第九話 進展?
由真はまだ混乱していた。
せっかくミチハルが隣に座っているというのに、頭の中はなっちゃんの言葉で一杯だった。
新幹線が新横浜を出発しても石のように黙っている由真を尻目に、ミチハルはバインダー(何故かいつも持ってるんだミチハルは)を手に取り、楽譜を眺め始めた。
ずっと、由真は考えていた。”キチガイ”という言葉について。
幼い頃から自分はその”キチガイ”だと母に教わってきた。
頭のおかしい子。人間のクズで、生きる価値が無い奴。
その言葉に洗脳されて、一度本気で死のうとした事があった。
・・・隣のおばさんに止められて、結局またお母さんにボコボコにされたなぁ。
死ねって言ったり、そうかと思えば私を殺人犯にするなと言ったり、今思うと言ってることが無茶苦茶だった。そんな事にも気付かなかった。どうかしてたのかも知れない。やっぱり。
千裕の反応は早かったな。千裕は一体どこでそんな言葉を知ったのだろうか?
やはり私と同じように母親に言われたのだろうか?
じゃあ、なっちゃんは何処で?
いや、何処で知っていようと問題無い。マズイのはそれをやたらと口にする事だ。
でも私は千裕と出会えた事を良かったと思うけど、二人ともまともな家庭で幸せに暮らしていたら恐らく出会うことは無かっただろう。詩織にも会えなかっただろうし、ミチハルの事も知らないままだった筈だ。
うーん・・・。救われた今だから冷静に考えられるが、私がどちら側の人間であるにしろ今は前に比べて幸せだし、自分の頭が心配ならばカウンセリングを受けさせてもらえばいい。
ただ、生きる価値があるかどうかは、そもそも何に対しての価値か分からないし人類皆何かの貨幣になるために生まれた訳じゃ無いと思う。
親の愛は本来無償である筈だし、金が絡むような愛なんて大人になってからだって沢山だ。
クラブ、テレクラ、夜の街。そんな所にはもう死んでも連れて行かれたくないし、
もしも私に娘や息子が出来たらそんな所へは連れて行かないに決まっている。
自分と同じ道を歩ませたくは無い・・・その為に私はいたってまともな人間でなければならない。
―――あれ?何考えてたんだっけ?話が逸れてきた。
思考の呪縛から解放されて、ふと由真はすぐ右のミチハルを見た。
相変わらずわら半紙プリントの楽譜を眺めている。
いや、違う。ミチハルの視線は、良く見ると楽譜に焦点が合っていない。
まるで持っているプリントや前にある座席が透明になって、新幹線のリノリウム張りの床を直接見ているようだった。
もしかして、単にぼーっとしているだけかも知れない。一瞬迷ったが、由真は話し掛けた。
「ミチハル、高宮君どこ行ったの?」
突然話し掛けられて特に驚いた様子もなく、由真をちらりと見て微笑んだ。
悪戯っぽい、由真の一番好きな表情だった。
「さぁ・・?なんか困った事が有ったみたいだね?」
「ミチハル本当に知らないの?嘘だよね?」
「何を?宮間と佑介(高宮)の事??」
「何だ。やっぱり知ってるんじゃん」
「わからないよ。千裕は何をしたの?何で佑介がヤバいの??」
ミチハルはどうやら本当に分からない様子で由真に問い詰めた。
「ああ・・そうか。ミチハル途中から見たからね」
「千裕があんなに怒ってるの、久しぶりに見たよ」
彼の口ぶりからすると、千裕とは長い仲なのだろう。ミチハルと言い、私と言い、千裕には何故か地味な友達も多いのだ。単に人脈が広いだけかも知れないが。
「でも逆に訊くけど、なっちゃんは高宮君の事以外であんなに怒ったりするの?」
「するよそりゃあ」
涼しい顔で即答された。
「宮間ってさ、スタイル良いでしょ。多分それだから余計に・・・何て言うか自分に自信が有るんだよね。きっと」
由真が ああ、と相槌を打つ。その自信がもう少し控え目ならば、きっとモテるのだろうけど。
「でさ、まぁ・・・僕、最初由真が何か言われたのかと思ったんだ。そしたら違ったみたい」
由真の目がまん丸になった。
「なんで分かったの?聞こえてた?」
「え?」
「千裕は・・私を庇って怒ったんだよ。由真に謝れって」
「やっぱりそうだったんだ」
被せるように、由真は慌てて注釈を付けた。
一番誤解されたくない人だから。
「私、別に高宮君の事好きじゃないよ。そう思われちゃったのかも知れないけど・・・」
「わかってるよ。まぁ、それも有るだろうけど」
ミチハルは特に気取らず、こう続けた。
「由真が可愛くなったからじゃない?宮間よりも」
録音しておきたかった。今のセリフ。
無論そんな事をしなくても忘れることは無いだろうけど、こんな事をミチハルに言ってもらえるなんて――――
「何言ってんだか。ナンパ野郎め」
照れ隠しに笑ってそう言ったが、妙に声のテンションが上がってしまった。
新幹線は、間もなく東京駅に着くようだ。
荷物を取りに、ミチハルは隣の車両へ行ってしまった。顔のニヤケが、なかなか戻らなかった。