1-19 縁切り
9ヶ月ぶりくらい? の更新です。何故。
主人公は出ません。何故。
目の前の出来事を見て、それから遠くに蠢く巨大な水の塊を見る。そこから伸びた水流が、一秒前まで立っていた地面を抉って行ったのだ。どういう事かと口を歪めてみるが、それを熟考するだけの時間は得られない。──一本の『剣』が、その隙を与えないのだ。
剣──その呼び方は、正しいとは言えない。剣が独りでに斬り掛かって来るなど有り得ない。しかし、目の前のそれを形容するには『剣』という言葉が相応しかった。或いは、剣士そのものが剣の一部となったかの様な。
鋼が、眼前で揺らぐ。しかし、背後から空を斬る音が鳴った。それなのに肌は、すぐ横に迫る脅威に竦んでしまう。五感に齟齬が生じ脳が警鐘を鳴らす。だが、感覚は正常に機能していた。
異常なのは、対峙する剣士の身熟しだ。
「これが、お前さんの『剣』かよ──!」
あまりの剣速か、それともそういった剣技か。陽炎の如く踏み込み、それを視認した瞬間には刃は眼前に迫っていた。一秒間に何度、その瞬間を味わっただろうか。それぞれが確実に命を狙い、一太刀でも受けの判断を誤れば即死の剣。
そして、それを受け切る己の剣に、何よりも驚嘆していた。
「良い、良いぜ、カタストロ。」
互いのコンタクトは刃の触れ合いのみ。研ぎ澄まされた感覚が剣先に集中し、それだけがこの戦いの全てだ。目が、耳が、肌が喰らう情報を、剣を振るう為だけに使う。
「──いや、家名は捨てたか、ベルクロス!」
刹那、目が合う。
──その目は、透き通る無色だった。
─────
家名。それはこの世界に於いて、これ以上無い程に大きな意味を持つ。
勇者然り、国王然り、家名を持つ者には必ず相応の伝統と力がある。
グランツェルとは魔を討つ力であり、オブザーブとは都を統べるカリスマであり──カタストロとは、ベルクロスにとっては『呪い』であった。
カタストロ家はそれこそ、900年来の歴史を持つ。100年目の戦争、その終わり頃から、同時多発的に発生した家系だ。その点では他の家系と根本的に生まれ方が異なり、それがカタストロという人間が特殊である理由でもあった。偉業を成し遂げ与えられる家名と違い、900年前に同じ『罪』を犯した者達に等しく与えられた名こそが『カタストロ』なのだ。
家名という物の縛りは強く、どれだけ血を薄めようとも名が継がれる限りは身体的特徴も受け継がれる。髪の色や、瞳の色。稀に姿形までもが家系によって決められている、なんて事もある。長い時を経て、何十世代もの歴史を刻んだカタストロ家も、その紺碧の目の色は薄まらなかった。深い青が、忌むべき血を証明する。
己の血を憎み、出自を嫌ったベルクロスだが、その掌には剣の才が眠っていた。
魔力量に長けたカタストロ家に産まれ、顔も知らぬ先祖達はその魔力を世に役立てたと言う。それがカタストロという家系にとって最も有用で、簡単だった。だからこそ、ベルクロスは剣を振るう道へと逃げ落ちたのだ。
子供心にそう決意したのが20年以上も前だろうか。その頃の小さな少年には、意気地になって剣を振り回す事しか出来なかった。だが、それでも人並みには魔獣を討伐し、それなりの稼ぎもあった。卑しい先祖達とは違い、剣一本で生きていく、そんな事を思った覚えがある。
剣士を志して数年、未だ青年期だった頃だ。心情にしてみれば、自分は他とは違う、自分こそが特別であると思い始める時期。
──魔人の軍勢が攻め入り、周りの大人達が死んでいく。
そこは、小さな村だった。ぽつりぽつりと点在する家に最低限度の畑、良いところなど一つも無い細々とした場所だ。
この頃ベルクロスは、剣一振りを腰に据えてあちらこちらを転々としていた。理由は単純で、この年頃のベルクロスには『反抗期』というやつが訪れていたのだ。何が切っ掛けになったのかも覚えてはいないが、ある日ベルクロスは両親の静止を振り切り、家出をした。
元々ベルクロスは自分の家が嫌いであったし、いつか一人で生きてやろうとも思っていた。その予定が早まったのだから万々歳だ。両親との縁を切り、一人魔物を斬って世を渡る。それが中々どうして上手くいったのだ。
