五章 そして私は常の地へ帰る(後)
何かの声を聞いた気がした。
"目を覚まして、舞永吊。"
目を覚まし、布団から起きる。
長い間眠っていたような気怠い感覚が全身を伝う。
今が何時だったのか、季節がいつだったのかすらも忘れてしまいそうだった。
これが…私の見てきた本当の過去…だった?
鏡を見ると私はずっと号泣していたのが分かった。
顔には何度も涙が伝った跡があり、皮膚が乾いていて、布団の枕は色濃く湿っていた。
何故こんなにも、思い起こすことは涙を流してしまうんだろう。
そしてまた私の頭の中には、カホちゃんの最後の姿が何度も浮かんでいた。
既に世界の仕組みがおかしかった。
泣き叫ぶ子ども達を食い散らす世界だった。
仲間を、友達を、自分の欲のために。
泣き叫んでいるのに、その首を裂き…食べ始める。
「そんな世界だったんだよ、この世は。」
◇
…
今、自分は倫想苑の郷に居るってことを思い出してから、洗面所に行って顔を洗っていた。
洗面所はとても広くて、部屋を出て皆で共有で使っている所にある。
先に居た人に、おはようと朝の挨拶を交わしてから、顔を洗い終わったあと、タオルで水滴を拭いていると、声を掛けられた。
「あれ…?舞永吊って子が来てるって聞いたから、来てみたら、もしかして本当に舞永吊なの!?舞永吊だよねっ!?」
舞永吊「え…誰?」
フラワ「ちょっと!忘れたの?フラワだよ!
最後に見たのは多分、私も舞永吊も13才くらいの時だったよね。
今までどこに行ってたの?」
舞永吊「ごめんね…ちょっと記憶が混雑してて思い出せない…」
フラワ「え…本当に?」
舞永吊「うん。
…えっと、どこかで知り合ってた?サハル?カタリ?それともラッカで?」
フラワ「どこよそこ。倫想苑の叶地区でよく子供の頃一緒に遊んでたじゃん」
舞永吊「叶地区…って、倫想苑の郷の中にあるの?」
フラワ「そうだよ」
舞永吊「倫想苑の郷には、つい先日来たばっかりなんだけど…」
フラワ「なに寝ぼけてるの?昔っから舞永吊は倫想苑の郷で暮らしてたでしょ!」
舞永吊「…。
何…言ってるの?」
自分の見てきたサハルやカタリという故郷の過去と、そこからラッカに向かった時までの出来事の中に、倫想苑の郷の記憶なんて一度も出てこなかったのに。
フラワ「よく思い出して、舞永吊。」
その時、私の中に少し芽生えた気がする。
いくつかの古い記憶。
舞永吊「もう…嫌。
私、何が何だか分かんなくなってきた。」
フラワ「大丈夫ー?」
舞永吊「ごめん、ちょっと一人にさせて」
◇
フラワを退いて洗面所を出た。
…
倫想苑の郷で暮らす人たちは何だかみんな元気だな。
明るくて、楽しそう。
「あれ、舞永吊。起きたの?朝ご飯あるから食べてね」
一人になろうと思ったのに、年配のおばさんに声を掛けられた。
その人を私は知らない。
この人たちは私を知っているのに。
誰なんだろう。
この人たちは、何故私を知っているんだろう。
つい数日前までに、知り合いになった人たちも何人か居たけど、今ここに居る人たちはちょっとよく分からない。
新しくまたここへ来た人のような気がする。
ひとまず朝食がある所へ呼ばれたので付いていってみると、大広間には食事が置かれてあった。
テーブルがいくつか並べられていて、好きな席に座ることが出来た。
ご飯と、お味噌汁、海苔と、山菜の総菜、と…あと、イチゴが三つ。
でもあんまり食欲が沸いてなかったので、遠慮してから部屋を出る。
そして本当に一人になろうと思って、建物を抜けて外に出た。
◇
倫想苑の郷は暗い夜が訪れなければ、高い日差しの昼も来ない。
いつもぼやけてる遠景が広がっていて、日は絶対に沈まない。
日が傾いてオレンジに染まってたり、朝焼けのように白くもやがかかってるような景色がずっと繰り返し続いてる。
ここは、一体何なのか。
…
流れ落ちてる滝に、直接手が触れることの出来る場所に来ていた。
勢いをつけて落ちる滝の流れは、どこか静寂をたずさえているような気がしていた。
流れ落ちる滝を手元まで触れられる場所まで行き、その水流を肌で感じる。
その自然な動作を緩やかに行うと、悠々と静かに運ばれる水を掬って飲んでいた。
◇
一時間ほどそうしていると、そこに裏錯がやってきた。
全然顔を見せてくれなかったのに、こういう時に突然やってくるんだから。
裏錯「六日ぶりだね」
舞永吊「…。
…倫想苑の郷で暮らすのも大変みたいだね」
裏錯「そんなでもないよ。
…ん?なんか怒ってる?」
舞永吊「別に。」
過去の事を幾つか思い出したってことと、裏錯とは昔、カタリという所でやっぱり会っていたんだって事を説明した。
倫想苑の郷に昔から過ごしていたのかどうかはあえて聞かなかった。
舞永吊「故郷の事を全部思い出したわけじゃない、けど、なんとなくだけど分かった。」
裏錯「そっか」
裏錯は目を閉じてずっと聞いていたけど、返ってきた反応は薄かった。
その後、この場所についてもう一度聞いてみた。
舞永吊「ここ、朝日も昇らないし夜も訪れないね」
裏錯「うーん…。
一年ほど前までは、倫想苑の郷にも夜は来ていたらしい。聞いた話によると周期によって日の出方も変わるらしい。」
舞永吊「何だかよく分かんないね」
裏錯「この倫想苑の郷を作った先祖に会いに行って話を聞いてみる?
