第十八話 夜明け
修学旅行から1週間が経った月曜日の夜、由真は浅い眠りの中で夢を見ていた。
深夜だろうか、幼い日の由真はミラパルコの後部座席で体を丸めていた。
眠ろうと思えば眠れないことも無いが、古い軽自動車のドアの隙間を抜けてくる冷たい風は、まだ十一歳の少女の小さな膝を刺すようにシート下部を這い回る。
土曜日だった。今日も明日も学校へは行けない。逃げ道を奪われた由真は、はやく母親が帰ってくることを祈った。
早く自分のベッドへ行きたい。多分もう今日はお風呂には入れないだろうから、せめてはやく毛布がほしい。
寒さで痛くなってきた頭をもたげて、フロントガラス越しにスナックのネオン看板を見た。煌々と灯る明かりが顔を照らす。固く詰まった鼻をすすりながら体の向きを直した。多分母は、店が終わるまで戻ってこないだろう。
多分、私がこれを父に告げ口することは出来ないことを母は確信している。母に反逆すると、しばらく家で人間的に扱ってはもらえないのだから。
・・・無論今までだって、ろくな扱いを受けた覚えは無いけれど。
場面が変わり、明け方になっていた。
運転席には知らない男性が居て、助手席の母に愛想笑いをしている。
車は大通りを抜けて、家に到着した。しかしいつまで経っても母は車から降りようとせず、キスを求めてごねる母に男性は明らかに迷惑していた。
由真は、申し訳ないやら情けないやら、しかしどちらを弁護する訳にもいかずにひたすら困惑していた。
こんな所を同じアパートの住人に見られて噂になったら、一体母はどうするつもりなのだろうか。
およそ二十分の押し問答の間、由真はただ俯いて黙っていた。
ようやく、渋々ながらも母は車を降りた。
「もういい。自殺する。私、死ぬから。」
母はいつもと同じ捨て台詞を吐くと、店のライターを投げ捨てて早足でアパートの階段を上っていった。
しまった。
眠気で十分に頭が廻らなかったのか、反応が遅れた。
急いで母の後を追って階段を駆け上がり、ついさっき閉まったばかりのドアに飛びついたが、一歩遅かった。何度もドアノブを回したが、押しても引いてもドアは開かなかった。腹いせのつもりなのか、それとも男性の注意を引く為なのか、まんまと締め出されたのだ。途方にくれて駐車場を見下ろすと、例の男性は見ないふりをして携帯で誰かと電話していた。
勘弁してよ、十二月なのに。
絶望と悔しさで目頭が熱くなった。泣いたところで誰も慰めてはくれない。自分には誰一人として味方が居ないことを理解した由真は、この寒空で凍死して新聞に載らないようにともかく泣くのをやめて考えることにした。
みじめに鼻水をすすってジャンパーの袖で涙を拭う。偽善者すら目の前に現れない身の上に嫌気が差したが、それもずいぶん前に自覚していたので今更誰かに助けてもらおうとは思わなかった。
辺りを見回した後、一縷の望みをかけてトイレの小さな高窓によじ登って手をかけた。哀れな子供に神が慈悲を与えたのか、奇跡的に普段閉まっている筈の鍵は開いていた。由真は平均的な小学生である自分の体型に感謝しながら、縦三十センチ、横四十センチの窓枠をどうにか体を捻じ曲げて通った。
擦り剥いて皮のむけた肘をさすり、便座の上に立つ。埃にまみれながら窓をそっと閉めると自分の部屋へ忍びあしで向かった。
残された僅かな精神力を振り絞って、一歩一歩を慎重に歩いていく・・・
―――ああ、そうだ。その後結局見つかって・・・・・・
安堵のため息が終わるかどうかというタイミングで、小さな少女は振り向きざまに世にも恐ろしい顔をしたメデューサと目が合った。
いっそのこと本当に石化してしまいたいと思ったが、そんなメルヘンな事は言っていられない状況だ。
「私がいつ入っていいって言った?」
こういう時は黙っていたほうが得策だ。何を言おうと、口を開けば殴られる。
けれど今日はどうやら何をしても、しなくても同じだった。
すこぶる機嫌が悪い母は、ジャンパーの襟をつかんで由真を力いっぱい殴りつけ、玄関ドアに突き飛ばした。
「質問に答えろ!私が入って良いって言った?!」
由真はいつもそうする様に、まるっきり無表情で玄関に座り込んだ。
それが精一杯の反抗だった。うんともすんとも言わない由真に腹を立てた母は、どしどしと足音を立てて台所へ向かった。戸棚を開けて何かを取り出す音がする。
しかしここで外に飛び出したら負けだという事も由真は知っていた。第一、母が機嫌を損ねると刃物を持ち出すのは日常茶飯事だった。しかしいつも起こっていることだからと言って、怖くない訳はない。喉元に包丁を当てられている時は毎回、死を覚悟しなければならないし、お気に入りのトレーナーと共に腕にかすり傷を負った事もある。
最悪の状況だったが、しかし道を選ぶのはいつも自分自身だった。
まぁ、凍死するか刺されて死ぬかだったら、同じようなものだけど。ともかく、家の中で事故が起きれば母は何も言い訳できないだろう。
今まで母にやられたケガでは一度も病院に連れて行ってもらっていないけど、あまりに重傷なら間違いなく救急車騒ぎになるか、さもなければこの家は近日中に葬式を開く事になる。
この家で育っていく位なら、ここで・・・。
そう思っている筈なのに、由真はドアのチェーンを開けて飛び出した。
・・・死ぬもんか。
殺されるくらいなら、私があの女を殺してやる。
ドアを閉めると同時に、キィーンという金属音がした。外に出なかったら、あれが背中に当たっていたのかも知れない。階段を駆け下りる最中、金属音の残響と自分の心臓の音に脳内を埋め尽くされて気が狂いそうになった。ヒューヒューと喉が鳴り、家の近くを流れる川まで逃げたあたりでようやく走るのを止めた。
人目につかない橋の下でうずくまり、これからどうしようかと考えた。胸の中とは対照的に、清い水がサラサラと穏やかに流れる。
その時、向こう岸から笑い声が聞こえた。
何故か向こう岸には菜の花が咲き、中学生くらいの女の子が魚を釣っていた。
その様子を眺めているうちに冷静さを取り戻した由真は、昨日の晩ご飯以降、何も食べていない事を思い出した。
鍵と一緒にお菓子も持って出れば良かったなぁ。
と思いながら来た道を振り返ったが、今帰ったらもっとまずい事になるのは明白だ。
空腹感が惨めさを倍増させる。自然と涙が頬を伝い、顎の先からぽたりと膝に落ちた。
「ポテチ食べる?」
聞きなれた声に振り返ると、いつの間にか千裕が河原の芝生に不良座りしていた。
傍らに置いた白いビニール袋の中からポテチを一袋取り、茫然としている由真に手渡す。
「食いなよ。子供なんだから」
千裕はそれだけ言うと、スニーカーのまま川をザブザブと渡って行った。
お礼を言わなきゃ―――
口を開くと同時に、辺りは暗闇になった。
・・・薄目をあけると、キティちゃんの座布団が散乱した例の部屋にいた。向こうのベッドで、千裕がタオルケットを蹴飛ばして眠っている。
暗闇の中で由真は声を殺して少しだけ泣いて、また眠りに落ちた。