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魔法世界の回復役  作者: Se(セレン)
1章 勇者と魔法使い
20/20

1-20 雨夜の月

 ──死。


 万人に、全ての生物に平等に訪れるそれを、ヨミは何度も見てきた。慣れたと、勝手に思い込んでいた。


 今まで目の前で死んでいった者達が、見ず知らずの他人であったことにも気付かずに。


 「ユラ、ユラ──!」


 片腕を失い、ライクに抱えられて微かな脈を刻む。走りながら抱えられているその身体は、一歩進む毎に強く揺さぶられて血を溢していた。それが一層、『死』の瞬間を少女に近づけている。


 人の死など今更どうも感じないのだと格好付けて冷酷ぶって今、一週間の付き合いも無い少女に迫るそれに、心臓の声はどうにも鳴り止まない。


 「何だ、何だよ、これ。こんなの──っ!」


 「ヨミが治療できないのなら、急いで別の術師を探さなければ。一刻を争う。」


 ヨミは拾ったユラの杖と帽子を握る手に力を込める。体内に巡る魔力の感覚を掴もうとするが、その努力は霞を掻く様に手応えがない。目の前に消えかけの命があるのに、救えないもどかしさがヨミを襲っていた。


 「とにかく、まずは安全な所を探す。それから──」


 そう言う最中、ローグが後ろから水の腕を伸ばしてくる。それを、ヨミは横から蹴りで捻じ曲げた。


 「ヨミ、無茶はするな!」


 「今のあいつは多分、見境無く殺しに来るぞ! 今ライクにちょっとでも怪我されちゃあ、詰む!」


 「それでヨミが危険に晒されていては、どちらにせよ──」


 「魔法は使えねぇが、傷は治る。これ以上アレを喰らえるのは俺だけだ。」


 走るライクの背に立ち、襲う水を無造作に打ち払う。払った手は一瞬じんと痛むが、その痛みはすぐに引き元の感覚が戻ってくる。


 「でも、どの道このままじゃ全滅待った無し──ああ、クソ、あの野郎!」


 時間が経つにつれ、ローグの攻撃は速度も密度も増していく。当然、素人同然のヨミが捌き切るにも限界が近い。ユラが動けない以上、ライクが傷を負ってはヨミも二人を担いで逃げるなどできやしない。ライクを庇いながらヨミが攻撃を受け続けるしか手が無いのだ。

 身軽に動けるのはヨミ一人。到底、手が足りない。


 「ベルも来ねぇし、流石にキツいな。ユラの調子は?」


 「……駄目だ。僕の魔法では、とても足りない。」


 ライクの腕の中で細い息を続けるユラ。取り込まれる酸素とは裏腹に、流れ出る血の量はあまりにも多かった。斬り落とされた腕の断面は、いっそ見事なまでに桃色の血肉を見せている。


 「う、ぷ……ぅ」


 いきなり、喉の奥から液が迫り上がってくる。幸いか微量に留まったそれをどうにか飲み込み、次いで思った以上に精神が参っている事に気付いた。気味の悪い嘔吐感に加えて、逃げに走っているのが余計に胃の中を掻き混ぜる。


 「死んだ身体でも、メンタル不調で吐き気すんだな……」


 「まだ走れるか、ヨミ!」


 「走んなきゃ、死ぬ──!」


 複雑な路地や狭い小道を縫って逃げるが、そのことごとくを突き破って水の腕が迫る。ヨミに防げる物量も限界が近付き、増える腕はもうライクの背中に届こうとしていた。


 「やべぇ……っ!」


 決死の逃走を続け、ライクはもう体力的にも厳しい状況だ。ヨミの魔法が使えればその懸念すら不要だったのだが、それは叶わない。

 ついには水の腕に追い付かれ、ユラ諸共ライクの背中を斬りつけようと───


 「な──?」


 それまでヨミ達を追っていた腕が、何かに目移りした様に離れていく。何本もあった腕が一直線に、本体のある病院の方へと引いていった。


 「撒いた、か?」


 「解らない。が、窮地は免れたらしいな。」


 周囲を警戒し、近くにローグの気配が無い事を確認する。それで緊張の糸が切れたのか、ライクは膝から地面に崩れ落ちた。ユラに負担が掛からない様に、静かに倒れ込む。


 「おい、大丈夫か?」


 「──、───。」


 ヨミがライクに声を掛ける。しかしライクは、蹲ったまま呼び掛けに答えない。


 「ライク──?」


 「──起きろ。起きてくれ、ユラ。」


 ただ、ただ一心に、ユラに回復魔法を注ぎ込んでいた。


 ライクの手元からは、薄青色の光が顕現している。水属性由来の回復魔法だ。胸に大きく開かれた傷跡からの出血は、ほんの僅かに減った様に見えなくもない。──ライクの魔法では、それが限度だ。