きっと少しは分かるんじゃないかなって思うけど」
舞永吊「先祖って…まだ生きてるの?」
裏錯「いいや、体は無いけど魂と対話することは出来る」
今居る場所、滝が流れ出てるこの岩山のある所から1kmほど歩いた先に峠がある。
そこをさらに降りていくと、深い渓谷に出る。
その近辺に先祖と対話が出来る場所があるらしい。
一通り聞いたけど、私は考えておくと言ってから、その場を去ることにした。
裏錯「舞永吊…。
過去のこと思い出して悩むこともあると思うけど…今は僕も居るし、怖いことは無いから、だから…あまり思い悩まないでね。」
舞永吊「…。うん」
◇
自分の部屋に戻って、また一時間ほど考えていた。
この倫想苑の郷の謎も多いけど、今の私にとって巴馴がどうしているのかという事も気になって、不安に駆られていた。
ここに居るべきか、巴馴に今すぐにでも会いに行くべきか。
…
もし、フラワという子の言うように、13才の時までこの倫想苑の郷で過ごしていたしたら、その後何らかの理由でラッカに向かった事になる。
そうなったら、サハルやカタリであった出来事も全て無かったことであり、あの山中で散槃と最初に出会った記憶も嘘だったということになるのだろうか。
そんなことはないはずなんだろうけれど。
それでも、この倫想苑の郷に幼い頃からずっと過ごしてたとしたなら、私は何か少し安心感を覚えてしまいそうだった。
むしろ、そう思い込んだほうが楽な気がするんじゃないかとも感じていた。
◇
考えるのに疲れた私は、共同で使っている大広間にまた訪れてみると、食事の並べられてあったテーブルは全部片付けられてあった。
そこは広く敷かれた畳だけがあって、また、桧の良い香りがした。
この建物は桧で出来ているのかな?
そういうわけでもない気がするけれど。
その大広間で、子供たちの面倒を見ていた。
子供たち「舞永吊お姉ちゃんはどこから来たの?」
舞永吊「私もよく分からないの」
子供たち「えー、なにそれ変なのー。」
何だか、ラッカに最初に来たときもこうして子供たちと一緒に戯れていたよね。
倫想苑の郷に来てもすぐ次の日にはこうして子供たちの面倒を見ていた。
私は今になってまでも、なんでこう子供たちのおもり役を押し付けられているのか。
いや、自分から進んでやっているんだろうけれど。
◇
…
子供たちと遊んだり、少し考え事をしたりする内に、ゆっくりとまたこの倫想苑の郷の時間も過ぎていった。
一日がまた終わり、夕日によって一帯が暖かみのある色に染まる頃。
起きてから何も食べていなかったので、空腹が限界に来ていた。
子供たちと一緒に少し軽食を採ってから、建物の軒先に出ると、子供たちと一緒にまた沈まない夕日を観察していた。
子供たち「きれいだねー」
舞永吊「うん、そうだねー」
倫想苑の郷では陽が沈むことはないけれど、夕方になると一応は暖色に染まるようだった。
…
本当にずっとこんな事をしていて良いんだろうか。
その夕日を見ていると巴馴の事をまた思い出していた。
そしてまた、巴馴の事を絶対に忘れる事が出来ない事を知り始めていた。
私がこんな事をしている間に、巴馴は一人で泣いているんじゃないか。
そろそろ、この倫想苑の郷を去らなきゃ、かな。
それからもう一度過去の事を整理しようと考え始めると、私の頭の中には様々な疑問が浮かび上がっていた。
ラッカに居た頃には裏錯から貰った人形を持っていた。
カタリという所には、やっぱり居たんじゃないか。
うん、それはいい。
カタリは良いけれど、問題はサハル。
サハルだって私の記憶の経路からしてみれば疑問点が多すぎる。
サハルの事を考え始めると、またカホちゃんの事も同時に脳裏に浮かぶ。
サハルの記憶だって全部嘘だったはずがない。
こうして今私が平然としていられるのも、カホちゃんや、多くの子供たちの苦しみの代えにあるのだから。
自分の体が震えているのが分かった。
呼吸が少し乱れ、視界がゆっくりと廻る。
