第二十一話 尊い日々
朝、目を覚ますと蝉が鳴いていた。7月の上旬だから、当たり前と言えばそうなる。
千裕はテニス部の朝練で既に居なかった。歩美も日直でもう居ない。
深くため息を吐く。結局気持ちは整理できなかった。
のろのろと着替えているうちに時間が無くなり、またもおにぎりを片手にくすのき厚生館を出発した。
ミチハルには、会いたくない。
そう思っていた筈なのに、教室に彼の姿が無いと自然と音楽室へ行ってしまう自分が居た。
階段を上ればすぐに音楽室がある。始業ギリギリまでピアノを弾いていることも、稀にあるのだ。
鬱々とした表情で廊下に出ると、ちょうど楽譜を持ったミチハルと鉢合わせになった。
「おはよ~」
いつもの調子の、優しいトーンの声がその口から聞こえた。
あと何回聞けるだろう?聞けなくなる日が来るのだ。直ぐじゃないけど、いつか絶対。
「おはよう。暑いね」
顔を見られず、ミチハルの胸元に目を落とす。二番目のボタンが開いていて、ちょっとドキッとした。
なんて綺麗な肌してるんだろう。日焼けしていない所を見ると、部活にはほとんど行っていないようだ。
思わず凝視していた事に気付き、由真はハッとしてミチハルの目を見た。てっきりスケベ扱いされるかと思いきや、ミチハルは思い出したように笑い出した。
「今日は開けっ放しじゃ無いんだね?由真??」
「・・・は?」
意味がさっぱり分からず、繰り返した。
「開けっ放し?」
ミチハルはまだ笑っている。由真はますます混乱し、目を白黒させてきょろきょろと周りを見た。
一呼吸置いて、優しい笑みのままミチハルは答えた。
「ファスナーの事だよ。昨日開いてたでしょ」
「ファスナー・・・・・・・・!!!?」
・・・由真はやっと気付いた。昨日、美術室で制服のファスナーを開けてから、施設に帰ってもそれが開けっ放しである事に全く気がつかなかったのだ。今の今まで。
「な、何でその場で言っ・・・すぐに言ってよ!!」
顔から火が出そうだったが、その日に着けていた下着が偶然買ったばかりの可愛いものだった事を思い出し、ちょっとだけ安心した。ダサいやつじゃなくて良かった・・・ほんと。
「わざとじゃないんだ?」
「当たり前じゃん!!変態か!」
始業のチャイムが鳴る。
ツッコミを入れつつ、くるりと踵を返して席に戻った。ミチハルも頬笑みながら自分の席に着き、相変わらず楽譜を眺めていた。今まで物憂げに見えていたが、最近になってあれがミチハルにとって普通の状態なのだとようやく理解した。単にボーっとしているだけなのだろう。
間もなく坂内先生が教室のドアを開けて、いつものように出席を取り始めた。
「・・・はい、全員出席ね。えー、もうすぐ夏休みですが」
言うが早いか、教室内は異様に盛り上がった。クラスの派手組に混じって、詩織も拍手している。
中学校最後の夏休みだ。青春だなあ、皆も私も。
「盛り上がるのは大変結構です。でも、いくら豊橋が田舎とは言えくれぐれも危険な所へ行ったり、妙な事件を起こしたり、宿題をサボったりはしないように!!」
聞く耳を持たない生徒たちを相手に、坂内先生は大声を張り上げて言った。まるで小学校のプールの授業だ。拡声器使わなきゃ。
「一時間目は予定を変更してホームルームです。名簿番号順に一人ずつ隣の教材室に来てください」
「センセー!その間は自習なんでしょー?」
空かさず詩織が質問した。いかにも、サボる気は満々である。
先生は眉をひそめ、きっぱりと言い放った。
「自習というのは、自分で学習するという事です。お友達と喋ったり、トランプやUNOをする時間では無いのよ」
先に釘を刺された詩織は、はーい とだけ言って机に頬杖をついた。
「じゃあ1番から!相沢さん、いらっしゃい」
先生が教室から出た途端、やはり詩織は鞄をゴソゴソと弄り始めた。
何をするつもりだろう?と、興味津津で眺めていると、トランプでもUNOでも無く、なんとオセロ盤を取り出していた。いつも持ち歩いてるの?!そんな物??
私語に夢中になっているクラスメイトを尻目に、いそいそと由真のもとへやって来た。
「オセロやろう由真」
どうせ勉強するつもりも無い由真は、ニヤリと笑って頷いた。