そういうものを生業にしている人間も少なからず存在する。代表的な者で言えば『勇者』などがそうだ。『勇者』の家系は、その昔の戦争で死神と戦った血を絶えさせない為の繋ぎ。もうすぐ産まれてくる42代目──『1000年目の勇者』を産む為だけにいる存在。そんな事を言う人は誰一人いなかったが、ベルクロスは心の中でそう思っていた。だが、それでも魔物を討つ為の力を持たされた一族だ。その力を眠らせておく筈も無く、古くから魔獣討伐等に身を入れている。
要は、している事自体は何らベルクロスや他の戦士達と変わらないのだ。魔物を倒し、人々を護る。あのグランツェルと同じ事をしていると思うと、片時でも『カタストロ』の名を忘れられた。安い人間だったと思う。
そうやって様々な場所を渡り歩く中で、付近で魔物の目撃情報があったという村に向かった。本当に辺鄙な場所で、どこにだって出向く商人共でさえ滅多に寄らない様な所だ。こんな村に大した価値も無いとは思ったが、魔獣の殲滅をするべく五十人近い人員が派遣されていた。護るだけの価値のある場所なのか、それともそんなに魔獣が出るのか、と楽観しながら村に着く。
しかしそこは既に、村としての機能を失くしていた。
共に遣わされた屈強な男達が剣を構え、髭を拵えた老人が杖に魔力を籠め始める。並の獣など、相手にもならない程の強者達だ。
だが、そこにいたのは魔獣などではなかった。人の形をした魔物──魔人が村を解体していく。無闇に突っ込んでいった剣士すらも、容易く潰されて終わりを迎えていった。
それを見ながら、内心蔑む様に屍を見下ろす。魔人などと下劣な者共に命を奪わせるとは情けない、と心底思った。そして同時に、自分はそうはならないとも。
「あら、貴方も戦うの? 小さいのに、頑張り屋さんね。」
次々と、人が死んでいく。それでも、得体の知れぬ自信がベルクロスには残っていた。
「気は乗らないけど、仕事なの。貴方も同じ?」
邪魔そうな長髪に、動きにくそうなドレス。どれも清楚な風を思わせる色合いだったのだろうが、こびり付いた返り血は既に茶色く錆びついていた。
だが、やはりその服装は戦いの場で着る物とは思えない。舐めているのか、と思う。そしてそれは、そのまま口に出していたらしい。
「可愛くないかしら。──ええ、そうね。ここの紅は質が悪いみたいだから。染め物屋さんがちゃんとしてくれなくちゃ、ドレスが可愛そうだものね。」
女は得物をすっと持ち上げ、わざわざ血の付着した部分に唇を重ねる。その頬は微かに赤らみ、その血が愛しの主人である様にすら見えた。その武器は、剣というよりも鉈に近い。所々で顕になる刀身は鈍い黒色で、その刃は剣先になる程太く重くなる。体格も格好も得物も、何一つ噛み合わない歪な女に何十年も剣を振るってきた人間が負けるものかと、死した大人達を蔑むのを通り越し嘲笑した。
慢心、そう呼ぶ他に無いだろう。目の前の女に負けようなどと、欠片も考えていなかったのだ。
「貴方、剣を持って三か四年って所かしら。稚いのに、とっても重たい。貴方の色、私に見せてくれないかしら。」
ブン、と空気を殴り付ける音がして、咄嗟に後ろへ跳ねる。だが、太い鉈が顔面を引き裂き、顔の中心を斜めに一閃した。
「ああ、やっぱり素敵な色ね! もっと、その紅を見せて頂戴!」
先端に重心の乗った鉈を振り回し、ベルクロスの握る剣をたったの一撃で叩き落とす。剣士が剣から手を放すなど、死を受け入れるも同義だ。
死、死。やっと、そんな事を意識した。常にたった一振りの剣を持ち、容易く敵を斬り倒してきたベルクロスにとって、知り得なかった恐怖。
剣を取り落とし、目の前には鉈を持って嗤う狂女が一人。抗える道は、一つしか無い。
その選択が正しいのか、一瞬間だけ迷う。それ以上は、迷えない。
心臓の辺りから力が湧き上がり、腕を通じて手へ、指先へと流れ込む。
初めての魔法。それまで魔術を学ぼうともしてこなかったどころか、それを忌み嫌っていたベルクロスにとって大きな決断だ。
術式の知識も無ければ、自分の魔力がどの属性に類するのかも解らない。ただ、敵を討ち倒すイメージだけを持って己の中の力を振り絞った。
結果は、一目瞭然。視界に広がる空間が爆ぜる。石や火花が飛び散り、辺りに降り注いでいた。
初めて自分の魔法を目にして、これだけの力が体内で燻っていた事実に驚愕する。次いで、魔力を継いできた血に、恐怖した。
明滅する視界に、魔力の放出によって一気に重くなる身体。一切の魔法を使ってこなかったが為にその反動が大きかった。