 流れ続ける鮮血に、開かれない瞼。ライク程度の魔法ではどうにもならない事は、ライク自身が一番よく知っている。それこそ、ヨミ程の聖魔導師でなければ──、


 「俺が──」


 ヨミなら、どんな傷でも治すことができた。だが、今のヨミにその力は無い。


 「俺が治せなきゃ、俺は何なんだ?」


 今まで、こんな事は無かった。今までも、助けられない人はいた。でも、今までこの力を失った経験などなかったのだ。

 それを認識し、噛み締め、理解するまでに至った今、少しずつ、この現状に対する恐怖がヨミに纏わり付き始めた。


 「俺は、何の為に! ……何の為に、ここにいるんだ?」


 ライクを、ユラを、恐れる様に後ずさる。違う。ライクを、ユラを目の前に、何もできない事実から恐れているのだ。


 ヨミは何の為にここに──この世界にいるのだろうか。それを考えたことはこの数日、何度もあった。きっと、この世界で癒やさなくてはならない人が、そうしなければならない未来があるのだろうと、そう考えた。

 その結果がこれだ。こうなるのなら、最初から元の世界で慎ましくこの力を使っていれば良かったのだ。なのに今は、それすらもできやしない。


 「人の傷を治せないで、何が回復役だよ! 今の俺に、何の価値がある!?」


 「ヨミ、待て、それは──、悪い癖だ。落ち着いて、話そう。」


 だが、その言葉に反する様にライクは目を伏せ、ヨミの顔から視線を逸らす。今のユラを元の通りにするなどという奇跡、ヨミの魔法以外には不可能なのは二人共理解している。だからこそ、今の二人はあまりにも無力だと思い知らされていた。


 ライクにとって、ヨミの力は理想の至上と言える。人を傷付ける為ではない、癒やす為の力。それすらも持ち前の発想力で戦いに活かすのだから驚きは絶えなかった。

 だが、ヨミは違った。それだけの魔力を持ちながら、その力に満足していない──否、満足に程遠くさせるのはヨミ自身の性質だ。

 自責し、嫌悪する自分自身への失望が、常に怒りを生んでいる。それは、ライクもよく知る感情だった。だからこそ──ライクには、理解ができなかった。


 「何が──ヨミを狂わせているのか、僕には解らない。解らないが──」


 「俺に、何を期待してるんだ?」


 「───」


 「どいつもこいつも、俺に何を求めてんだよ! このザマの俺が、何の役に立つってんだ!?」


 悪癖、と言うライクの表現に、反論するつもりは無い。それはヨミ自身が一番良く理解している、つもりだ。小さな切っ掛けだろうと、古い記憶が呼び起こされると感情が波に攫われて、冷静でいられない。端から見ればきっと、悪癖どころかそれは気狂いとさえ言えるだろう。

