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二章 巴馴の記憶、苦痛と恐怖の果てにあったもの

巴馴(はなれ)が無人の社で舞永吊と出会う前。







生まれつき私は病弱だった。

ある時、左目に違和感を覚え、触ってみるとざらざらとした手触りがした。


鏡を見るとそこは樹木と化していて、日が経つにつれてそれが目の奥まで伸びていくと次第に脳の辺りまで達していて、体を徐々に蝕んでいた。

毎日のように感じる痛みや苦しみは一体何の試練なのかと感じずにはいられず、ただ課せられたその枷がこの小さな身体にとってあまりにも重すぎる物だという実感だけがあった。


私は幼い頃に近所にある神社の御神木に悪戯してしまった記憶がある。

親に怒られてから、そのあと懸命に神様に謝った。

私の痛みはそれが原因なのかなんて分からない。

どれくらい非現実的な理屈でも、それくらいの原因しか見い出せなかったのだし、希望の糸口も他に考えられなかったのかもしれない。


御神木に宿る神様にお願いをしていた。



巴馴「いつか元気になってみんなと同じように過ごせるように。

体の痛みは、いつの間にか忘れられてしまうように」



でも、そんなに神様は私に甘く、慰謝の念を与えてはくれない物だと感じていた。

神様は嘘つきで意地悪なんだと心の淵で思っていたんだ。


左目が樹木となってからは眼帯を付けて、殆どの時間を布団の上で過ごしていた。

ある日、布団から起きて窓から外を覗いて見てみると、庭に一匹の身体の弱った子犬くらいの大きさの獣が横たわっていた。



巴馴「私と同じ…」



自分の残した食事を持って部屋を出ると、その獣に与えに行くのだった。







挿絵(By みてみん)


私の庭先からは広大な海が見渡せて、きらきらと水面が輝いて私を照らしてくれていた。


その光が私には眩し過ぎた。

きっと、この身体がもっと自由ならそんな風に感じることは無かったんだろう。


-

海の波はその音をこの辺り一帯に静かに響かせながら、周囲の雑音を掻き消して、塗り替えていく。

波の音だけが時間を刻んでいるようだった。

-


庭に横たわっていた獣をヒテイと名付けた。

普段、家には来ないのだけど、たまに庭先に訪れてきた時には、いつものように自分の残した食事を与えにいく日々を続けていた。



巴馴「よく食べるねヒテイ。お魚おいしい?

犬…なのかな…?」



ヒテイはみるみるうちに大きくなって、私の身体の何倍もの大きさになっていった。

そんなヒテイにいつしか愛おしさを感じると、その感情が相思相愛を望み、その愛情をヒテイが私に対しても抱いてくれたら良いなと、思いを巡らせていた。



ふと顔を海の方へ向けると、ぼんやりと揺らめくいくつかの半透明の何物かがあった。

首から下の無い顔だけのような幻影だったり、俯いた人の形だったり、その姿は様々ある。

それは、遠くの海の向こうから来ているみたいで、こちらを恨めしそうに睨み付けてみたと思ったら、楽しげにこちらに話し掛けてみるような仕草を取ったり、行動も様々あった。


でも決して海からこちらの地上までは渡ってこれない様子だった。



昔、まだ私がもっと小さかった頃、親からこの辺りの海の色々な話を聞いた。

海の向こうからこちらに向かって、人間に取り憑いてくる色んな魔物がいるっていう話もその一つだった。

だから、この辺り家は皆、玄関より外の、海側に面した家の壁に魔除けを提げてあった。

私も親と一緒に、トゲのある葉に気をつけて編み上げて、魔除けを作った。

良く出来たね、なんて良いながら家の前に提げた。



その時は海に魔物が居るなんて信じられないと、子供ながらに思ってたけど、この目になってから、ぼんやりとしているけど何か魔物のような姿が見えるようになっていて、何か不思議な気持ちだった。