自分の体には数知れない多くの血が流れている。
そしてこの体から今、カホちゃんの悲鳴が聞こえていた。
夕日を見ながら、震えて叫びそうになる声を抑えると、ひたすら自分の頭の中で、ごめんなさいの言葉を何度も告げていた。
◇
夕日が一度沈み掛けて、オレンジ色の日がぼやけて、白く濁り始めてきた。
これが夜だ。
数時間して、私は子供たちを寝かしつけてから、倫想苑の住人とたわいない談笑を交わしてから、また建物の軒先に一人で出ていた。
おそらく本来なら日がとっくに暮れて、真夜中になっている時間帯の今でも、外はぼんやりとしていて少し明るい。
私は座り込んでまだずっと外の様子を眺めていた。
ゴーン…ゴーン…と、どこからか鐘の音が聞こえ、この倫想苑の郷の全土に響き渡っていた。
どこから聞こえてきていたのかは分からない。
辺りを見回してもそれらしき音の鳴る鐘は見当たらなかった。
しかし、言うなれば、天空から聞こえてきているようにも思えた。
何これ、除夜の鐘?
その音が聞こえてから数秒後に、流れ落ちていた滝の勢いが弱まり、ついに滝はその水流を失った。
滝のなくなった場所はただの岩山となり、ただの岩山だった場所からは水が湧き出てきて、その水流を増し、そこが滝となった。
倫想苑の郷ではこのような現象がたびたび起こり、また、それを繰り返しているようだった。
そしてまた、郷は変わらない日々が訪れていた。
本当に、ここは不思議な場所だ。
けれど今となっては、何故そうなっているのかを考えても仕方ないか。
そうなっているんだから、ここはそういう世界なんだとしか言いようがない。
◇
部屋に戻り、もう一度最後の考察を始めることにした。
もう眠気がやってきていたけど、今日中にいくつか考えておきたい事がある。
過去の故郷のことについて、それと、まずこの倫想苑の郷について。
倫想苑の郷は変わらない日々が訪れていた、とさっき言ったけれど、それがいつか崩壊する気がしていた。
遠い景色の先から、だんだんと何かが迫ってきている気がした。
それは何か分からない。
黒くてドロドロとした、液体のような固体のようなもの。
いや、それはノイズによって崩壊していくのかもしれない。
どこまで渡り歩いていっても地平線の先に何も無いこの倫想苑の郷。
でもそれは誰かの手によって軽々しくほんの一瞬で崩れ去ってしまうものなのだという実感があった。
フラワって子に会ったけど、やっぱり今となっても倫想苑の郷が故郷だったとは思えない。
それ以前に、本当にここはそんなに昔から在る場所なのかというのが懐疑的だった。
この郷は、一見すると誰もが望んでいた暮らしの出来る世界のように思えた。
誰も傷付かないようにして暮らせるような世界、そんな世界が作られているような気がした。
けれど、何となくだけど、それはいつ崩れてもおかしくない不安定さを伴っているように感じていた。
ここに私が前から居たのだということをあまり思えないのは、ここが、つい先日に出来た「仮の世界」のようにしか感じられなかったからである。
…でも、おそらく故郷というものに人々が求めるのは安心の出来る地である、とするのならば、故郷という言葉が相応しいのはこの倫想苑の郷が一番近いのではないかと感じていた。
きっと、それを故郷だと言うくらいならいいのかもしれない。
けれど、本当にそれは故郷であるのかと考え始めると、私はそれを認めることが出来なかった。
まだそれよりももっと本当の故郷と言うのに相応しい場所がある気がしてならなかった。
では、本当にあったはずであろう故郷をいくつか挙げてみようと考える。
過去の事についての最後の考察だ。
まず、サハル。
あのサハルには、もう私の事を覚えている人などまず居ないだろう。
私の事を覚えている人が居ない場所は、例え故郷であったとしても、そこは帰ることの出来る場所ではないだろう。
それに、あの場所はもう見るに耐えない無残な景色しか広がっていないと容易に想像出来る。
では、カタリはどうか?
