応
「ビスマル子ちゃん!ビスマル子ちゃん!」
チェリーシャは今日も元気に明るく笑う。
チェリーシャの目の前にいる私は、彼女には誰に見えているのだろう。チェリーシャの中では目の前の私は、いったいどこにいるのだろう。この頃の私にはチェリーシャの無邪気な笑顔が、ひどく無機質な、無表情なものに見え始めている。彼女に私はどう見えているのだろう。
「あー!ビスマル子ちゃん、またちゃんと聴いてなかったでしょー?」
ぷぅ、とむくれてみせるチェリーシャ。確かに聴いてはいなかったが。それは聴きたくなくて聴かなかったんじゃない。この頃の私にはチェリーシャの言葉が、意味のある言葉として伝わらないんだ。
彼女の発する言葉はわかる。言葉の意味はわかるんだ。だけど、チェリーシャが何を言いたいのか、私に何を伝えたいのか。それが私にはわかっていない。
「もー!傷つくんだからね、そういうの。寂しい年寄りをひとりぼっちにしないでおくれよ…。」
そんな風におどけられても。私には、そんな年じゃないでしょ、同い年だよ。そう答えて、困ったように微笑むのが精一杯だ。チェリーシャは誰と話しているのだろう。ひとりぼっちのチェリーシャの中では、病室には何人の人がいるのだろう。
チェリーシャの世界の中で、いま、私はどこにいるのか。私にはチェリーシャがもうわからない。
「ね。」
チェリーシャが身を乗り出して迫る。
「ビスマル子ちゃん、今夜、空いてる?今夜、抜け出すことできる?」
ずいずいとチェリーシャの笑顔が迫る。目をきらきらと輝かせ。これから起きる「素敵なこと」への、期待で頭がいっぱいの。有無を言わせぬいつもの顔だ。
「ヨシ!決まりだからね、今夜!絶対だよ?約束だよ!あー!楽しみだなぁ!!」
チェリーシャは窓の外へと目を遣っている。彼女の決めた「素敵なこと」。彼女にしかわからない「素敵なこと」。言い出したら聞かない強引なチェリーシャ。子供の頃から何度も見てきた、いつもの明るく元気なチェリーシャ。彼女は窓の外に彼女にしか見えない未来を見ている。
私はなんと答えてあげたら良いのだろう。子供の頃のあの日のように。チェリーシャと同じ未来を見て、目を輝かせてあげればいいのか。私にはもう見えてないのに。
私はただ。
困ったように、微笑むだけだ。
* * * * * * * * *
どこに行くの?と問う私に。いいから!いいから!と笑うチェリーシャ。
深夜の国道、チェリーシャの漕ぐ私の自転車、二人乗り。
病院を抜け出してきたチェリーシャは、元気過ぎる脚で自転車を漕ぐ。生暖かい夜の潮風、頬を撫でるのを振り切って進む。
ふん、ふん、とペダルを踏むチェリーシャ。私の自転車、二人乗り。丘の坂道進まぬ自転車、元気な病人が力を込める。
「到着!」
誇らしげに手を広げる彼女。深夜の学校、音楽室。窓から射し込む月灯り。青白く浮かんだグランドピアノ。期待できらきら輝く目。
「考えてみたら私さー、ビスマル子ちゃんのピアノ、ちゃんと聴かせてもらったこと、一度もなかったな、て思って。ね、お願い!コンテスト出る前に。日本にいっちゃう前に1回だけ、私にピアノ聴かせてよ。ちょっとだけでいいから…ね?」
上目遣いのチェリーシャの目。彼女は誰を見ているのだろう。
私が弾くの?私がピアノ…弾かなきゃいけないの?