そんな中、私の身体は日に日に弱っていた。

苦しみに耐えている私に対して、いつも優しく接し、そして悲しんでいた母親。


母親の名前、ふさぎ奈因ない


私が病弱でよく寝込んでいた頃から、お母さんが必ず良くしてあげるからね、と言っていた。

私もいつか皆に迷惑かけないように元気になって恩返しするねって健気に言っていた気がする。

けれどそんな言葉はとうの昔に忘れてしまった。


この左目の原因は未だに分からない。


母は娘のためにその原因を求めに色んな人を尋ねたが、解決には至らなかった。

良い即効薬があればとそれだけの思いで必死になっていたのが間違いだった。

薬があると謳った都では、奴隷かのように扱われて働かせられた後は、実績が対価に相当しないという通達の元に、暴力を受けて追い出された。

見知らぬ誰かを信用しきってしまうという過ちを積み重ねれば積み重ねるほど、母親の体力と精神は傷付き、磨り減っていく。

薬で治るはずだという単純な思考が招いた罰だったのかもしれない。


母は、私の寝ている時間に部屋に訪れては、私の前で子供のように泣いていた。



母親「またお母さん、騙されちゃった…もうお金も残り少なくなった…。

これからどうしようか…分からなくなってきちゃった。

ごめんね、巴馴…。」



私は目を閉じながらずっと聞いていた。

母から感じるのは頼りなくて、何も出来ない無力感。


謝っても、悲しんでも、何にも変わらないのに。

ただただ母親の言葉も行動も情けなかった。





翌日は雨が降っていた。

ずっと部屋に閉じこもっていると、何だか色んなことを考えてしまって辛い。


降り続ける雨をじっと見ていた。


-

庭にある目の前の草花に、ポタポタと度々落ちてくる雨粒を一つ、二つと数えていく。

その度に花は雨に打たれながらも一心に身を構え、耐え忍んでいた。

-


私は、その草花に傘をさしてあげようと思って外に出た。



普段、家の外に提げてある魔除けが、玄関の中に取り込んであった。

本当は雨の日はあまり無闇に外に出ちゃ駄目だよって言われてた。

大抵、雨天時は海が荒れて危険ゆえ、加えて魔除けが外に無いので魔物が寄ってくる可能性があったからだ。



雨は私にとって癒やしの存在だった。

人はこの降り止まない雨を見ると気分が憂鬱になるというけれど、

私にはこれが常に近しい物であるようで、ただ心の中が澄んでいくように、火照った感情も、絡まった思考も、雨の中に溶け込むように消えていく。

こんな私を肯定して受け入れてくれるような心の在処、実存する私だけの世界なんだ。


庭に出て、花に傘を預けると、雨粒は私に直接当たって服が濡れていく。

何かどうでも良くなって、雨の中で私はくるくると回っていた。

雨の匂いがとても気に入っていた。



その内に、海の方へ行った。

海の向こうには一つの島が見える。

その島には大きな神社があるだけで、他には何もない。

だからその島で暮らす人は居ないし、観光に行く人も滅多にいない。

けれど、そこの島はよく大社の人が訪れて、手入れ自体は綺麗にされているようだった。


もっとこの体が自由になったら、お母さんと魔除けを持ってその島にある神社に行ってみたいな。

と言っても船に乗って行かなきゃ行けないくらい遠いし、そもそも泳いで行けるような距離でもない。

干潮の時期になると岩がぽつぽつと隆起して、そこを渡っていけるような道が出来るが、沖へ行けば行くほど海は深くなっているので、足を滑らせでもしたら、もう帰ってはこれないだろうね。



唐突に、胸が締め付けられるように痛んだ。頭痛がする、吐き気がする。

私はそこで少しうずくまった。

痛い、苦しい、誰かこの痛みを消して…目の前は暗くなっていくのに、頭の中は真っ白になっていく。


すると、海の向こうで笑いかけて、こっちにおいで、楽しいよって話掛けてくる人がいた。

その人はぼんやりと揺れていて、手招いていた。

苦しむことも無いよ、辛いことも無いよ、だから迷わないでおいでって優しい声を掛けていた。



巴馴「本当に…?この痛みを消してくれるの…?

もっと、痛みも、苦しみも無い世界があるの?」



その私の言葉に頷くような仕草をした人影に近付いて行くように、私はゆっくりと歩き出した。

あの島に、行けばもっと苦痛を忘れられるような、そんな世界があるような気がした。

海の水は少しひんやりとして冷たかった。

服を着たまま海の中に足が入り込んでいく、水圧で足が重くなっていく。

急な波に足が掬われそうになっても、海水に飲まれて身体が水に満たされて、溺れてしまっても、この先に行かなくちゃって思った。

もっと、海の向こうへ、その先へ…





…歩いていた私の足が止まる。

何か、後ろから袴が引っ張られる力を感じて、振り返って見ると、ヒテイが私の袴の裾をくわえていた。


巴馴「あ…ヒテイ、何でこんな所まで来たの?