それでも、目の前の女一人も倒せない。焼け焦げた己の頬を指先で撫で、唇をうっすらと綻ばせて鉈に口付けする。軽い愛情表現をした後に、まるで熱いキスをするかの様にベルクロスの顔から採れた鮮血に舌を絡めた。
「ん──。あら、貴方の血──雑じりっ気がするわ。色は好みなのだけれど……」
血──ここでまた、それが出てくるのかと奥歯を締める。
「なんだか、醒めちゃった。」
二度目の衝撃。顔に喰らったそれとは違い、鈍器で殴り付けた様な痛みが腹を撃った。
鉈の峰が骨を砕いてめり込む。先程の斬撃が血を採る為のものだったならば、これは返り血を浴びずに相手を殺す一撃だ。頭の前の方で嫌な音が鳴り、眩しいくらいに光が見える。痛みに咆えているのか、血を吐いているのかも解らない状態の中、相手を捉えようと目を見開いた。
「辛いものね。この血が無ければ、楽しく踊れそうだったのに。神様って、冷たい人。」
紺碧の双眸が女を掴んだ時、少し寂し気にそう言った。意味を問いただそうとするが、口に血が溜まって上手く舌が動かない。
「あら、知らない? 貴方みたいな血筋の人って、身体のつくりに見合わない魔力を持つものよ。どんどん魔力が膨れていって、身体の自由が利かなくなる。戦争が始まる頃には、立てないくらいになっちゃうんじゃないかしら。」
表情が通じたのか、女が喋り始める。そしてその内容は、聞き捨てならないものだった。
身体が、魔力に耐え切れない。成程、カタストロという家系に相応しい運命なのかも知れないと思う。所詮、己の力に負けて終わる様な人間なのだ。そうと解ると、全てが馬鹿らしくなった。
家を出て一人で生きてきた事も、剣だけに頼って生きてきた事も、無駄で無意味な意地だった。どうせこの血からは逃げられない。死ぬまでカタストロを背負うしか無いのだ。
「だから──残念。」
眼前で鉈が持ち上がり、岩の様な鉄槌が下される。ベルクロスにはそれを避ける体力も、気力も残っていなかった。もういっそ、ここで死んでしまえば。それならきっと楽だろう。次は普通の家庭に産んで貰えるよう、神にでも祈ろうか。脳天を砕かれるであろうその瞬間まで、そうやっていようと思った。
「──これ以上の蛮行は、この私が止める。」
そこには頭を潰す鈍い音は無く、鋼の音が高く響いていた。目を見開くと、女と自分の間を隔てる様に黄金色に燃える光が揺らいでいる。
それが人であると気付いたのは、その光が一歩、歩み始めた時だった。靡かせたマントがベルクロスの視界を覆い、それでも目の前の男の存在に目が離せない。
やっと見えたその後ろ姿には、自由に動くマントとは裏腹にきっちりと固めた黄金の頭髪が映る。
「貴方、『勇者』ね。私に会いに来てくれたのかしら?」
「そうだ。随分な大所帯で来たらしいが、もう私の仲間が対応している。投降を勧めよう。」
「ふぅん、まるで勝った様な物言いをするのね。」
「事実、魔物は殆ど残っていない。君一人で私に敵うつもりなら──その自惚れ、正させてもらおう。」
鉈が『勇者』を狙い、それは細身の剣で容易く防がれる。その瞬間は、ベルクロスの目には追えない領域だった。女の渾身を受けたにも拘らず、その足は一歩も動いていない。
「最後だ。投降を、勧めよう。」
「貴方の血も、きっと綺麗な色をしているんでしょうね。ああ、見てみたかった。」
女の判断は早かった。高いヒールで跳ね上がり、シンプルなドレスが風を受けてふわりと広がる。
──逃走。その意図に気付いた『勇者』が、腕を振るい電撃を放つ。が、空高く浮かぶ影には届かなかった。
「逃がすか──!」
「悪いのだけれど、ノルマはもう終わってるの。想定外の損失を被ってしまったけれど、仕方無いわ。結果を持ち帰る人も必要でしょう?」
女はみるみると高度を上げ、完全に攻撃の届かない場所まで脱する。その軌道を見るに、只の跳躍ではなく魔法的なものの様だ。
「く、そ……」
剥き出たままの土に指を突き立てるが、少しの力も入らない。そもそも『勇者』が追えない相手に届く筈が無かった。それでも諦め切れずに、踠く。
「──さよなら。哀れで小さな剣士さん。」
彼方にも思えたその距離で、その声だけがはっきりと鼓膜を打った。
「───」
何かが、ベルクロスの中で膨れ上がる。ただ、胸の内で渦巻くものだけが熱を増していた。
女はもう、目を凝らしても見当たらない。残されたのは『勇者』と、心身を打ち砕かれた非力な少年だけ。
