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「…落ち着いた?」

チェリーシャが私に声をかける。

深夜の浜辺。体育座りで並んだ二人。波音は静かに繰り返している。

「…ごめんね…。怒ってるよね…?」

顔を上げずにチェリーシャが言う。俯き肩を震わせている。私はなんと答えてあげたら良いのだろう。相変わらず言葉は出てこない。

「また…。また…駄目なの?」

涙声。しゃくりあげながらチェリーシャが言う。

「ね、また、駄目なの?ねえ。やり直しても、もう、無理なの?」

え。思わず顔を上げた私と。チェリーシャの目が正面に向き合う。

「ビスマル子ちゃんなんでしょ!?」

チェリーシャが叫ぶ。

「私、わかってるよ?ビスマル子ちゃんなんだよね?私、戻ってきてくれたんだってすぐにわかった!私との約束を守るために、戻ってきてくれたんだってすぐにわかった!やり直せるんだって思ってたのに!!!」

チェリーシャの目は絶望に染まり。身体は怒りに震えている。

ああ、そうか。

私はもうどこにもいないんだ。

チェリーシャの中に私はもう。この町のどこにもいないんだ。

私のどこにもいない世界で、チェリーシャはずっと生きていたんだ。


怒ってるよ。

自然と言葉が口を衝いた。

あなたはわかっているの?弾けないのに。弾きたくても弾けなくなって、弾きたくなくなって、弾けなくなって。それでも期待の目を向けられて、弾けないピアノの前に座らされる私の気持ちが。

小さい頃ちょっとだけみんなより出来た、それだけなのに。お父さんもお母さんも学校の先生もピアノの先生も、みんな、みんな、勝手にその気になって思い込んで、無理な期待を私に被せて。

私は天才なんかじゃない。ちょっとやってすぐにわかった。私に才能なんてなかった。なんとかみんなの期待に応えるため、みんなを失望させないため、それだけのことで精一杯。すぐに才能の限界がきた。みんなを裏切りたくなくて、期待の目に応えたくて、出来ないとわかっているのにずっと、ずっと、必死で無駄な努力をして。それでも応えられなくて、失望の目を向けられる。コンテストで入賞を逃すたび向けられる憐れみの視線が、「次は頑張ろう」という言葉が、どれだけ私を傷つけてきたかあなたにわかる?

名前だってそう。ビスマル子?なにそれ。人の名前なの?強い子になるように…って、私、女の子なのに。私知ってた。お父さんは本当は男の子が欲しかったんだって。私はピアノで注目を浴びることしかお父さんにとって価値のない子なんだって。

私は全然正常なのに。ピアノが弾けなくなった途端に病気扱いされて、こんなロシアの田舎に送られて、精神病院に閉じ込められて。悔しくて、情けなくて、ただ、かなしくて。ピアノに触っただけで嘔吐して大小便漏らして自分のうんことおしっこの中を転げ回る私を見るのは楽しかった?自分のうんこを踏んづけて無様に転んで頭を割った私はどんな気持ちだったと思う?死にたかったわ。だから死んだの。この浜辺から、シベリアの海に飛び込んで。泳げないから溺れて死んだの。あなたのお母さんは私が日本に帰って交通事故で死んだってあなたに伝えたみたいだけど。あなた以外はみんな知ってる。私は日本に帰らなかった、シベリアの海で自殺したの。悔しくて情けなくて悲しくて、あなたを恨みながらここで死んだの。死体はすぐに見つかったそうよ。げろとうんことおしっこまみれで。それは酷いものだったらしいわ。


ああ。


私は何を言っているんだろう。

私はいったい誰なんだろう。

チェリーシャは震えながら私を見ている。

チェリーシャ。私はビスマル子ちゃんじゃないよ。ビスマル子ちゃんも私じゃない。ビスマル子ちゃんはもうどこにもいない。私ももうどこにもいない。

だから。

一緒にいこう。

チェリーシャも一緒にいこうよ。

私たちはずっと一緒だった。小さい頃から一緒だった。

私は絶対チェリーシャを離さないから。

私たちはずっと一緒だから。

だから。

お願いチェリーシャ。一緒にいこう。

もう、これでおしまいにしよう。

私たちの世界をおしまいにしよう。

腕の中でチェリーシャが頷く。


「うん…一緒に行く。」


「私たちずっと一緒だよ。」


「ね。」


「ビスマル子ちゃん。」





潮騒。






* * * * * * * * *




「…娘さんは身体のダメージもありますが…精神的な負担も相当なものと思います。立て続けに二人もお友達を失っては。しばらくは…その、お友達の事は伏せておいた方が。その。お友達…残念、でした。」

「いえ…。娘のこと、ありがとうございました。チェリーシャの事は私からうまく話しておきます。」


お医者様の先生と。お母さんが何か話している。

病院(オスピタラ)。白い壁、白い天井。窓から午後の西陽が射し込む。


私は死ななかった。死ねなかった。ロシアの荒海で育った私の身体が、水の中で死ぬことを許さなかった。

絶対に離さないから。ずっと一緒だから。そう誓った手はあっさりと(ほど)け、大切なものはすり抜けていった。

私が大切に抱きしめたのは、結局自分の命だった。

頭が重くて、沈みそうで。思わず身体を持ち上げる。お母さんが驚いた顔で私を見ている。

「聴いていたの?そう…。チェリーシャ、亡くなったの。でも、あなたはそうして生きられた…辛いと思うけど。あなたはチェリーシャの分まで、しっかり生きていかなきゃ駄目。気をしっかり持つのよ。」


うん。わかってる。

わかってるよ。

大丈夫だよ。

私、わかってるから。

大丈夫だよ。

ね。

チェリーシャ。


「あなた…。」

「動揺されているようです。今は少し、そっとしておいてあげた方が。」

お医者様の先生に促され、チェリーシャは病室(へや)を出ていく。振り返り、振り返り、心配そうに私を見ている。


心配しなくても大丈夫だよ。

私、ちゃんとわかってるから。

戻ってきてくれたんだよね?

これからやり直せるんだよね?

私。

すぐにわかったよ。

















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