第1章 闇の勇者 2話 かませ犬な勇者と俺
よろしくお願いします。
ーー山神幻夜の腹部には大きな穴が穿たれていた。
これは、もう死んでしまうよね?
「あぁ、始まりますな」
老紳士アレクサンドル・ダイヤフェザーは場違いにも、慈愛に満ちた表情で今まさに命の灯火が潰えようとする幻夜を見下ろし言う。
「何だそれは・・・有り得ないっ」
真紅の外套に身を包んだ銀髪の男は、狐の目を想起させる瞳を大きく見開き、自らが幻夜に穿った箇所を凝視する。
「有り得ない事など何一つとしてありませんな。それに、此度の勇者様は少々毛色が違いまして、あなた方の知るそれとは全く違う存在です」
幻夜は激痛に呻きながら地面に音を立てて倒れ伏す。
ーー痛い、熱い、苦しいっ!
嫌だ、死にたくない!
俺はまだ何一つ残せていない、俺はまだ何も成せていない、俺は・・・
そのとき、幻夜の腹部に大きく開いた穴から、黒い何かが徐々に吐血に塗れた顔面へとせり上がってくる。
それは黒い霧のような、液体のような、なんとも不可思議な形状だった。
ニタリッ。
瞬間、それが笑ったと感じた。
何故それが笑ったと感じたのか幻夜には分からないが、確かにそれが笑ったのだと幻夜は確信に似た感覚を自らの死に体で感じていた。
倒れ伏す幻夜を、それが包む。
我が子を愛しげに抱くように優しく包み込んでくるそれは、睦言を語らう情人のように甘美な響きと共に幻夜の耳元で囁く。
『今この時より妾は其方の所有物。今この時より其方は妾の所有物。互いに愛し、互いに利用し、互いに喰らいあおう』
な、何を・・・?
『さあ、契約はここに完了した。妾たちに仇なす者共を全て喰らおう』
何なんだよっ!
『呼べ、妾の名を』
チクショーッ! 何なんだよ一体っ!
『妾の真名は・・・』
俺が一体何をしたっ! どいつもこいつも俺を無視しやがってっ! もうどうにでもなれってんだっ! 呼んでやるよ! 呼べばいいんだろっ! 呼ぶから・・・
死にたくない。 助けて・・・。
「『メフィストフェレスッ!』」
黒い霧のような、液体のような幻夜を包むそいつは、大きく穿たれた穴へと吸い込まれていく。
「『その堕ちた魂ごと貴様を喰らってやる」』
幻夜から発せられた声なのだが、幻夜自身にも信じられないほど怜悧な響きを乗せて、相手の耳朶を打つ。
狐目の銀髪男は幻夜を、次いでその背後に目を遣り壊れた玩具のように笑い出す。
「こんな、こんな存在が勇者な訳がない」
「お前に勇者の何が理解出来ると言うのだっ」
怒気を孕んだ声音が、それまで成り行きを静観していた老紳士アレクサンドルの口から放たれた。
だが、男の耳には届いておらず、男の特徴的な狐目は幾度も痙攣し、口元からは涎を垂れ流す。
恐怖のあまり男は失禁するが、自身は失禁したことすら知らずにただひたすら譫言を口にしている。
「こんなはずじゃないこんなはずじゃないこんなはずしゃないこんなはずじゃないこんな・・・」
「『さぁ、お前の魂を妾に寄越せ」』
「いやだいやだいやだいやだいやだいやだっ」
「『闇の晩餐」』
「あああぁぁっ」
男の悲痛な叫びが、幻夜の身体に心地良さを運び、その嘆きはこれまで感じたことのない快楽を幻夜に齎す。
「ここからです。ここから世界を救いましょう。我が主、山神幻夜様」
その声を聞きながら、幻夜の意識は闇に沈んでいくのだった。
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勇者エボニー・ミラージュ。
彼は辺境の村で生まれ育ったごく普通の少年だった。
両親は農業を営んでおり、貧しくはあるが彼は自分の人生に不満を抱くことは無かった。
彼には恋人がいた。
名前はマシェリー。
彼女はそばかすをコンプレックスに思っていたようだったが、彼は彼女が嫌うそばかすも含めてマシェリーの全てが好きだった。
もう何年かすれば、彼は彼女を娶り両親の跡を継いで二人で農業を営んで行くのだと信じて疑わなかった。
しかし、そんな平穏な日々はそう長くは続かなかった。
ある時村に王国の一部隊がやって来た。こんな辺境の地に何の用だろう。
村の誰もが疑問に思うことを、当然彼も考える。
「この地で勇者様が降臨するとの御宣託があった」
ダイヤフェザーの地で千年の歴史を誇る王国、スフォルツェンド。
その王国にて、勇者の降臨を国の歴史と共に見守ってきた勇者教の司祭が放った言葉にエボニーを始め、村の人々は動揺を隠せずにいる。
勇者といえば、世に跋扈する魑魅魍魎を撃ち払い、世界を救う伝説上の存在だった。
だが、勇者は五百年前、突如この世界から消えてしまった。