「君、立てるか?」
『勇者』が、拾ったベルクロスの剣を持って歩み寄って来る。差し出された剣を受け取り、それを杖にして何とか立ち上がった。膝は落ち着きがなく、そのまま前に倒れ込んでしまいそうな身体を無理に起こしていた。
「無理に立たなくて良い。すぐに私の仲間が来る。今は休んでいろ。」
『付き魔法使い』が来るまでの応急措置のつもりか、『勇者』がベルクロスの傷口に水魔法を使う。それすらベルクロスにとっては大きすぎるくらいの治癒力だった。その施術をする顔はどこまでも冷静で、傷一つ無い姿がベルクロスと『勇者』との力の差を歴然とさせる。
「俺も──」
魔人に一瞬に叩きのめされ、死の間際にまで瀕した弱者と、たった二度攻撃を受けただけで相手に逃亡を選ばせる程の強者。ベルクロスと『勇者』の間にある差は、それだけのものだ。
ベルクロスだって、ずっと剣を振ってきた。年数は浅くとも、それを言い訳にしないだけの鍛練をしてきたのだ。──なら、この差は何だと言うのか。
「お前みたいな家に、産まれたかった。」
気付けば『勇者』に背を向けて、一心不乱に走っていた。何故逃げたのか、どこへ行こうというのかも解らないまま、ただ駆けていく。自立の早かったベルクロスにとって、それはむしろ年相応の行動だったのかも知れない。
どれだけ走ったか、そこは木々に囲まれた暗い道だった。先程までの村は植物にも恵まれない痩せた土地だったから、かなり遠くまで来たのだろう。それ程までに、無意識にこの場所を目指していたのだ。
「俺は、弱くない。」
鬱蒼とした道を進んでいると、木々の間から魔獣が飛び出してくる。それを一閃して、あっさりと命を潰した。
「俺の剣が、負ける訳無いんだ。」
敷かれた道から逸れ、どんどんと森の奥へと入っていく。薄暗い中で意識を向けると、無数の魔獣が潜んでいると解った。
「うらぁぁぁぁあ──!!」
次々と飛び掛かってくる魔獣を、刃の毀れた剣で片っ端から斬り伏せる。そうやっていくと、住処を荒らされたとあって温厚な獣達までベルクロスの方へと寄せられていった。
数え切れない程の獣や魔獣が、一塊になって牙を剥く。それをひたすらに斬り、刺し、死体の山を積み上げる。
しかし、それでも多勢に無勢。一本の剣で一度に受け切る数には限度がある。
前、左から図太くて鼻の吊り上がった四足獣、背後には額から一角を伸ばした犬の様な魔獣。それらが同時にベルクロスを追い詰める。
「うるっ──せぇ!」
前からの突進を足で、左からの猛攻を剣を突き立てて防ぐ。そして後ろには、轟音を立てて爆発が起こった。
魔獣一匹を吹っ飛ばすつもりで放ったが、背後にいた何匹もの獣まで巻き込まれて消し飛んだらしい。やはり己の魔力に恐怖を感じながら──思う。
「何で、今の三匹を剣で捌き切れなかった。剣が鈍い。動きが遅い──!」
剣を振り回しながら、思う。これは、自分の本当の剣撃ではない。ベルクロスの『剣』とは、こんなものではない筈だ。確実に自分は、弱くなっている。
『貴方みたいな血統の人って、身体のつくりに見合わない魔力を持つものよ。』
「うるせぇ、うるせぇ──!」
牙を剥く魔獣を断ち、爪を振るう獣を穿つ。その精度が以前よりも衰えていると、今になって気付いた──今まで、気付かない様にしてきた。
『どんどん魔力が膨れていって、身体の自由が利かなくなる。』
「俺の剣を、舐めるな──っ」
本当はずっと、力は落ち続けていたのだ。今は些細な差だが、数年後にはどうなっているか。十数年後の戦争の時、この身体は動くのだろうか。
『戦争が始まる頃には、立てないくらいになっちゃうんじゃないかしら。』
「───ぅ」
一発、図体のある魔獣の頭突きが横腹を貫いた。元々、魔人の女から受けた傷が完全に癒え切らぬままにここまで走ってきたのだ。衝撃と共にその疲れが一気に押し寄せ、あちこちの神経にピキと気持ちの悪い感覚が走る。
だが、依然獣達はベルクロスを憎悪に満ちた目で睨み付けている。理性の無い獣を種族間を超えて共闘させるとは、いつの間にかかなり森を怒らせてしまった様だ。
「──うるせぇ」
飛び込んできた魔獣の頭を剣で貫き、目の前の別の魔獣に投げつける。幾ら斬っても代わるがわる飛び掛かってくる獣達を、剣技だけで迎え討った。
もう、体力は限界だ。森の薄暗さも相まって視界は霞み、辺りに広がった血生臭さが思考を妨げる。それでも斬って、斬り続けた。これが何の証明にもならないと解っていながら、朝まで。