「ね、約束、覚えてるよね!夏休み終わったら二人で曲作って、二人で一緒に歌おうって!私ね、ビスマル子ちゃんがコンテストで弾く曲…ビスマル子ちゃんが優勝する曲で歌いたい!ビスマル子ちゃんが日本から帰ってくるまでに、曲に歌詞を付けておくから!ね、そしたら二人で歌えるでしょ?だから…お願い?」
チェリーシャはじっと私を見ている。有無を言わせぬいつもの顔。人の話を聴かないチェリーシャ。逃げるように泳がせた目にピアノが映り、背中にゾクリと悪寒が走る。
私が弾くの?無理だよ。弾けるわけないよ。
怖々と伸ばした私の指が、震えながら鍵盤に触れる。
ピン。
たった一音、ピアノの硬質な高い音。夜の校舎の静寂に消える。
「?」
鍵盤に指を置いた姿勢のそのまま、動きの止まったままの私を。不思議そうな目でチェリーシャが見ている。
沈黙。バク、バク、と鼓動が速まり、食道が意図せずに痙攣を起こす。
おうっえ。
胃から一気にせりあがったものが私の口中いっぱいに広がり、栗鼠のように頬袋を膨らませる。慌てて両手で口を押さえるも間に合わず、私の意志に従わない身体、ビチャビチャビチャと足元に私の吐いた胃液が拡がる。立ちのぼる不快な異臭。臭い。自分の吐いたものでも胃液は臭いんだ。
「ビスマル子ちゃん!?え!?え!?」
動揺したチェリーシャが信じられないものを見る目で私を見ている。駄目。見ないで。私を見ないで。失望の目で私を見ないで。
チェリーシャの目を意識したとたん、私の内臓はぐるぐると鳴り。お腹を押さえてしゃがみ込むと同時に唸りを上げて動く大腸。ブボッブビッブビバッ。気体と固体と液体の、同時に身体から漏れ出ていく音。モコモコモコと。下着とお尻の間が膨らむ。数秒遅れて溢れ出てきた、じんわりと温かい水たまりに私の脚が浸かっていき、ピチャ、ピチャリと水音を立てる。
あ、あ、あ。
解放の悦びと羞恥心、人間としての尊厳が粉々に打ち砕かれた快感。
あぁーっ!!!
恍惚の中で絶頂を迎えた私の身体が、びくんびくんと幾度も跳ねる。
「ビスマル子…ちゃん?ね、どうしちゃったの…?大丈夫なの…?」
あまりのことにチェリーシャは言葉を失い、涙を浮かべてガタガタと震えている。駄目。失望しないで。私に失望しないで。
「知らなかった!!私、ビスマル子ちゃんの病気がこんなに酷かったなんて知らなかったの!ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!!」
チェリーシャは何度も何度も頭を下げる。駄目。そんな事を言わないで。優しい言葉をかけないで。憐れみの目で私を見ないで。
震える指が鍵盤に伸びる。
ダン。
僅かに触れた指先が、重く低い音を響かせる。ざわ、ざわ、ざわ。波打つように指先から、音の残滓が這い昇ってくる。
むっげぇええええええええええええ!!!!!
数千の虫が肌歩き回るような劇烈な痒み。私は首筋を掻きむしり、掻きむしり、指に血が滲んでも飽きたらずガリガリガリと掻きむしり、それでも止まらずに転げ回る。
あがっ!あっ!あがっ!!
足元で無様に転がる私を、チェリーシャが激しく揺さぶっている。
「もういい!もういいよビスマル子ちゃん!私が悪かったの!私が悪かったから!!もうやめよう?ね、お願い、もうやめようよ!!」
駄目。期待。期待に応えなきゃ。私は期待に応えナきゃ。コンテストニ出るの。優勝スルの。チェリーシャに聴かせルの。ぴあの。曲…。
力の入らない脚でふらふらと、私は漆黒のピアノへと向かう。私は誰なんだろう。私は何を考えているんだろう。私は何をやっているんだろう。チェリーシャ。ビスマル子ちゃん。私は誰なの?
ずるりと滑る間隔のあと、私の身体から重力が消える。自分の吐瀉物と排泄物に足を取られた私の身体は宙に浮かんだ勢いのまま、鍵盤の海へ飛び込んでいく。
ダララポン。
不協和音と同時に火花。衝撃が脳を噴火させる。激痛と悔しさと情けなさと、ただ、かなしいという感情。
「ビスマル子ちゃん!ひ、額が割れてる!!血が出てるよ!ビスマル子ちゃん!!」
チェリーシャの声が遠く聴こえる。
私はどこにいるんだろう。
私はどうすれば良かったのかな。