフレットを渡され、由真は追い出されるようにくすのき厚生館をあとにした。
いつもの通学路をのろのろ歩きながら、気が付けば心とは裏腹に綺麗に晴れ渡った空を見上げていた。
人間途方に暮れると、うな垂れて足元を見るか、所為なく空を見上げるかのどちらかであるらしい。
とにかく全身から力が抜けてしまい、真っ直ぐ背筋を伸ばす事が出来ないのである。
パンフレットにある母子寮とは、要するに児童福祉施設に母親も同居するような物であった。
ただ、曲がりなりにも福祉施設であるため、寮母さんの監視や同居者の目もあり、これまでのように暴力を振るわれる事はほぼ無いようだ。
お金の面に関しても、母親の労働が義務付けられており、必要ならそこから子供の学費を捻出するよう指導されるらしい。10時以降の深夜間の外出は禁止されており、母が飲み屋で浪費する心配も無さそうだった。
でも・・・・。
由真は深いため息を吐いた。
もう私達は、一緒に暮らせる程あの人を信用する事が出来ない。
鎖で繋がれた猛獣と同じ部屋で暮らすようなものだ。ワンルームだったし。
歩美だってせっかく元気出てきたのに、また口を利かなくなってしまう。
幸運なことに、西門にはまだ人影が無かった。2時間目の授業が始まっているのかもしれない。
次の時間はたしか体育のハズだ。放課になるまでホントに保健室で避難しようかしら。
そう考えていると、スイミングバッグを持った詩織が丁度保健室へと向かっているのが見えた。
あわてて引き返す間もなく、曲がり角で鉢合わせになってしまった。
一瞬ヤバいと思ったが、よくよく考えれば詩織なら口外しない気もした。
「詩織、どうしたの?」
「あれ?由真も何で?」
「あたし、ホントはちょっと外出てきたんだ。内緒にしといて」
「ふーん、ワルじゃん。アタシはせーりだよナプキン貰いに来たのさ」
「じゃあ見学組?あたし、今から行っても間に合うかな?」
「余裕でしょ~。まだ皆着替えてるし、早く行っといでよ」
「よかった。ありがとう」
駆け出そうとして、由真はふと気になった。
「・・・詩織」
呼び止められ、詩織は大きな目をさらに見開いて振り向いた。
「先生何か言ってた?」
「ん・・?・・・あぁ、何も。心配してたよ、ミチハルが」
「またぁ。ウソばっか言って」
そう言いつつも、顔はニヤケてしまった。どうも、コレばかりは素直に顔に出てしまう。
「本当だって!」
何故か、詩織まで嬉しそうに言った。
由真はくるりとターンするように向きを変え、再び教室へと急いだ。
ミチハルの事や、友人たちの事を考える時だけは、少なくとも由真は幸福な少女で居られた。
もう、それでも良いのではないか?
この先の事を気に病んでも仕方がない。今現在、少なくともここに在学している間は私は十分に幸せだ。
この時間を、この掛け替えの無い時間をめいっぱい楽しむ事が出来たなら、それだけでも良いんじゃないか?
例えこの一年が未来に繋がらなくても、私は今のこの時を、ずっと大切にして忘れないだろう。
それだけでも良いんじゃないか・・・?
この世に生まれ、物心付いてからずっと暗闇の世界にいた由真にとって、当たり前の日常ほど尊いものは無かった。
そして今、まさにそれが手に入ったのだ。
その幸福が、由真を変え始めていた。