第二十三話 嘘
昭和63年に建てられたくすのき厚生館は、もう至る所にガタが来ていた。
いつしか起こった地震の時にできた壁のヒビ、すっかりペンキの剥がれた外観等、館長ももうそろそろ本気で立て直しを考えているようだった。
今日は阿部先生が非番らしく、40代半ばのおっとりした神埼先生が庭の草むしりをしていた。
七月の眩しい夏の日差しが、小柄な中年女性の背中を照らしている。
それが視認できると、ゆまは怒りと疲労で息を切らせながら駆け寄った。
「・・神埼先生!」
急に声を掛けられて、小さな背中は弾かれたようにビクッと動いた。
振り向きざま、先生が目を丸くする。
「由真ちゃん?どうしたの??忘れ物?」
「違う。先生、私にまだ言ってない事あるでしょ?すごく大事な事!!」
明らかにいつもと様子が違う由真に、神崎先生はもしやという顔でゆっくり立ち上がった。
しかし口から出たのはもっと別の事だった。
「学校はどうしたの由真ちゃん?それにカバンや靴は?」
「そんなのどうでも良いよ!すぐ戻るし!!・・・でも聞かなきゃ戻れない!」
力強く言った後、遠くで蝉の大群が鳴き始めた。シャアシャアという音が一帯を包み込む。
「そんなこと言って・・」
口籠ったが、神崎先生は由真の顔を見てひとつ大きなため息を吐いた。
「まあ、入りなさい。お日様にやられるわよ」
先生は持っていた小さなシャベルを傍らに置いて、玄関のガラス戸を開けて促した。
入ると、館内は少しだけひんやりとして静かだった。
上履きを脱ぐと、急につま先が冷たくなった。
いつものスリッパを履く。
普段めったに入る事が無い事務室に通されて、きょろきょろしながらそこらの適当なソファに腰を掛けると、すぐ先生に呼び止められた。
一つだけ深呼吸した。
「これが由真ちゃんに関する書類よ。見せられるものだけ見せるわね」
マチのついた大きな茶封筒を受け取る。思ったよりもずっしりして分厚い。
今更何が書かれていようと怖くなんかない。
応接用のテーブルに封筒の中身をぶちまけて、一つ一つに目を通していく。
時々、母親の署名と捺印が為された書類が目につき、それをじっくり読んだ。
・・・一枚一枚に目を通すうちに、由真の目から僅かな希望さえも消え失せていった。
全てをまとめると、どうやら母親は単なる育児疲れと判断されたようだった。
カウンセリングだか供述だか判らないが、畏まった用紙に白々しいとしか思えないような母の反省の弁が綴られていた。
”愛しい娘たちにとんでもない事を”
”大きな過ちを犯したと反省しております”
”死んで詫びたい気持ちで御座います”
それらの文字は欺瞞に満ちていた。
---よくもそんな事が言えたもんだ。
読み進めるうちに、耐えがたい程の憎しみが体中に満ちてきた。
”わが子を可愛いと思うあまり、しつけが行き過ぎてしまったのかも知れません”
”言う事を聞かなかった時のみですが、頬を数回叩いてしまったように思います”
”ぜひ更生して、再び娘たちと暮らしたいです”
言っている事が無茶苦茶だった。
どうやら自分のした事を認めるつもりも、ましてやそれについて謝罪する気も無い様だと
それだけははっきりと伝わった。
茫然とする由真の目の前に麦茶を差し出して、先生がようやく口を挟んだ。
「お母さんね、泣きながら市役所の方にお願いしたそうよ。一緒に暮らしたいって・・・」
その言葉に、由真は思わず逆上した。
「あの人が泣くのは自分がピンチに追い込まれた時だけだよ!!一度も他人の為に泣いた事なんて無いくせに・・・よくもこんな時に!!」
立ち上がって真っ直ぐに神崎先生の顔を見た由真は、どうやら先生もこの書類を信用していない事に気が付いた。
声こそ穏やかで気が付かなかったが、顔は微かに不愉快そうだった。
「こんな書類を鵜呑みにするのは、事情を知らない一般の人達だけでしょうね。・・児童福祉課も私たちも、こういう言葉は今までいろんな子の母親から聞いたのよ。
心の底から反省するのに、こんなに時間が掛らない訳は無いわ」
「じゃあなんで私たち連れ戻されるの?!」
「どうしても・・もっと小さい子や両親のいない子供が優先されてしまうのよ。施設の数にも限界があるから」
それを言われたら、反論できなかった。私たちよりも弱者が優先されるのは、残念ながら当然だ。
「それじゃあ・・私、高校行けないの?あの人、絶対私達にお金掛けてくれないよ・・・」
半ば絶望し掛けた由真に、神崎先生は言った。
「そんな訳無いじゃないの。勉学に励む児童は、市や国が必ず護ってくれるわよ!」
そう言って、先生はパンフレットを持ってきた。
そこには”ヒマワリ母子寮”とオレンジ色のゴシック体で踊る様に書かれていた。