…えと、どうしたの?離して」


ヒテイはそこで袴をくわえたまま動かなかった。


巴馴「もう…ヒテイは、分からず屋だね。」


私はもう一度海の方へ向いてみると、そこに先ほど話し掛けてきていた人は居なかった。

急に物憂い気分に襲われ、面倒になって家に帰ることにした。


-

濡れたままの足、服の袖、袴の裾から海水の雫が落ちていく。

全身も雨に降られて水を含み、衣服が重かった。

-


地上に出て、ヒテイを撫でる。


ヒテイはどこから来たんだろう?

なんで私の家の庭なんかに倒れていたのかな。

既に私の身体より遥かに大きい体格のヒテイは、最初に見た面影はほとんど無かった。

こんな瞬時に体を成長させる動物なんて聞いたことない。

もしかして…私を守ってくれる神様…とか?

…そんなはずないか。

だって神様は…







さらに数日が経っても、私の病状は悪化していくだけだった。

苦痛だけだったらまだ少し良かったのかもしれない。

私は様々な、さらなる恐怖という物を感じていた。

時には痛みすら忘れるほどの恐怖に震えていた。


何が怖かったのか、何に怯えていたのか、分からない。


ただひたすら恐怖に動揺し、怯える自分の中の気持ちが分からず頭の中はグチャグチャになっていた。

私はこんな苦しみに耐えるために生まれてきたのだろうか。

母親は私にこんな苦しみを味わってほしかったんだろうか…。


部屋の中で歪みを作った思考が渦を描く。

何が悪いのか…神様が意地悪なんだ。

いつも私を苦しめる存在は誰でもなかった、ただこの身体を持っていることが、この世に存在することが苦しみの形だった。

神様が意地悪な存在であることをみんな分かっているはずなんだ。

こんな幼い私でもそれは分かる。

それなのに、それなのに、母親は何故私を産んだのか。

何故この残酷な神のもとに産み落としたのか。


どこにもやる場のない悲しみと怒りは私と母親を狂い乱すには十分すぎるものだった。



巴馴「お母さんの馬鹿っ!嘘つき!必ず良くなるなんて適当なこと言わないでよ!

恐怖も…痛みも…私に纏わりついて消えない…!

嫌だっ!こんなのもう…。

息をするのにも身体が千切れるように痛いっ!

さっき縄を見たら首を吊ってジタバタ足掻く人の姿が見えた…!、

コップに入った水を見ると、そこに自分が飲まれるみたいに、溺れたみたいに暗くて深い海に居る錯覚がして息が途切れる…っ!

もう、ずっと胸が…苦しい…!」



心中にある思いは止め処なく吐き捨てられていった。



巴馴「私はっ!私は…っ!こんなことなら、いっそ…生まれなければ良かった…っ!

生まれたく…なかった…!」



いつしか必死になっていた私の左目の眼帯は外れていて、その目からは流血していた。

私のそれは普段見慣れない姿だったんだ。


挿絵(By みてみん)



母親「いや…化け物っ…!」



母親は既に私を自分の娘として見ていなかった。

何か人に化けた者か、ちょうど、海から渡ってきた魔物のように見えていたのか。



母親「来ないでっ!」



母は、私に対して大きく平手打ちをすると、

棚の中にあった色んな物を持ち出して投げたり、振り乱しては、無我夢中で殴り続けた。

もはや容赦がなかった。



巴馴「痛い!痛い…!ごめんなさい!

もう何も、何も言わないから…っ!