 その自覚がありながら、その激流を鎮める事ができない。それを自分で気味が悪いと思い、それが余計に精神を狂わせる悪循環だ。


 そんな自分だからこそ、ライクの言葉はヨミにとって理解し難かった。


 「……僕は、君が羨ましいんだ。」


 「───は」


 ユラの帽子と杖を、取り落とした。一つはからんと、一つはぱさと音を立てて地面に転がる。それすらも今のヨミには気味が悪くて、歯が必死に噛み合おうと鳴り出した。


 「僕の力は、魔物を傷付ける為の──いいや、殺す為のものだ。あまりにも残虐で、非道な力だと思わないか。それが、そんな物が、僕の身にある事が、僕には、耐え難い。」


 ヨミの激情に、ライクは真っ向からぶつかり合う。ヨミの嫌うヨミを、ライクは羨ましいと。


 「だから、君を一目見た時、魔物でありながら僕の言葉に耳を傾けてくれた時から、僕は君に期待し続けている。期待するなだなんて、できるものか。」


 もう目は逸らされない。ライクはひたすらにヨミを見つめていた。憧れと、期待ばかりを込めて。


 「あの時も、期待するなと言われたな。自分は戦力にはならないと。でもその言葉を、ヨミはとっくに覆した。僕よりもずっと、ヨミは強いんだ。」


 「俺が、強いだと? 馬鹿言うな。たまたま持ってた魔力ありきの、ズルで姑息なあれが、か?」


 「ああ、そうだ。そうだが、違う。魔力ありきも、ズルも姑息も関係ない。僕はヨミの在り方に、ヨミ自身の強さに希望を抱いたんだ。だから──」


 「は、気高き勇者様が、俺に? 何が! お前みたいに生真面目でお優しい奴、俺は一度だって見たことねぇよ!」


 「───っ僕が! どれだけの魔物を殺してきたか! ヨミは知らないんだろう!?」


 ヨミの荒げる声に、ついにライクの感情も爆発する。ライクの初めて見せる憤慨に、思わず口を噤まされた。鮮紅の瞳が大きく揺らぎ、目の奥の赤は燃え盛る烈火の様にもヨミは錯覚する。


 「僕がこの剣で殺した三万を超える命全てに、家族がいただろう、未来があっただろう! それをこの手で摘むのが、僕の負う使命だ!!」


 三万──ライクが今までに殺した魔物、潰してきた人生の、数だ。それだけの命を、この剣は喰らってきた。ライク以前の代の『勇者』がこの剣を携えていた頃を考慮すれば、その桁は跳ね上がる。それこそ、万や億では利かない程に。


 「誰もが、魔物を許すなと言う! 殺せと叫ぶ! 『死神』を討てと、世界が僕に願うんだ!!」


 家族も、民も、草花さえもが騒ぎ立てる。斬れ、倒せ、抉れ、穿て、殴れ、射抜け、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ───


 「魔物の死など、魔物さえも厭わない。異端なのは僕だった。──ヨミだけが僕に、嫌な産まれだと言った。」


 世界最高峰の家名であり、この世の全てに渇望される『グランツェル』の名を、そんな風に言われたのは初めてだった。唯一の理解者が現れたと、そう期待した。期待せずには、いられなかった。


 「信じさせてくれ、ヨミの言葉を、ヨミの力を──」


 蹲る金色の青年と、壁に凭れる黒髪の青年は二人、疎らに息を吐いている。震える音が、喉の奥で煩く感じた。

 恐れているのだ。目の前の死を、己の立場を、今置かれた状況を。手の中にはなけなしの、どうしようもないものばかりが残っていた。それを見て、ふと、気付いてしまう。


 ──目の前の男は、自分の憧れた男は、なんて情けない人間だったのだろうと。


 「は」


 微笑か、溜息か、漏らした泣き言かも判らない声が、した。自分の考えた事があまりに可笑しくて、笑えなかった。


 「ヨミ、どこに行く。」


 「あの、クソ精霊んとこに決まってるだろ。俺の魔法、返してもらわなくちゃなんねぇだろうが。」


 「──良い策でも、あるのか。」


 「ある訳ねぇだろ。気が済むまでぶん殴って、気が済んだら蹴っ飛ばす。一時間でも、一年でも、俺が回復役に戻れるまで、喰らいついて噛み千切る。」


 つい数刻前、ローグがその姿を顕現した時と同じ質問に、同じ答えを返す。策など無い──変わったといえば、状況が少しばかり悪くなったくらいだ。

 壁に寄り掛かるのを止め、路地から広い路に出る。少し左に顔を向ければ、巨大な水の塊が荒れ狂っているのが見えた。


 「ライクは、ユラを連れてとっとと逃げたらどうだ。どうせ、そんな魔法じゃ時間の問題だろ。」


 ライクの腕の中の、腕の欠けた少女を見下ろす。その肌の色味が、息遣いが、死期に迫ろうとしているものだとヨミは知っていた。それはライクも、同じ筈だ。


 「待て、待ってくれ、ヨミ──!」


 「ユラを死なせたくなけりゃ、さっさと行けよ!」


 腕を薙ぎ、ライクの言葉を弾き返す。震えて、今にも崩れ落ちそうな声が、掠れた吐息へと変わっていく。その表情も言葉も何もから目を背けて、ヨミは──、


 「……縁起でも、ない。」


 だが、その鼓膜を打ったのは、ライクの声ではなかった。男らしく低く、しかし透き通った、あの声とは違う──それは、女声だ。


 「誰が、死ぬってんですか、ヨミ。」


 「ユラ──!」


 目を覚まし、ゆっくりと立ち上がるユラ。手を付き、ライクに支えられながら、這う様にして帽子と杖を拾う。左腕を失い、身体中から流血する姿は、ヨミの眼にはいっそ恐ろしく惨めなものに映った。