──ベルクロスは弱くないと、自分に知らしめる為だけに。
─────
その日の感触を思い出して、戦いの最中だというのに物思いに耽けてしまった。小さかったあの頃に比べれば、剣の扱いにも慣れたものだ。腕を振るえば、思った通りの軌道を描いて剣が動く。
それに、身体が異様に軽い。今まで縛り付けてきた何かが剥がれ落ちたかの様に、手足が良く動く。血が沸き立つ感覚と、長らく忘れていた剣の美しさが心を踊らせた。
何故かは解らない。解るのは、ベルクロスに絡み付いて離れなかった重しが無くなった事だけ。
「ふ、はは」
気付けば、口の横から笑みが漏れていた。剣を振りながら笑うなど、あの狂女を思い出して嫌になる。だと言うのに、どうしようもなく楽しいのだ。
「ノッてきたか、ベルクロス!」
「──さぁな。」
ギニルの質問に、口ではそう返す。が、ベルクロスの剣の流れが、本心からの答えだった。
「剣が浮ついてんぜ、あー、オレはそっちの方が好みだ。」
「なら、喜んで剣の錆になれ。」
浮ついた、とはまた的を射た物言いだ。確かに、今のベルクロスは軽い身体に委せて剣を振り、それを愉悦し、堪能している。笑って、嗤ってこの剣闘を楽しんでいる。それは決して、手を抜くなどという事ではない。
寧ろ、そういった剣こそが最も強く、美しいと二人は知っていた。
ベルクロスの剣は、格段に速度を増してギニルへと襲い掛かる。それも、戦っていく内に慣れる様に斬撃の質が上がっていくのだ。神速に放たれる即死の一撃を、諸刃の大剣で受け続ける。浮く様に軽い剣先を、沈む様に重い剣身で防いでいた。
体格差。ギニルの持つ唯一の絶対的な優位性を以て、ベルクロスの剣を辛うじて受ける。つい数時間前には立って歩く事も出来なかったベルクロスと、毎日研鑽を欠かさなかったギニルとの間にある、筋肉の圧倒的な違いがギニルを生かしていた。
──速さと、技の至りが、剣を振る。
──重さと、力の至りが、剣を振る。
その剣戟に、介入するものなど無い──筈だった。
二人の間を割いて、莫大な水の塊が流れ込んでくる。
「ちぃ──!」
それは遠く、しかし距離を感じさせない程の巨大な影から溢れていた。水で出来た怪獣の様なそれは、咆える度に家を押し流して波を打つ。
津波にも近い濁流が、辺りを無差別に抉る。海も遠ければ気候も穏やかなオブザーブにとって、それは異常な光景だった。
どんな手も、自然の大災害の前には無力。それが1000年もの間変わらぬ絶対の認識であり、魔術が発展した今でもその威力は絶大だった。そう思わせる程の、並外れた厄災。
どこか違うとすれば──これは、自然によるものではないというだけ。
無意識に、本能のままに水を吐き続ける怪物。何も考えずに、考えられずに引き起こされた災害は、意図せずともある程度の指向性を持っていた。
──例えば、人間を目掛けて命を刈りに来るだとか。
「──邪魔だ。」
それはもう災害などではなく、一個の敵だった。そして今のベルクロスに、敵に掛ける情けは存在しない。
一時の静寂と、直後に走る雷鳴の様な衝撃。水流に逆らって光が進み、一瞬の閃光が映されて水の腕が分断されていく。雲間の空から照り注ぐ月光が刀身を飾り、その斬撃を一つの芸術として彩っていた。
斬り落とされた水は、その意思を失った様に地に零れ動かない。一通り無力化すると、水による猛攻は停止した。剣に付いた水滴を払って落とし、ベルクロスは道路に散った水を見下ろす。完全にローグ本体との繋がりを失い、ただの水溜りと化したそれが、一面に広がっていた。
「どうした、ギニル。掛かって来い。」
「はっ、化け物が。」
剣を向け、ギニルを煽る。ギニルはそれを鼻で笑い、最大級の褒め言葉で返した。次いで、告げる。
「あー、ローグの野郎は、こんなんじゃ止まらんぞ?」
ベルクロスの踏んでいた水が、ぴきりと鳴いた。その違和感に、ベルクロスが目を向ける間も無く──辺りが叫喚し、氷の樹海に満ちる。
水の精霊ローグの、無意識下でも作動する自己防衛術式。数多に編まれたそれらの一つ──散った水が、質量の概念を逸して氷塊を生む。ローグの巨体の全身に刻まれた術式の内、ベルクロスの剣が引いた引き金がそれだった。
足元から凍てつかせ、機動力を失った相手を氷の槍で貫いていく。数が多いながらに、その一つひとつが確実に息の根を止めるだけの力を持っていた。