優しかったおじさんやおばさんが居た。
そんな記憶があったはずだ。
あそこなら私が帰ったらみんなが出迎えてくれるだろうか。
温かく迎えてくれる…いや、そんなはずはないだろうね。
それは私の頭の中の過去の記憶の中の空想のお話でしかない。
今、カタリという故郷がどうなっているかなんて私は知らない。
おそらくたった4年と半年しか経っていなくても、次々と変わっていってるはずなんだ。
人も、町も。全部。
そうだよ、次から次へと新しいものへと移り変わり、未来に希望を求めてみんな暮らしている。
過去の中に縋っているのは私だけなんだ。
そんなところに私が紛れ込んでいっても、邪魔者扱いされるだけに決まってる。
…なんだ、帰る場所なんてどこにも無いじゃんか。
何でこんな当たり前の事が分からなくてずっと考え込んで迷っていたのか。
いつまでも帰る場所に縋っている私が全部悪かったんじゃないか。
それから、私は考えるのをやめて就寝した。
◇
翌日。
着替えてから軽装で出掛ける準備をしてから部屋を出る。
そこで、またフラワと会った。
フラワ「どこか行くの?」
舞永吊「たった数日だったけどお世話になりました。
ここを出て、元の場所へ戻ろうと思う。」
フラワ「旅に出るの?」
舞永吊「旅…?そんな希望的なものじゃない気がする。
どちらかいうと、ただ逃げ惑って迷子になってるだけだから。
帰る場所も目的地も、永遠に見つからない、どこにも無いって分かっている世界で、旅なんて言えるものはあるのかな」
フラワ「うーん…フラワはよく分かんない。
いってらっしゃい、気をつけてね」
舞永吊「うん」
今境神社へと繋がる門の前まで来る。
この倫想苑の郷への別れを告げて。
そこで、後ろから声を掛けられた。
裏錯「舞永吊、どうして。本当にここから出て行くの?」
舞永吊「うん。裏錯には関係ないよ」
裏錯「そうかも、ね」
話し合っているうちに、少し、言い争いが激しくなってしまった。
裏錯「ここにいたらもう大丈夫だから、安心出来るはずだから、無理に別の所へ逃げる必要もない。
今ここにあるものを大切にしながら生きても悪くはない」
舞永吊「いや…今じゃない。今からじゃ。
私が歩んできた過去と、そしてその全てが、今の私がここに居てはいけないことを教えてくれていて。
どんなに覆い隠したって、私はそんなに清く生きられる人じゃないから…立派な人でも無くて」
裏錯「どんなことも遅い事は無い。そして、それら全部はあとから分かるはずだから。」
舞永吊「それでも、私は…!これからの未来で、どんなに楽しいことや嬉しいことを体感出来たとしても、
背徳的なものを重ねてきたこと、私の存在そのものがいつも孤独であったこと、苦しくて耐えられない全ての出来事があったこと、それら全部を私は忘れることが出来ない。
そんな過去の中で生きていることを何度も思い出す。
それはどこまで行っても、ずっとずっと私を縛り続けるから…!
今でも私の心はサハルのあの檻の中にずっと閉じ込められている。
どんなに体が自由でも、どこまで逃げても…!
どこにも逃げ出せないあの檻の中で、ずっと、ずっと、永遠に、閉じ込められているから!
ラッカで一人ぼっちで居たときもずっと怖くて、裏切られて、誰からも嫌われてるってそんな風に考えてばっかで、
それでいつしか今境神社にたどり着いて本当に一人になってから、自分は必死に周りを見ないようにして生きてきた。
それが私の世界だった。
今、こうして多くの人が、明日や未来に向けて生き生きとして幸せそうに暮らすというものが信じられない。
ここは、自分の世界では無いって思う、
そして今は、自分が一体誰だったのかさえも覚えていないのだから。
昔、ラッカに居た頃、思い出せない故郷に縋っては、ずっと裏錯って男の子を昔から慕ってたんだなーって、想いを馳せてたし、それがどこかで心の拠り所になってたのもある。
…でも今は!
もう…裏錯のことだって、分かんなくなってきた、本当に好きだったかどうかなんて今全然分かんない。
こうして誰かと出会う度に、どんどん辛くなっていく」
裏錯は困ったような表情を浮かべながら返答していた。
裏錯「サハルやカタリ、ラッカなんて、過去の悪い夢ばかりを気にする必要なんてない…と思う。
それに、ここを離れてしまったらきっと舞永吊はもっと辛い思いをする」
舞永吊「分かってる…それは…分かってるけど…!
でもね、じゃあ教えてよ!
私がこの倫想苑の郷で生きていていい理由を教えてよ。
私の今まで歩んできた人生に説得力を持たせてよ。
何故、今、私がこの倫想苑の郷に居て、この場所で、この時間を共にして、この人たちと一緒に過ごし、この道を歩んでいるのかを教えてよ。
私はこれからどうなるの?
この場所で何をして、どこへ向かうの?
私が今何をしたら、未来にどんな保障がされるの?
私が過去の中であったいくつもの襲撃から逃げて歩んできた、そして辿ってきた道のりは正しい過程だったのかな?