 「横んなってろよ。死ぬのが早くなるだけだ。」


 「だから、誰が死ぬってんですか。勇者様の腕の中で、勇者様に回復魔法を掛けてもらったんですよ。──それで死ぬなんて、あたしが許さない。」


 「自分がどうなってるかくらい、解んだろ。自分が許さなきゃ死ねねぇ世界なら、どんなに良かっただろうなぁ!」


 死にたくなくて、未練垂々の終わりを迎える人間も、見てきた数は少なくない。泣いて震えて恐れた死を、最期には受け入れて瞼を閉じる。傷や病は治せても、定められた寿命には誰しもが勝てないのだ。何度も通い、治療を続けてきた患者の訃報も、飽きる程聞いている。どれだけ抗おうと、死は平等に訪れる。──だが、それは決して死を許容したからではない。

 己の死を悟り、受け入れる人間がいようと、死を許し、その身に招く人間など存在しない。前の世界には自らその路を選ぶ者も多かったが──それは許しではなく、寧ろそこから最も遠い感情から生まれた選択だった筈だ。


 「お前が許さなかったら、何だ? 血が止まって、失くした腕も生えてくるってのか!? 夢みてぇな世界だな、そこは!」


 「はっ、血? 腕? ──下らない。」


 一方的で不合理な怒号に、馬鹿馬鹿しいとばかりに嘲笑を返す。一本になった腕を大きく広げて、己の姿をヨミの目に魅せ付けた。


 「勇者様の隣に立つ。最期のその瞬間まで、側に居続ける。それ以外全て、どうだっていい。」


 真紅の髪が、瞳が、燻る大火の様に見えた。死に瀕して尚、その炎は高まりを止めない。


 「二本も脚があるんです。あたしは立ちますよ。地に這ってなんか、いられない。」


 それは、何度も聞いた『愛』の叫びだ。どこか歪で捻じ曲がったそれが、決して曲がらぬ決意となる。そんなものが、『死』の呼び声を掻き消すのだ。


 「──く、」


 「何か、可笑しなことを言いましたか。」


 「可笑しかねぇよ。お前は、どこも。──ああ、凄ぇよ、お前も。」


 乾いた笑いが、強く喉を打った。可笑しいことなどどこにも無いのに、可笑しいのだ。


 「ユラも、ライクも、ベルもラーズもギニルも、ローグも! 俺には手も足も出ない様な奴らばっかりだ! 何がお前らをそんなに動かすんだよ! 死ぬかも知れない位なら、隠れて生きてりゃいいだろうが!」


 「死に急いでるのは、あなたでしょうが──ぁ」


 右腕の一本がヨミの胸倉を掴み、そのまま脚を支え切れなかったユラの身体が倒れ込む。その軽い身体に──あまりにも軽すぎるそれに押されてヨミも簡単に押し倒された。


 「誰だって人の為に、死に征く覚悟で戦ってる──無駄死にする為じゃない。」


 ヨミの上に伸し掛かり、尚も胸倉を離さないその指に力が籠もる。血色の良かった筈のその手は、白とも紫とも言えぬ色合いになっていた。


 「まして、今のあなたにあの精霊に太刀打ちする術もありません。行っても、戦いの邪魔になるだけ。」


 「邪魔に……だと? 何の、誰の! 誰が戦ってる!?」


 聞き逃がせない言葉が聞こえ、ヨミもユラの胸倉を掴み返す。抵抗できずに大きく揺すぶられ、血を吹くユラに思わず手を離すが、しかしユラの手はヨミを逃さない。


 「多分、ラーズ・オブザーブでしょうね。一人で、戦ってる。」


 「あのデカブツを、一人でか? それなのに、放っておけって言うのか!」


 「あなたは巻き込まれる覚悟でも、あの人はあなたに気を使う。それなのに何ができるってんですか?」


 「っ、囮でも何でも──!」


 「囮にもなれない、って言ってるんですよ。」


 冷たく、静かに、言い聞かせる様にして言う。暗がりでその表情は良く見えなかったが、抱く感情はヨミのそれと同じ、ただ無力な己への怒りだと感じた。

 ユラもまた、この戦場で何もできない人間の一人なのだ。立っているだけが精々で、杖を振る力もどこにも無い、無力な魔法使いでしかない。この場の誰も、ラーズに加勢できるだけの力を持っていなかった。