それでも、一本の『剣』には届かない。
凍る足元を、剣を突き立てて粉砕する。自由を得た脚は高く跳ね上がり、肥大する氷の射程から退いた。そして空中で身を捻り、落下の加速度を剣に乗せる。
「ふ───」
身体のうねりに自重を加え、完璧な瞬間、角度で刃を振るう。そのたった一撃によって、巨大な氷山は真っ二つにひび割れた。
砕けた氷が宙を舞い、その中心で『剣』は凛と立っていた。氷に光が折れ曲がり、輝きが矢鱈に荒れ狂う。
──ギニルは、氷の中で最も透き通る『それ』に、目を奪われていた。
目が合う。そう、眼だった。
どこまでも透き通り、見ていると無限の眼底の深みに吸い寄せられるかと錯覚する程の無色。氷やガラス玉、宝石などとは比べ物にならない、比較さえも禁忌に思える異元の珠。それが、こちらを見ている。
喉の乾きと、胸の高鳴り。そして何より剣を持つ腕が、目の前の男を欲している。
「あー、本っ当に──化け物が。」
吐息混じりに、思わず微笑する。かつて無い高揚が、人生の絶頂が、この瞬間であると理解していた。
僅か一秒微笑むのに一体、何度剣撃を打ち込まれただろうか。
「最高だ、ベルクロス! もっと早く、剣を交えたかった!」
一文字舌を鳴らす毎に、命を晒す様な隙が生じる。それでも、言わなければならない気がした。
「純粋な魔人の血だけを引いて、魔人に生まれていれば──」
友人にでも、なっただろうか。しかしそれでは、今この瞬間の命の掛け合いも叶わなかっただろう。なればこそ──この最高の瞬間を、楽しもう。
剣を振り抜く。それはどちらからと言うでもなく、両者共に致死の一撃と確信した。互いの頸に、互いの刃が寄せられていく。
「───っ!?」
しかし、それは無数の水の腕によって妨げられる。一本では容易く斬り伏せられると学習したのか、細く分割された腕は幾十にも及んでいた。
二人は同時に後ろへ飛び下がり、立っていた場所が水によって抉られるのを目撃する。薄く、鋭くなった水の刃が、その場を埋め尽くした。
だが、その惨状にすらベルクロスは悦楽の情を以て挑む。
後退った姿勢のままに重心を下げ、大きく振りかぶった剣を捩らせる。身体を回転させながらの円状の一閃が、瞬きの間に五本の刃を圧し折った。
「魔人、か──下らん。」
次いで迫り来る水を、足を動かす事無くその場で一蹴。辺りに水が溜まっていく。
「俺は、ベルクロスだ。魔人になど、ならん。」
ガラスを割る様な音が、静かに響く。それは、ベルクロスの周囲にばら撒かれた術式の発動の前兆に他ならない。
地面が凍る。その瞬間を傍目に確認してから、ベルクロスは高く跳ね上がった。
「『半魔の末裔』の名も──返上だ!」
地面から、氷の波が爆発する。迫り上がる氷は針の如く鋭く尖り、一突きも受ければ死に至る──その先端に、足を乗せる。尚も高度を増していく氷はまるで美しい塔の様で、煌びやかに光を集める氷山の頂に君臨する『剣』は宛ら一本の宝剣とさえ言えた。
ふと横を見れば、荒れ狂う巨大な精霊が水を吐き続けていた。そしてその更に下には、奮闘する人影が見える。
「今、そちらに向かおう。この剣が──お前の、剣が。」
貸すと誓ったから、己にはそれしか無いから──この『剣』は、一人の青年の為だけに振るおう。今一度、この高揚を与えてくれた青年に、全てを──
「この身に再び剣を持たせた、お前に──!」
家名。それはこの世界に於いて、これ以上無い程に大きな意味を持つ。
──カタストロとは、ベルクロスにとっては『呪い』であった。
家名を持つ家に生まれた以上、その名は一生付き纏う。それを悪しとする者は滅多にいないが、中にはそれを忌む者もいる。家名とは祝福であり、他の人間とは違う力を持った特等の個性。その多くは当然、喜ぶべきもの。ほんの極少数──偶然にもこの都市に集った者達が、例外中の例外なのだ。
戦いを嫌い、しかしその身に魔を討つ力を宿した『ライク・グランツェル』
龍の失われた世界で、龍の僕として生きる『ラーズ・オブザーブ』
そして、そして──
900年前、人間と魔人が逢瀬し、惹かれ合い、そして築かれた家族──それら全てに等しく与えられた名を、脈々と継いできた一族の末裔『ベルクロス・カタストロ』だ。
