死
「ビスマル子ちゃん!おはよー!!」
今日もチェリーシャは元気に明るく笑う。
いつもの部屋のいつもの時間。窓から午後の西陽が射し込み、真白い壁を眩しく照らす。
「今日もあっついねー!ビスマル子ちゃん!!」
空調のよく効いた部屋の中はバス停から海沿いの国道を20分ほど歩いてきた私にはかなり涼しく感じられるが。輝く小さな太陽のようなチェリーシャの笑顔に釣られ、私はついつい、そうだね、暑いね、と彼女に話を合わせてしまう。
「あー!ビスマル子ちゃんまたそうやって軽く流すんだから!!傷つくんだからね?そういうの!!」
ぷぅ、とむくれてみせるチェリーシャ。こんな時。私はなんと答えてあげたら良いのだろう。そう言われても私には、ははっ、と乾いた笑いを返すことしかできない。
「ね、ね、学校はどう?なにか変わったこととかあった?」
目を輝かせ。身を乗り出さんばかりにチェリーシャの問い掛け、これもいつもの質問だ。
やだなチェリーシャ、まだ夏休みだよ。反応に困った私はいつもの通り、必要な事だけを彼女に伝える。
「え?あぁ、そっかー。いやぁー、こんなところにズッといると、時間とか曜日の間隔がおかしくなっちゃってさー。もうすっかりボケ老人だよ、徘徊老人だよ。おいバァさん、飯はまだですかねェ?」
おどけるチェリーシャ。無理もないな、と私は思う。チェリーシャがこの部屋に入ってからもう大分経つし、私がここへ来るときはいつも学校の制服だからだ。彼女が勘違いしているのも無理はない。
徘徊しちゃうの?と私が尋ね返したのは単純に、その部分を面白いと感じたからだ。他意のない言葉ではあったのだが、明るく輝いていたチェリーシャの顔はたちまちに、夕立のように曇ってしまう。
「…早く退院したいな…。」
寂しげにチェリーシャは窓の外を見る。
「私ね、ボケたおじいちゃんやおばあちゃんが徘徊しちゃうの、なんだかわかる気がするんだ。ズッとこの部屋の中にいるとね。変化が無さすぎて。自分だけが取り残されているうちに、みんな変わって、いなくなっちゃうんじゃないか、って。不安で不安で仕方なくなるの。外に出て、なんでも良いから情報を得たい。変わったことが起きていないか、自分の目で確認したい。そう思って、じっとしていられなくなるんじゃないか、って。」
チェリーシャはずっと窓の外を見ている。私は何を言ってあげたら良いのだろう。何と答えてあげたら良いのだろう。大丈夫だよ。ようやく出てきた言葉はそれだが。何が大丈夫だと言うのだろう。
「あ~あ!何がダメなのかなあ?何が問題なのかあ?こんなに元気なのに。ね、ビスマル子ちゃん。私…退院したらさ、前に言ってた歌のハナシ。本格的にやってみようと思うんだ!一生懸命練習して、ビスマル子ちゃんのピアノに負けない歌を歌えるようになる!!ビスマル子ちゃんのコンテストが終わる頃には私きっと退院できるから、次は二人で一緒に頑張ろう?ね、いいよね?ビスマル子ちゃん!!」
チェリーシャが私の手を握る。訴えるようなチェリーシャの目。私は内心の動揺を悟られぬよう、微笑みを作り手を握り返す。
「楽しみだね!あ~あ!早く練習したいのになあ。このままじゃ私、あっという間にボケおばあちゃんになっちゃうよ…。」
楽しい未来への期待と現在の自分への不安。眼を潤ませた泣き笑い。最近のチェリーシャは弱気な言葉が目に見えて増えた。やりたいことも始められず、やりたいことに何も出来ず、ベッドの上で暮らす日々。明るく活発なチェリーシャの心は憂鬱の虫の喰い跡が増え、次第に脆くなってきている。
確かにチェリーシャは元気だ。元気過ぎる病人だ。私たちの住む港町の外れ、浜辺の丘に建つ学校。そこからさらに奥に進んだ、バス停もない、人も来ない、町から隔絶されたような病院。病室に居るのが不思議なくらい、チェリーシャは相変わらず、今日も元気だ。
季節は既に秋近く、とっくに夏休みは終わっているし。
私がここに来るのはいつも学校の帰りなんだけど、そんなことはたいした問題じゃない。
元気過ぎるチェリーシャの声は病室で話すには少し大きすぎるけど、そんなこともたいした問題じゃない。
では、何が問題なのだろう。
それは、私がビスマル子ちゃんじゃないということだ。
* * * * * * * * *
ソビエト共和国連邦の南、寂れた漁港。帝政ロシアの滅んでからは、この町も連邦の一部となり。町の名前も変わったが、住んでいる私たちにとっては変わらぬ故郷。変わることない寂れた漁港。私とチェリーシャはこの町に育った。