 「精霊は、魔力を追う。喰らって、糧とする為だけに生きる。ああなってしまっては、本能のままに行動する筈です。あれを引き付ける役目を、一人でやっているんでしょう。それを、無駄にしますか。」


 「……あんなのに一人で敵うと思うのか? ラーズが負けたらどうする。次は誰が追われる。お前か、ベルか、それとも知らない誰かか? 誰にしたって、結局──」


 誰一人、あの戦いに参加できる者はいない。だからと言って何もしなければ、持つ魔力量の多い者から順に死んでいくだけだ。それで魔法を使える者がいなくなれば、勝ち目などどこにも無くなってしまう。

 なら、こんな場所で蹲っているべきなのか。やはり動くべきではないのか。それを問おうとするが、それは他でもないユラの声によって遮られる。


 「ベルクロス・カタストロ──」


 「あ──?」


 「勇者様! カタストロの気配、感じますか!」


 「──、い、いや、僕には、見えない。」


 「おい、どういう──」


 ──その場に、破裂音が鳴り響いた。

 付け加えるなら、それは都市の外にまで届く程の爆鳴だ。風船を割く様な音に遅れてやって来るのは、恐ろしいまでの威圧感。新手の術式か、と瞬考するが、それが間違いであるとその光景を見れば瞭然だった。だからこそ、それを見た己の眼が信じ難い。


 ああも巨大化した精霊を、一刀両断する男がいるなどと。


 「──ベル」


 巨大な精霊を斜めに断ち斬ったその影は、そのまま人外の挙動で脚を捩る。その一挙で空中で構えを取り、瞬く間に斬撃が放たれていた。

 そこに、ヨミの知る『ベルクロス・カタストロ』の姿は無い。病弱で、命の瀬戸際にいたあの男は、どこにも無かった。ただ、一本の『剣』が、極限まで打ち鍛えられた鋼がそこにある。


 気付けばヨミはユラを押し退け、ただその剣舞を前に立ち尽くしていた。得体の知れない渇きが、恐怖が、取り憑いて離れない。だが、それよりももっと大きな切望が、ヨミをその戦禍へと手招いている。真新しく、懐かしいこの感情が、抜け落ちてしまう前に──


 「──あれが、カタストロ?」


 それは、純粋な疑問の様に聞こえた。心の底から、あれがカタストロであるか、と疑っているのだ。確かに、宙を舞い地を駆ける『剣』のその姿は、以前のベルクロスからは想像も付かないものだった。しかし、あれがベルクロスでなければ何だと言うのか。


 「だって、あの魔力──」


 「魔力が、何だよ。」


 「人並みしか、ない。」


 魔力が、人並み。そう聞けば、何の問題も無い、普通の人間だ。だからとそれを笑い飛ばす──そうするには、ユラのベルクロスを見る瞳が事の大きさを示し過ぎていた。


 「それの、何が悪いんだ。」


 「カタストロ家は──『半魔の末裔』は、人間よりも魔物に近い魔力を持つ。でもあれは、魔人の血を引いた人間の魔力じゃありません。」


 「ベルが、魔人の血を? そんなの聞いてねぇぞ……!」


 「常識、ですからね。誰もわざわざ説明する筈無いでしょう。」


 グランツェルの名を誰もが知る様に、カタストロもまた誰もが知っているのだ。そも、家名を授かるのは大きな名誉であり、その贈与は世界中に晒される。900年来の家系など、それこそ子供の頃から当然教えられる様な常識であり、カタストロの名も、その興りも知らぬ者は余程の物知らずか赤子かといったところだ。


 「今大事なのは、あの男の身体がどうなっているかです。もしあれが『カタストロ』でないのだとしたら、血統から自ら逃れたなんて……有り得ません。『神』から授かったものを、自分の意思で捨てるなんて──」