魔族は人類の敵であり、魔族の殲滅の為に人の世は動いている。その力を、その血を持った己を、世界は当然の様に受け入れてきた。厄災の名を神に授かったというのに、皆が普通の人間として扱うのだ。ベルクロス本人だけが、その世界に疑問を抱いていた。
長い年月を掛けて薄れてきたとはいえ、一部分は魔物の血でできているのだ。それを証明するかの様に、親類の誰もが紺碧の瞳を持っていた。青い眼をした人間も多く存在こそするが、その中でも一際目立つ暗がりの青色だ。その瞳を見れば誰しもが『カタストロ』だと認識するだろうに、それを恐れも恨みもしない。等しく人間として接し、誰一人として差別する事のない、良く出来た世界だ。──だからこそ、ベルクロスは恐れた。
魔物が、『死神』が、血に何を仕込んでいるとも限らないのだ。突如魔物の血が沸き立ち人間に刃を向ける様な事があれば、疑いもせずに人間は死んでいくだろう。その可能性も考えず、家族は魔物の血から生まれる魔力で多くの人間の輪に入っていた。それが何かおぞましい気がして、一人剣と共に逃げ出した。
だが、どこへ行こうと、付いた家名は永遠に離れる事はない。各地を転々とする内に倒れ、気付けば剣も握れない程の重症となっていた。代わりに湧き出る魔力の渦が、余計にベルクロスの心を蝕んでいく。
もう剣を握る事も、立つ事もままならないのだと、小さな病室で天井を見上げていた。あわよくばこの1000年の戦い、剣と剣との戦いで人生に幕がしたいと、せめてもの願いを抱えていたのだ。
正しく、それは転機だった。今代の『付き魔法使い』の、『賢者』役が病院に訪れたのは。
曰く、魔物の大軍の襲撃があるとの事だった。それを聞いた時、この身体を無理にでも起こし、一人でも魔人を斬ってやろうと考えていた。一振り、それができれば十分だと、今日の朝まではそう思っていた。
それが、今はどうか。己の全てを剣に注ぎ、一本の『剣』となる感覚。二度と味わえないと思っていた、幼き日々の熱情がこの身を焦がしている。
紺碧の眼をした男が言う。この血を受け入れ、生きて往けと。
紺碧の眼をした女が言う。静かに、平穏に、生きて往こうと。
紺碧の眼をした男女が言う。──たった一人の、愛しの子よと。
「どうして、今更思い出すのだろうな。」
未だ未熟な、紺碧の眼を持った少年の記憶が、鮮明に浮かび上がる。十年以上も会っていない、生きているのかすらも判らない二人の、顔が、声が。
少年の眼の、紺碧が剥がれ落ちていく。それはやがて青年となって、直に成人へと育っていく。色が落ち、血が洗われ、『ベルクロス・カタストロ』の存在が消えていく。血の繋がりが、消えていく。──眼が、無へと移ろっていく。
「ああ、俺は───」
『ベルクロス・カタスト※』『ベルクロス・カタス※※』『ベルクロス・カタ※※』『ベルクロス・カ※※』『ベルクロス・※※』『ベルクロス※※』『ベルクロス※』───、
「──とんだ、親不孝者だ。」
風の音がけたたましく、氷が金切り声を上げて耳に響く。だが不思議とそれは煩くなく、寧ろここが戦いの場だと本能に伝えてくれる。垂直に程近い氷塔の壁を蹴り、真下へ向けて構えを取った。
「るあぁぁぁぁぁぁ──!!」
「おおぉぉぉぉぉぉ──!!」
無色の、何者にも染められていない瞳に、一閃の色が入る。それは獰猛で、野蛮で、力強い──剣の、色だ。黒く鈍いその鋼が、この眼を目掛けて線を引く。
最早、脳で理解する必要も無い。ただ、避けなければ死ぬ。避ければこの時間が続く。それだけの本能が脚を捻り、氷を蹴って身体を浮かせた。回り、横に跳ねた身のまま剣を構え直し、着地と同時に攻勢に動く。下は水浸しだが、その足捌きに障りは無い。間合いを詰め、剣を振る。その動作だけで、この手足にはあらゆる宝石を凌ぐ値打ちが付くだろう。
踏み込み、剣を振り下ろし、身を捻り、右に跳び、構え、再び斬り掛かる。
地を踏み、剣を弾き返し、腕を引き、剣先を突き出し、構え、再び受ける。
一度判断を誤れば負けの駆け引きを、幾百、幾千と繰り返す。細く短い生存の糸を、ただ永遠に手繰り続ける。その積み重ねの先に、二振りの『剣』だけが立っていた。いかなる他者の立ち入りも拒むその世界で、『剣』以外の存在を許さぬ世界で、笑っていた。
水も、氷も、もう敵ですらなかった。意思こそあれ、本来知性も持たぬ精霊が、触れてはいけない領域を理解したのだ。二振りのどちらの間合いに入ろうと、否、入らずとも、近寄るだけで全身に『死』の気配が走る。明確な身体を持たず、剣撃など意にも介さない筈のその生物にとって有り得ない悪寒、異常で恐ろしいものだった。