歩んできた私という者は、一体何故ここに今辿り着いて、ここに居るのか分からない。
私の過去の苦しいことや辛いことは何のためにあったの?
何のために、私はこんな苦しい思いを感じてこなければならなかったの?
私だけじゃない。
カホちゃんも、みんなみんな、苦しんできた子どもたちも何のために苦しんでこなければならなかったの?
今、この自己本位に鼓動し蠢く自分の体を維持するために、どうしてその何千倍、何万倍もの多くの子どもたちが苦しまなければならないの?
その苦しみに一体何の意味があるの?
全部全部教えてよ!」
裏錯は目を伏せて、顔を俯かせていた。
舞永吊「私は巴馴と会った記憶もある。
今境神社に居た頃は、何か少し落ち着いてた気もしたし、巴馴と居たときはそんなに辛いことも感じなかった!
裏錯は過去を悪い夢だと切り捨てたけど、
どんな過去でも、悪い過去だとしても、これは夢って切り捨てて失くしてしまうような言葉で済ませていいものじゃないって思う!
それに…過去を忘れて生きるのは簡単だよ、何も見なかった、覚えてなかったってしらを切るのは誰だって出来る、そうしなければ今を生きることが出来ないのも知っている。
未来に希望を持ちたい気持ちも分かる。
けれど、全てを忘れて今しか見ないのは違うって思う。
これは、私が過去に経験してきた事を思い出したから言えること。
自分たちがどれだけの犠牲の元に成り立っている生であるのかって事を毎日心に留めておいて自覚するべきだと思うし、出来る限りの苦しみを減らす努力をするべきだと思う。
それが知性ある人の努めってものなんじゃないの?」
裏錯「…。
そうだね、舞永吊の言うとおりだ。
ただ舞永吊には、ここが帰ってくる場所だと信じていて欲しい。
いや、これも身勝手な想いだけど、舞永吊にはまた苦しんで欲しくないから。」
舞永吊「いいよ。
じゃあ分かった、こうする。
とにかく巴馴に会いに行く。
分かんない…巴馴は私のこと嫌いだって拒否するかもしれないけど、出来ればこの倫想苑の郷へまた一緒に連れてきて暮らす!
私は巴馴を裏切ったって気持ちがいっぱいで、この心残りを払うために、もう一度会う!
で、この郷に来るの嫌だって言われたら、巴馴と一緒に向こうに居る!
それでいいでしょ」
その言葉を聞いてから、裏錯は静かに頷いた。
出口に向かって歩き、最後の言葉を交わした。
裏錯「ここから出たら、いつまたこっちに帰ってこれるかかなんて分かんないんだよ?分かってるよね?」
舞永吊「分かってる。けれど、今ここに居ても辛いことが増えていくだけってことも分かってるから」
裏錯「それじゃ…僕も行こうか?一緒に。」
舞永吊「ううん、もういい。
もう誰にも頼らなくていい、誰の支援もいらない。
誰かに頼ったり縋ったりする必要なんてない、指標も、指針も、全て私が決めて私が選択する。
人でも偽物の神様でも、誰の発する言葉も要らない。
言葉にして現した途端に、それは私にとって必要の無いものだから。
生きていくのも死にゆくのも、全部私一人で十分だよ」
裏錯「…そっか。
…いってらっしゃい」
舞永吊「うん」
裏錯は、倫想苑の郷から出て行く舞永吊を見送ってから目を閉じた。
きっとそれが、正しかったんだって思う。
◇
◇
これ以上、一人でも多くの苦しむ姿を見たくないって思っていた。
今もなお、私が置いてきたせいで、一人ぼっちで苦しんでいる巴馴の姿が浮かぶ。
また、発作のような恐怖を感じてるのかもしれない、また、目が悪化して痛みを覚えているのかもしれない。
一秒でも早く、巴馴に会いに行かなきゃ。
◇
…
一週間ぶりにこっちへ戻ってきた。
目が覚めると、今境神社の拝殿の奥にある、原っぱが広がっている所に眠っていたことが分かった。
倫想苑の郷の入り口は既に見当たらず、そこには以前あった黒い渦すら無くて、ただの林が広がってるだけだった。