いつも明るく活発なチェリーシャと、私は会ってすぐに仲良しになった。毎日一緒に遊んで、学校に行って、悪戯をして叱られて、喧嘩をして、仲直りして、喧嘩して、仲直りして、喧嘩して、仲直りして。何回も何回も喧嘩したけど、それでも必ず仲直りした。嬉しいことも、楽しいことも、辛いことも、悲しいことも、ずっと一緒に経験してきた。いつでも二人で一緒だった。
ビスマル子ちゃんがこの町に来たのは高校2年の春のこと。そう、今年の春のこと。学校の丘の麓の浜辺で、打ち寄せる波に手を伸ばしていた。ビスマル子ちゃんをチェリーシャが見かけた事が出会い、だったそうだ。
遠い日本という国から来たという、神秘的な東洋人の転校生。好奇心旺盛なチェリーシャはすぐにビスマル子ちゃんに夢中になった。ビスマル子ちゃん、日本ではなんでハラキリをするの。ビスマル子ちゃん、ニンジャはなんで空を飛べるの。ビスマル子ちゃん、無重力状態って本当に体が浮くの。ビスマル子ちゃん、ビスマル子ちゃん、ビスマル子ちゃん。
物静かで控えめなビスマル子ちゃんはいつも、困ったように微笑んでいた。ごめんね、チェリーシャはいつもこうだから。私はチェリーシャの替わりに謝っていたが。彼女は困ったように微笑んでいた。
ビスマル子ちゃん、ビスマル子ちゃんって変わった名前だね!!チェリーシャがそう言った時も。ビスマル子ちゃんはちょっとだけ眉をしかめて、でも、困ったように微笑んでいた。
ビスマル子ちゃんのお父さんは帝国海軍の将軍様で。同盟国のドイツ帝国、鉄血宰相と名高いビスマルク閣下にあやかって。強い子に育つように、と名前をつけた、のだそうだ。
かっこいいね!!目を輝かせるチェリーシャに。そうかな、あんまり名前、誉められたことないから…と言葉少なに返す彼女は、やっぱり困ったように微笑んでいた。
ビスマル子ちゃんは病気がちで、学校をよく休んでいた。そんな日にはチェリーシャは決まって、学校帰りにお見舞いに行った。
私たちの学校の丘のバス停から、歩いてだいたい20分。町のはずれのまたはずれ、そこだけ世界から切り取られた白い病院。ビスマル子ちゃんはその一室で、いつも窓から外を見ていた。
ビスマル子ちゃん、今日、学校でね!ビスマル子ちゃん、あの先生ったらね!ビスマル子ちゃん、ビスマル子ちゃん。病室で話すには大きすぎる声のチェリーシャの話を、ビスマル子ちゃんはいつも、そうね、そうなの、と軽く流して聴いている。私は二人の話す姿を、この病室でいつも見ていた。
ビスマル子ちゃんがピアノが弾けると知った時も、チェリーシャはすぐに飛びついた。そんな、弾ける、なんてものじゃないのよ。謙遜するビスマル子ちゃんには聴く耳を持たず。どこから仕入れてきたのか、ビスマル子ちゃんが日本では天才美少女ピアニストと呼ばれていたこと。今は病気でピアノが弾けないこと。病気の療養のため空気の綺麗なこの町へ来たことをあっという間に突き止めてきた。
チェリーシャは目を輝かせ。すごいね!すごいね!すごいね!と、ビスマル子ちゃんを憧れの目で見た。実はね!私もね、私もね、将来は歌手になりたいんだ!ずっと、やってみたいと思ってたんだ!ね、この出会いって必然だよ、絶対、運命の出会いだよ!ビスマル子ちゃん、私と組もう?私が歌って、ビスマル子ちゃんがピアノを弾くの!二人で曲を作ったり、二人で歌詞を書いたりして、それってすごく素敵じゃない?ね、やろう!絶対やろう!約束だよ、絶対、約束!!
強引なチェリーシャを無下にも出来ず。ビスマル子ちゃんは今は病気の治療があるから。私の病気が治ったらね?と、いつも困って答えていた。いつ?ね、いつごろ治る?子どもみたいな無茶を言うチェリーシャに。夏休み終わった頃にね。いつも彼女は答えていた。
ビスマル子ちゃんが夏休みに日本のピアノのコンテストに出ることを、やはりチェリーシャはどこからともなく聞き付けてきた。すごいね!すごいね!と息も荒く、本人より興奮していたチェリーシャに。ビスマル子ちゃんはまだ、出られるかわからないから…と困ったように微笑んでいた。絶対優勝だよね!頑張ってね!話を聴かないチェリーシャのエールを。彼女は困った顔で聴いていた。
ビスマル子ちゃんが日本に帰ったのは夏休みももう終わりになる頃。
港から出るビスマル子ちゃんの船を、チェリーシャはいつまでも見送っていた。
ビスマル子ちゃんは日本へ還った。
そして。
二度と戻ってこなかった。