鋼の音が、鋭さを、重さを、速さを増していく。初めは荒く、不揃いだったそれが、次第に一定のリズムを獲得していった。相手の『剣』を理解し、己の『剣』を研いでいくことでその動きは最適化され、この舞は一つの形に収束する。それは音が集まり拍子を作り、奏でられた音楽に合わせる様にステップを踏むことによって生まれる歌劇の一幕だ。
今ここにこの剣舞を見る者がいたならば、動くことも、瞬くことすらもできなかったであろう。この世に創られた舞に、本物の『命』を舞台の小道具にする演目があるだろうか。この世に創られた調べに、『剣』に奏でられた旋律があるだろうか。──それを前にして、刹那でも目を閉じる愚物がいるだろうか。
一目その舞を見たならば、瞳は渇き切るまで使い潰され、剣圧の余波によって朽ち果てる。僅かでも戦の道を知る者であれば、虜にならないなど不可能、そういった、舞だ。
しかし、どの様な演目にも必ず終幕は訪れる。そしてこの舞台の結末は、演者こそが最もよく知っていた。
そも、この剣舞は片一方の剣士の終わりと、もう一方の剣士の始まりを告げる物語。どちらかが敗れ、どちらかがその上に立つ幕切れがこの一幕の大前提であり、その殊勲を手にする者がどちらであるかもとうに明白であった。
音楽は盛り上がり、舞も山場へと近付いていた。舞台の熱は急激に増し、演者達の鼓動を速めていく。その高鳴りは最高潮に達し──最後の一音が、鳴った。劇的に、壮麗に、響いた。
─────
終わりの音の余韻が、響き切った。
完全なる無音、それはこの歌劇の終幕を意味する。残されたのは、たった二人の剣士だけ。
──勝者と、敗者だけ。
大剣が、静かに二つに分かれる。まるで余韻を汚すまいとするように、静かに。
刀身の中程で分かたれたその刃は、相手の剣撃を受け止めんとしたものだった。そして、できなかった。
鍛え上げられた胸板が、朱色を撒いて大きく開いた。その一瞬で頭はふらつき、視界が掠れていく。淀んだ世界の中で見えるのは、細身の剣を大きく横に振り抜いた男の立ち姿と──
「──眼」
それだけが、はっきりと見えた。ぼやけた世界でぼやけない、などと言うと冗談にも聞こえるが、ギニルの目にはそう映ったのだ。
「───」
その眼が瞬いたのが見えたのを最後に、視界がすとんと落ちた。全身に巡るべき血が無くなり、脚が身体を支え切れなくなったのだ。膝が地に着き、半分となった剣が掌から零れ落ちる。
それを透明な瞳で一瞥し、ベルクロスは持った剣を魔力に還元した。立つ事もままならないギニルの横を通り、次なる敵の元へと歩き始める。
所詮、ベルクロスにとってギニルは通過点に過ぎないのだ。それが解っていたから、ギニルは何も言わなかった。あの美しい『剣』に魅せられた、ベルクロスの人生に転がる無数の敗者の内の一人でしかないと、解っていた。
だから、満足だった。ベルクロスの──『ベルクロス・カタストロ』ではない、『ベルクロス』の始まりに立ち会い、その『剣』に抱かれて死に往く己の人生こそ、至上であったと。
だから──、
「──ギニル」
ただの魔人ではない、一人の剣士『ギニル』としての名が、ベルクロスの口によって紡がれて良いものかと、空を仰ぐ。
「貴様の『剣』──この眼に、焼き付いた。」
互い、振り返らず、ただ一方が語るのみ。それで、充分だった。
「あー──」
低く、残りの持てる命全てを使って、声を上げる。上げて、ぼやいた。
「顔くらい、覚えといてくれや、ベルクロス。」
もう、充分過ぎる、くらいだった。
月の明かりが、背中を照らす。折れた『剣』を慈しむ様に。
──既に、ベルクロスの姿は無かった。
家族を繋ぐ物語、19話です。
ギニっちゃんの生涯、一片の悔い無し。良かった。
本編でも何度か書いていますが、この世界における家名はかなり強い意味を持ちます。それ故に、家名を与えられたり、家名持ちの人間と婚姻したりといった場面ではそれなりの儀式が必要となるのがメジャーですね。
それは家名を捨てる時も同様ですから、ベルさんのケースはかなり異例。作者は便宜上この現象を『血統打破』と勝手に呼んでいますが、ちゃんとした呼称が決まったら本編でしっかり出されると思います。
それでは皆さん、おやすみなさい。