外にさらされていて、凍えていた体をさすって温めながら、社へと戻る。
舞永吊「ただいま…」
社へ帰還の挨拶を交わす。
社の中を覗いて見ると、食料はたくさん残っていた。
しかし誰も居ない様子で、巴馴を呼んでみたけど返事は何にも帰ってこない。
少し待ってみたが、誰も来る気配がしなかった。
外に出ると、冬に近い時期の寒さを感じて、身震いする。
昼前の時間帯だけど、日差しはそこまで強くなくて、曇りがちな空だった。
澄んだ冷気が肌を撫で、吐く息はわずかに白く映して見える。
辺りを探して、大声で巴馴を呼んでみるが、返事は帰ってこない。
そこで数時間待っていたが、やはり誰も来る気配がない。
…
舞永吊「どこに行ったんだ…、もう…。」
仕方がないので探しに出掛けることにした。
山をひたすら降りて、巴馴を呼びかけ、居ないと分かるとまた戻り。
また別のルートから降りて、呼び声をあげ、それでも居ないからまた後退する。
何度も登りと下りを繰り返していた。
疲労が次々と重なっていく。
息もどんどん荒くなっていて、何度も固い生唾を飲み込んでいた。
巴馴が見つからない寂しさが増していく。
その不安は、巴馴が確実に居ないって分かるよりも、居るかもしれないって思うからこそ、もやもやとした焦りになって、私を追い詰めていった。
◇
◇
…
どれくらい探し続けてきただろうか。
もう声は枯れ、涙を滲ませながら何度も呼びかけていた。
そうしている内に、時間はどんどんと過ぎていき、また陽は沈んでいた。
真っ暗闇の山の中、私は夜通しずっと探し回った。
足も腕も、枯れ木や雑草に何回も擦られて切り傷だらけになっていた。
呼吸はもうまともな調子を保っていない。
何度か落ち着くために山の湧き水を飲んでいた。
もう居ないんだ、どっか行っちゃったんだ。
そんな諦めの気持ちを浮かべながら、それでも体を動かし続ける。
…
結局朝になるまで探し回っても見つからなかった。
もう、元居た今境神社がどこにあるのかも分からなくなっていた。
どこのルートを辿っていたのか、暗闇のせいで何も見えていなくて完全に山の中で迷子になっていた。
これ以上闇雲に探しても見つかるものも見つからないと察して、
朝日が登り始めて数時間したあとに、極度の眠気がやってきていたので、大きな木の木陰で仮眠を取った。
◇
…
仮眠のつもりが、寒さの中で目を覚ますとその日の昼はとうに過ぎていて、夕刻になっていた。
もう焦りすらも消えてしまっていた。
自分がどの道から来たのかも分かんなくなってて、全ての望みが消え失せていた。
もう駄目だからここでずっと眠っていようかなって、そんな考えが一瞬よぎったけれど、その制止を振り払って体はまた歩み始めた。
…
広がっている草原を静かに歩いていると、木が数本まとまって立ち並んでいる所を見つけた。
そこに、巴馴を発見した。
この場所は、今境神社からどう辿ってきたのか、もはや分からないほど遠い場所にあるような気がする。
そこは、たくさんの桜が咲き乱れている所だった。
冬に差し掛かった時期に咲く、冬桜。
いや、実際には本当にそれが桜であったのかどうかすらも私にはよく分からなかった。
その桜の木々に囲まれた場所で、巴馴は綺麗な顔をして目を閉じ、大木に背中を預けていた。
探していた巴馴の姿をようやく見つけて、息をなでおろした。
自分の疲れきった顔から少し笑みがこぼれていた。
何で巴馴はこんなとこまで歩いてきてたんだ、探すの大変だったじゃないか。
眠ってるのかどうかよく分からない。
なんて声をかけていいかよく分からなくて、普通に話し掛けてみた。
舞永吊「巴馴…ただいま」
反応は、無い。
舞永吊「帰ってきたよ、ほら、ただいまってば!」
少し大きな声で言ってみた。
舞永吊「この桜の木、巴馴が見つけたの?綺麗だね」
巴馴は何も言わない。
舞永吊「もっと早く来たら良かったよね、遅くなって怒ってる?
