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モデルの女

プールヴィルの断崖の上から…

その日の夕暮れは台風が近づき海が白波を立ててました。

私があの断崖に着くと一人のうら若い女性が崖の縁に立っていたのです。

長い黒髪が強風に乱れ、白く薄いブラウスが体に密着し、その美しい輪郭線が露わになってました。

現実とは思えないその光景に幻惑されたのでしょうか…私は彼女に近づき声を掛けたのです。


大丈夫ですか…


彼女が振り向くと、想像を絶するほどの美人で、私は微かな戦慄を覚えました。

それは女優などという「造花」ではなく、ハイネが詩に描いた禁断の精霊を想わせるものでした。

彼女が纏う哀しくて妖しい雰囲気は、私に彼女の深淵を予感させたのです。


何かに悩んでるのですか

良ければ話しを聞かせて下さい…


その瞳から一筋の涙が落ちました。


彼女を車に乗せて山道をしばらく走ると、古風でモダンな雰囲気の居酒屋がありました。

中に入ると壁には数々の絵画が飾られ、モネの風景画やルノワールの肖像画を想わせるそれらの絵画が不思議な空間を創ってました。


飲み物がきて落ち着いたころ、彼女にそっと話し掛けました。


私も死のうと思い崖にいったのです

でもあなたの姿を見たら、なぜか…どうしても助けたくなったのです…


それは弱く、か細い声でした。


はい…


家はどちらですか、私が車で送りますよ…


私に休む場所はありません…


それ以上彼女は何も答えず、私はもう何も尋ねるべきではないと思いました。


別れれば彼女は崖に戻るに違いない

警察に連れて行っても結局彼女は死ぬだろう

可哀想だな…

それにしても何て綺麗な女なんだ…


良ければ…私の家で休みませんか…


どんな卑劣な人間でも、自分を卑劣とは認めたくはないのです。

決して彼女の体には触れないと自分に誓いました。


私は両親を事故で亡くしてからは、自宅をアトリエにして一人孤独に絵を描きながら暮らしていました。

その夜は彼女を居間のソファーベッドに寝かせ、二階の自分の部屋で休みました。


懐かしい夢を観ました。

亡き母が、居間のピアノで生前に愛していたモーツァルトの幻想曲を弾いていたのです。

その清らかで神々しい音の流れに目が覚めました。


起き上がり居間に降りていくと、眩しい朝の光が降りそそぐなか彼女がピアノを弾いてました。

煌めく光と美しい旋律が織りなすその幻想的な空間のなか、ピアノと戯れる彼女の横顔は、ルノワールが描いたあのイレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢そのものでした。


この情景を描きたい…


私は何かに憑かれたように彼女を描き、完成した絵に驚きました。

自分が描いたとは信じられません。

ルノワールにも引けを取らないと思いました。


私は狂ったように彼女を描き続け、ついに作品は数々の有名な公募展で入賞し、私はプロの画家たちからも注目されるようになりました。

それでも彼女を描きたいという狂熱は治らず、ついに彼女の裸体を描きたいと思うまでになったのです。

己の誓いなど忘れてました。

私は己の慾望を抑えることができなかったのです。


実は君にお願いしたいことが…


私を見つめる彼女の瞳には純潔な心が溢れてました。


私のすべてを描いて下さい

ずっとあなたのそばにいたいのです…


彼女の裸体は驚くべきものでした。

その肉体は、もはや詩であり、音楽であり、完璧な芸術作品でした。

私は美の女神アフロディーテさえ凌駕するその神秘的な芸術作品をむさぼるようにキャンバスに写しました。

私の描いた彼女の裸体画は大変な注目を集め、ついに私は新進気鋭の画家として美術雑誌にも紹介されたのです。


幸福な日々でした。

あの手紙が届くまでは…

それは彼女を誹謗中傷する内容でした。


貴様のモデルは不浄の娘だ

罪人とその母の間に生まれた罪の子だ…


私は少し不安になり色々調べてみると、ある事実がわかりました。

この地方の、とある富豪の一人息子が凶悪な犯罪を犯し、既に刑が執行されていたこと。

その犯罪者に一人娘がいたこと。

さらに都市伝説ではあるが、その娘は犯罪者とその母の間に生まれた子との醜聞も見つかりました。

もしそれが事実であれば娘の年齢は丁度彼女ぐらい…


ふと後ろを振り向くと彼女が立っており、その瞳から涙が溢れてました。


その日の夕暮れ、彼女は消えました。

私はあの断崖に急いで向かいましたが着いたときにはもう彼女の姿はありませんでした。

彼女は死んだのか…

それとも牝牛にされたイオのように空蝉を彷徨っているのか…


ふと思いました。

もしかしたら彼女はあの古風な居酒屋にいるのではと。

あの店で私が迎えに来るのを待っているのではと。


一縷の希望を胸に、急いで居酒屋に向かい、その赤い暖簾をくぐり、必死に彼女を探したのです。


しかし彼女は何処にもいませんでした…


私が彼女を殺したのです…

卑劣なこの私は彼女に疑念をいだき、その無垢の信頼を穢したのです。

私はあおるように酒を飲み、酔い潰れ、泣き崩れました…

そんな私を女将が心配して、そばに来て慰めくれたのです。

彼女に自分の罪を全て告白すると、その優しい女将は言いました。


きっとあの子はどこかで遊んでるわ…


壁に掛かる絵画のなかの一人の少女が、私に微笑んだような気がしました…


おわり



愛しけやし 断崖の上に立ちし女 白妙の裾

翻しては 永遠に堕ち行く…

…München


はしけやし きりぎしのへにたちしひと

しらたへのすそ ひるがへしては とはにをちゆく…

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