 有ってはならない、起こるべきではない事が、確かな現実としてそこに在る。だって、それが起きたら、きっと揺れてしまうから。ユラの信じている彼が、霞んでしまいそうだから。


 「血を、家名を……捨てた? 自分の意思で? なら、僕は、僕は……?」


 「勇者様……?」


 虚ろな目をしたライクが、その双眸にベルクロスの姿を映す。欲しくもなかった家名を産まれた瞬間から背負わされ、苦しんでいたであろう男。それがあんなにも自由に、美しく剣を振るっている。なら何故、ライクは──『ライク・グランツェル』は、変われないのだろうか。自分を縛り続け離さないそれを、ベルクロスはどうやって切り捨てたのか。


 「あ、あ……っ」


 「勇者様!!」


 勇者様、勇者様、──『勇者』様。ユラはずっと、ライクの事をそう呼ぶ。ライクはいつまでも『勇者』様だった。それが宿命であり、逃れ得ないものであると自分に言い聞かせてきた。だが、その認識が前提から覆されようとしている。

 出会ってしまった希望、その可能性をこそ、ベルクロスは持っていた。もし『ベルクロス・カタストロ』がそうした様に、『ライク・グランツェル』も変われるのだとしたら──


 「『勇者』、『勇者』、『勇者』──! そんなものに、僕は成りたくなかった!」


 「駄目、駄目ですよ。だって、勇者様は、あたしと……」


 「あ、ぁ──」


 「それなのに、そんなの、勇者様じゃ……」


 「やめ、やめろ……やめてくれ……っ!」


 それ以上、聞きたくなかった。言わせてしまったら、もう心が持ちそうにない。

 勇者なんかには成りたくなかった。小さな村かどこかで、細々と暮らす事を何度も夢見た。でも、それはできなかった。それは課せられた使命でも、定められた運命でもなかったから。


 『じゃあ、あたしが勇者様を護ってあげます。』


 それは五年前、小さな森の中で交わした約束だった。弱くて、情けなくて、何もできなかった『勇者』と、ただの村娘が交わした約束だった。


 『だから──あたしの勇者様でいてください。』


 差し出された掌は細くて、小さくて、自分のものよりずっと強かった。


 その手を取った瞬間から、ライクは『勇者』でしか在れなくなった。そういう風に、振る舞ってきたのだ。

 だが、そんなものは虚構に過ぎなかった。ずっと被り続けてきた『勇者』という仮面は、こうも容易く割れる脆い物だった。『ライク・グランツェル』という男は、仮面すらも満足に着けられない。


 「あたしの勇者様じゃ、ない……!」


 だから、絶対に言わせてはならない言葉を、口にさせてしまった。もう、ライクは『勇者』ではいられない。薄暗い森の中で泣きじゃくる、無力な少年に戻ってしまったのだ。


 「ああ、あぁぁぁぁっ!」


 ヨミにも、ユラにも見限られ、『勇者』だった男は、ただ戦場で蹲る。『死神』を殺す為に産まれた男は、この戦禍で誰よりも無価値だった。


 その場の全員が、動かなくなった。ライクは俯いたままになり、ユラは失血で意識も危うい状態だ。


 「──何もできないなら、ずっとそこで寝こけてろよ。俺は行く。」


 「もう、勝手に行ったら良いんじゃないですか。あたしにはもう、立つ理由も無いですから。」


 「───っ!」


 ユラが吐き捨てる様に言うと、ライクの身体が微かに震える。もう、この二人は使い物にならない。心身共に、完全に壊れていた。


 「こんなに弱かったんだなぁ、俺達。」


 去り際、わざと聞こえる様にして声を上げた。歩く足が向かう方向には、巨大な精霊が腕を振り回して暴れ狂っている。敵う筈の無いその相手に、武器の一つも持たずに立ち向かうのだ。だが、不思議と不安は少なかった。

 理由は何も難しくない。後ろで動かない二人より、目先に見える二人の方がずっとマシだった。ベルクロスも、ラーズもその目には確かな意志がある。それだけの事で、信じるには十分に思えたのだ。


 ヨミは一人、ローグへと立ち向かっていく。その目に宿っていたのは、怒りと嫌悪だけだった。


 ヨミも、ライクも、ユラも、互いの目にその姿は見えていなかった。

 ──『ベルクロス・カタストロ』を檻から救った一つの奇跡は、三人の隙間を埋め難いものにしていた。

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