返事をしてよ…巴馴、眠ってないでさ、起きてよ。」
…
不安な気持ちを隠して、怯えながら巴馴の顔に近付いてその呼吸を確認してみる。
巴馴の頬は冷たくて、息はしていなかった。
立ち並んでいた桜の木。
散っていくその桜の花びらは二人の体に舞い降りる。
綺麗だった、とても…、とっても。
今までに見たことのないくらいの儚さというものを見せていた。
私の口からはまた嗚咽がこぼれ始めていた。
きっと巴馴は私と別れたあと、もう何もすることが無くて、今境神社に居ても仕方ないから、元の実家のほうに帰りたいと思ってたんじゃないかって思う。
もしかしたら以前に話していた、実家の近くの海の向こうの島にある神社に行きたいと思って、山を降りていたのかもしれない。
分からない、ただの予測だけれど。
こんな山奥にヒテイに連れてこられたんだから、どこから来たのかも分かってないくせに。
無理して下山しようとしていたんだ。
巴馴の手には、舞永吊の形をした人形が握られていた。
これは私があげたもの。
私は巴馴に語りかけていた。
舞永吊「巴馴…私のせいだよね、私と会ったせいだよね。
今境神社の別れ際、巴馴の気持ちを裏切ってごめんね…辛い思いをさせてきたよね。
もっと早くに来てあげられなくてごめん…
今まで私よりずっと辛かったこともいっぱいあったと思う。
一人で怖い思いをたくさんしてきたよね…。」
声は涙声でぼろぼろに枯れているのに、涙があまり出ない。
もう涙も枯れてしまっているようだった。
一番辛い時なはずなのに涙は何も出ない。
私は涙を流さなきゃいけない時に涙が何も出ないほど酷な人だったのかな。
きっと悲しいことだけが涙が出るわけじゃない気がしていた。
誰かに対する忘れていた気持ちを思い出して感じるから涙が出るんだと思う。
巴馴の事をずっと考えていたから、忘れていた事なんてもう無かったんだ。
◇
どれほど時間が過ぎただろうか。
巴馴の腕や体を静かに触ってみると全身が冷たく固まっていた。
始めに出会ったあの日が頭に甦る。
最初は私のことを巴馴は怖がっていた。
それでも、次第にいつの日か私を健気に信頼していてくれた。
そうやってずっと私に心を預けて従っていてくれた。
それも全部、巴馴は年齢が私より低いし、一人じゃ何も出来なかったから。
今境神社に巴馴と二人で居たとき、私は本当に巴馴のことを一番に考えていたのだろうか。
今となっては私には分からない。
…
巴馴の体を抱いて、私の体温を分けてあげていた。
でも、もう痛い思いも悲しい思いもしなくて良いんだよね。
もう、泣かなくてもいいんだよね。
本当に安心出来る場所に行けたはずだから。
だからきっと、今は何も苦しい事も無い。
だから…だから、巴馴にはもうずっとこのままでいてほしい。
…
なんでまた私はここに来ているんだろう。
何故まだ、ここに居るんだろう。
もし、出来たら、巴馴を倫想苑の郷へ今度は一緒に連れて行こうって思ったけど、もう…だめじゃん。
倫想苑の郷にだってもう行けないし、ここに巴馴が居ないならこっちに戻ってきた意味も無い。
巴馴の周り一帯が、穏やかに時間を止めている気がした。
そうだよね、私はずっと何にも進んできてなんかいなかった。
行って帰って、戻って来て。
迷って嘆いて、不安になって縋って、それが一貫して続く。
そうして否定の中で繰り返し回り続ける。
それがいつの間にか誰かを傷つけていることを知らずに、気が付くとまた自分を嫌悪して、間違っていることに間違っている理由を重ねて、また繰り返す。
不幸という災禍の一連の鎖。
昔から私はちっとも前どころか後ろにも進んでいなかった。
たぶんそれはみんな同じ。
誰かを助けてあげることなんて、始めから出来のしないことだったんだ。
それが分かった今では、もう周りに誰も人なんて居なかった。
私から全部捨てて逃げてきたんだからそれでいいんだよね。
たぶんそれが当然で、全ての理由。
巴馴の手に握られてた人形と一緒に、手紙のような紙切れも握られてあった。
それを巴馴の手から取って広げてみると、拙い字で文が綴られていた。
" 舞永吊お姉ちゃんへ
この手紙を舞永吊お姉ちゃんが見るときは、私はもう居なくなってると思います。
そして、この手紙を見た舞永吊お姉ちゃんは、たぶん私と会ったことを後悔してるんじゃないかって思います。
自分のせいで、私を苦しめたんじゃないかって、そうやって自分を責めてるんじゃないかって。
でも、それは違います。
私は舞永吊お姉ちゃんと会えて良かったって思ってます。
だから、自分のことを責めないで下さい。
どんな辛いことも、結末も、始まってしまった悲劇の物語も、自分や誰かを責めてばかりじゃ苦しみや辛いことが増えるだけです。
だから、私たちが出来ることは、みんなで協力して苦しみをこれ以上増やさないことだけなんです。
舞永吊お姉ちゃんからはいつもその意志を感じました。
だから、舞永吊お姉ちゃんには自分のことを責めて欲しくないです、私ももう絶対に責めたりしません。
巴馴より "
◇
手紙の文字を一字一字じっくりと読み進める内に、心残りはもう何も無くなっていた。
舞永吊「ありがと…う、巴馴…。」
その一言の中に、巴馴に対するありがとうの思いは無数に秘められている。
言い表せないほど、多くの。
巴馴はいつも強がってる時があったし、私を嫌いだって言う時もあったけど、
やっぱり、ずっと私を気遣ってくれてたんだなって、そんな気休め事を今さらまた思い出す。
たぶん、巴馴は私が苦しんでるところ見たくないって思うだろうね。
せっかく巴馴は私の事をいっぱい気遣ってくれたけど、それでも私はもう何か希望を持つことは出来ない。
そして、あらゆる罪を重ねてきた自分をどうしても許す事が出来ない。
涙の出ない哀泣。
口から叫びの声があがらない慟哭。
永遠に見つけることの出来ない愛しい姿。
回り続けた先に見つけたのは、ただすぐ近くの後ろにあった背景の仕掛け。
本当に守りたい人の支えにはなれない。
そして、今の私には何かを守る責任も無いし、目指すべき場所も帰るべき場所も何も無い。
吐き出された中に私は存在し、どこにも居ない。
◇
…
そこで数時間座り込んでいると、日が暮れて、また夜の暗い時間が訪れていた。
私は周りを見ていた。
この世界には何も無い、誰も居ない。
周りの景色はただ今の時間をやり過ごし、過ぎ去っていく。
そうだ、これはラッカから逃げ出していた頃と同じだ。
苦しくて逃げ出して、また暗闇の中で一人ぼっちになる。
いつの間にか昔の記憶を考え始めていた。
結局、私は何がやりたかったのかな。
カタリに居た頃は、洋服のデザイナー?それとも、裏錯の恋人?