ダイヤフェザーに住まうものであれば、誰もが知っている有名な勇者の物語。
『反旗の勇者』
それまで、『光の勇者』として人々に崇められていた勇者が最後の戦いを目前にして、反旗を翻し仲間を惨殺せしめたのだ。
『光の勇者』フェニックス・ダイヤフェザーはその全身を仲間の血で汚し、五人の仲間たちの遺体を袋に入れて王都に持ち帰ったのである。
彼は言った。
「この世界に救う価値などあるのだろうか・・・」
誰もが彼に事情を求めた。
何があったのか。
「僕が皆を殺した・・・」
一言、彼は言うとその場を去った。
それまで彼を信じていた人々は、彼の言葉に衝撃を受け、次いで激しい怒りに駆られた。
当時のスフォルツェンド国王はすぐに追手を放ったが、その後フェニックス・ダイヤフェザーの行方は分からないまま時が過ぎていった。
過去にそのような事態が起きたことに危惧を抱いた国王は、勇者を自分たちで探すことにしたのだった。
そもそも勇者とは、なろうと思ってなれる存在ではなく、この世界が本当に必要とした時に現れる、謂わば世界の特効薬のような存在なのである。
曰く、勇者には勇者足る御印があったとされている。
その御印とは、手の甲に出現する太陽と月が交差したように見える烙印である。
セフィロトの世界樹で作られた模造武具に選ばれた者の手の甲に、勇者の証として烙印は現れると伝承されている。
過去に勇者とその仲間たちがエルフの長から授かったという伝説級の武具は、全部で五つ有り、現在その存在が確認されているのは『風の勇者』アルデバラン・ユリエルが持つ木弓のみである。
模造武具には、それぞれ精霊たちの加護が施されている。
木剣には光。
木弓には風。
木槍には火。
木斧には土。
木拳には水。
「この地に勇者様が降臨なされる」
司祭は再び言うと、皆を見渡す。
「ここに、勇者様の御印である火の精霊の加護を受けた木槍がある。今から皆にはこの木槍に触れてもらい、誰が勇者様なのか選別する」
「勇者様だって?」
「こんな村に勇者様が!」
口々に興奮を露わにする村人たち。
司祭率いる王国軍に一列に並べさせられた村人たちの中で、彼もその順番を待っていた。
「では次の者」
「はい」
「名前は?」
「エボニー・ミラージュです」
「うむ。ではこの木槍を手に取るが良い。もしお主が勇者様で有るのならば、御印が手の甲に刻まれるであろう」
司祭から渡される木槍を手に取る。
「・・・・・・」
何も感じない。
しかし、次の瞬間全身を焼き尽くすような激しい痛みが彼を覆い始めた。
「がぁっ!」
まるで、穴という穴から火が湧き出るような感覚が彼を支配している。
「おおっ!」
司祭の感嘆の声が彼の耳に届く。
「ここに、御託宣通り『火の勇者』様が御降臨なされた! 勇者様の名は、エボニー・ミラージュ様!」
痛みが徐々に収まってくる。
「勇者様だ!」
「二人目の勇者様だ!」
「この村から勇者様が現れた!」
村人たちの歓喜の声が聞こえる。
「・・・俺が勇者?」
「左様でございます。『火の勇者』様」
司祭はうやうやしく頭を垂れると続けて言った。
「世界が危機に瀕しております。災厄がもう間も無く我等を飲み込むでしょう。どうか、我等をお護りください『火の勇者』エボニー・ミラージュ様」
「・・・エボニー」
彼の恋人、マシェリーがいつのまにか側に来ていた。
「俺は・・・」
「もう、私だけのエボニーではいられないよね」
悲しげに目蓋を閉じると、次には笑顔を浮かべ言う。
「どうか我等をお護りください『火の勇者様』」
その瞬間、彼は悟る。
もう、今までのようにマシェリーと他愛の無いことで笑い合うことが出来ないのだと。
互いに愛を語らい、慈しみ合うことが出来ないのだと、マシェリーの表情から伺えた。
彼は勇者などに成りたくは無かった。
自分以外の者が勇者であってくれたらどんなに良かったか。
彼はただ、恋人と寄り添い合い、小さな幸せを噛み締めていたかっただけなのに。
だけどそんなことを人々は許さないだろう。
勇者とは世界を災厄の存在から守る者のこと。
勇者とは人々を護る、尊き存在なのだと世界が彼を求める。
「・・・・・・」
そして、エボニー・ミラージュという存在はゆっくりと死んでいくのだった。
彼という存在が世界から消え『火の勇者』エボニー・ミラージュが誕生する。
世界が彼を勇者として見るのなら、世界を救い恋人との時間を取り戻す。
そのためにはどんなことでもしてやる。
こうして、後に悪鬼羅刹と呼ばれる壊れた『火の勇者』エボニー・ミラージュが誕生したのである。
え?
何これ?
最後まで読んでいただきありがとうございます。