ラッカに居た頃は、故郷がどこかなーって探してたこと?
今境神社で巴馴と居た頃は、巴馴を守ってあげたいってこと?
ははは…何それ、今の私には何にも無いね。
今からまたやる必要も無い、だって全部もう終わったんだから。
終わった話だよね。
いっぱいあった思いや夢。
そこへたどり着くために私は今まで多くの事を経験して、いっぱい必死に勉強して、デザイナーにもなってやるんだって、恋愛もしてやるんだって、諦めずに色んな夢をこの世界で叶えようとしていた。
でもあの時抱いていていた多くの情熱的な気持ちは、現そうとした希望と共に今はもう何も無くなっていってるんだ。
この桜の木から花びらが散るように。
◇
何も周りの景色を見るつもりのなかった私だったけど、何となく夜空を見上げていた。
そこには、暗い夜空の中に輝く満天の星々が光を灯していた。
ああこれ、ラッカの景色に似てるね。
…いいや、それだけじゃない。
私はサハルでも、カタリでも、この星空をずっと見てきた。
ずーっと、記憶の中ではこの景色を見てきたんだ。
ずーっと、ずーっと、だよ。
澄んだ空気、何の混じり気も無い、清い景色。
そこには歪んだ感情も、複雑に絡み合った公式も何も無い。
そこにあるのは純粋で真っ白な思い。
…
そっか…これだったんだ。
私の帰ってくる本当の故郷という世界はここにあったんだ。
ラッカでいつも見ていたあの星空に、どこにあったか忘れていたいつかの故郷を重ねようとしていた。
けれど、それはもうすぐ目の前にあったんだ。
いつも故郷はこの星々の奥、その宇宙の果てにあったんだ。
その宇宙の中そのものに身を委ねてしまうのも良いのかもしれない。
ただ、私はまだそのもっと先の何も無くなった所に故郷を感じていた。
この星々の輝きを通り越したさらにもっと奥深くの、あの宇宙という全てを包み込む大きな海原をさらに超えた先の、その演算出来ない空間を、空白を、私はきっと求めていた。
舞永吊「…もし、私も巴馴と一緒にこんな世界の理を断ち切った所へ行けたのなら、
そうしたら、これからは悲しい思いも苦しい思いもしないし、絶対にさせないはずだから…私も一緒にこれから巴馴と…居ていいかな。」
そう言ったら、巴馴が少し笑ってくれた気がした。
こんな事言うと、きっと悲しむ人や反発する人が多くいると思う。
生きろって言われる事の辛さ、巴馴はすごく感じてたんだろうなって。
だから、辛くなったら生きるのをやめてもいいんだよって、誰かがそう言ってくれるのが本当の優しさなんじゃないかな。
…ううん、そうじゃない。
本当はそれをみんなが言わないけど認めてることが優しい世界だったんだ。
ここに居た巴馴の感じてきた苦痛は、恐怖は、巴馴にしか分からない事なのだから。
その苦しみを誰にも分かってもらえないまま生きるのは、生きる事の辛さをさらに増やしてしまうだけで、何の解決にもなっていないのだから。
◇
崩れゆく仮の世界、星空が結んだ絆、冬桜が見せてくれたもの、過去の最愛の人と絶対に会うことは出来ない。
全ての説明が私にはついていた。
過去が私だってこと。
…
純粋な思いを強く信じて、震える体を無理矢理に動かす。
強張る腕、言うことを利かない足。
澄み切った心で、鎮めようとする。
私は持っていたカバンの紐を外し、長い紐を作った。
その紐で首に通すのにちょうど良い輪を作ると、それを震える手で桜の木に掛ける。
たぶんきっと、大丈夫。
うまくいく。
ガクガク膝が笑ってしっかりと立てない。
身長よりも少し高い位置にある、輪。
なんとか時間を掛けてその輪に首を括ると、
…心の中で秒を読み、0を数えてから、木の根を蹴った。