もう私は、お母さんのこと悪く言わないから…!」



部屋の中の時計の針の音は滲んでブレて、こもった音が反響する。

私は受け身の体勢で身を縮めていた。

外から来るあらゆる痛みをやり過ごすだけで精一杯で、抗える手段は無く、謝罪の言葉を並べるだけだった。

それでも母親の手が止まることはなかった。





その日からずっと母親は私を見る度に暴力を振るうようになった。

そして、母親は気が抜けたように何も動かなくなってしまった。


私は目が覚めて部屋を出ると、暗い部屋の角で母親は虚空を眺めていた。



巴馴「お母さん、お母さん…。

今日は少し調子良いみたい…

お母さん、いつもありがとね、看病のお陰なのかな」



母は無言だった。



巴馴「ねえ、お母さん、お母さん」



母親はゆっくりと立ち上がり、笑みを浮かべながら言った。



母親「あら、どなたでしたか」


巴馴「…。私は…」


母親「出て行って…

どっかいって…!出ていけ…!化け物!」



いつもありがとうって、言いたくて、調子が良くなったことを伝えたかったのに、

そのお返しは、私への拒絶と傷つけること。

私は必死の抵抗で逃れると部屋に戻りずっと一人で泣いていた。


こんな事を毎日繰り返す内に会話も笑顔も消えていって、次第にお互いが関わる時間は無くなった。

もう、優しい母親の姿なんて見られないって思った。

全然頼りにならないし、弱くて非力だった母親でも、その優しさだけは消えることはなかったのに。

初めの頃は辛かったけど、それでも懸命に母親が支えてくれる姿にどこかで甘えていて、いくら泣き言を訴えても許してくれるんじゃないかって思っていた。

私だけが耐えていれば、もっと穏便な日々が続けられたはずなんだ。





私はお腹が空いたら母親に見つからないように冷蔵庫の中の食材を漁り、その僅かながらの食料と水で空腹を凌いでいた。


窓の外を見てもヒテイは居なかった。

最近は庭先にヒテイが居ることもほとんど無かった。

身体の調子が良かったから、外に出て、ヒテイがどこにいるのかなって近所を探してみたけど見つからない。


元気になって…良かった。

私のことなんて忘れて別の所に行っちゃって、好きなようにのびのびと過ごしてるのかな。

凄く無邪気で自由気ままな性格の子だね…。


私はヒテイが羨ましくて、ちょっと妬ましくて、助けたことを少し後悔しかけた。

そんなのってきっと最低な考えなんだろうね。

でもそんな考えが浮かぶくらい、私は心も体も弱っていたんだよ。


外に出ていても特に何もすることは無かった。

少し調子の良くなった程度の身体で出来ることなんて高が知れていて、今さらになったら私一人では何も出来なかった。

動かなくなってしまった母親から、感じられること。

それは、あるかもしれない薬を求める希望は既に永久に消え去ったという事と、このままずっと待っていてもただ、体力と精神が磨耗していって、食料も尽き、

ただ死という幕引きへの道を一歩ずつ進んでいるという事だった。







母親「全部私のせいだ…私のせいだ…私のせいだ…」


巴馴の母親の奈因は、消え入るような、か細い声で、真っ暗になった部屋の中で同じセリフを吐き続ける。

責められなくちゃいけないのは私だけなんだ。

咎められなくちゃいけないのは誰でもない、私だけ。

そうやって、ずっと自分を責め続けていた。


満足に育ててあげる事も出来なくて、

心も、身体も、健康な子にしてあげたいだけなのに、

ただやる事全部が巴馴を苦しめるような気がして

ずっと迷っていた。

何度も巴馴にごめんねって何度謝っても、何の価値も持たないし、無意味だった。


私が今まで何にも考えてこなかったから、深く考えずにいたから、巴馴にこんなに辛い思いを何度もさせてきた。

どうして教えてくれなかったの?

考える機会を与えてくれなかったの?

自分の子がこんなにも苦しみを持つなんて分からなかった。


巴馴を拒絶して暴力を振るう度に自分を殺したくなった。

始めからこうなることが予測できていたみたいに、それ以降の手段、未来さえ見えてくる気がする。

こうなる未来しか見えなくて、どうすれば幸せに過ごせたのか、なんて思考が遠く退き去ってゆく。

そもそもその手段なんてものが始めから無かったのかもしれない。


巴馴の言うとおりだった。

生まれなければ苦しむことは一切無かったのだ。

私のたった一度の判断、過ちが人を、子を、一生苦しめるものにもなる。

それがどんなに行き過ぎた思考であろうとも、こんな結論しか出せない世界が必ずどこかに在るという実態が

私を責めて、絶望させていた。






-

大雨の音が聞こえる。

窓の外はまだ昼だというのに暗く、雨粒によって視界が非常に悪かった。

-


限界は目前にあった。

この生活も残り数えるくらいの日数でしか暮らせない。

その日の私の病状はいつも以上に悪化していた。

ただ誰に言うでもない、独り言を呟く。



巴馴「お母さんごめんね、やっぱり全然病気良くならないみたい。

私、もう駄目なのかな。

生まれたくなかったけれど…やっぱり、死にたくも…ないよ…」



全部の言葉が、涙で喉を詰まらせて声にならなかった。


部屋の戸が開く音がする。

私は布団から起き上がり、顔を戸の方へ向けると尋ねた。



巴馴「お母さん…?」



母親は静かに目の前に来ると、その状況に少し怖さを覚えた。



母親「お母さんこそ…ごめんね。

一番辛いのは巴馴なのに…こんな酷い仕打ちは無いよね…お母さん最低だよね」



母親は隣に座ると、そう言って私の涙を拭いてくれた。

その時の母からは今に至るまでの怖かった表情や感情が消えているように思えて少し安心する。



巴馴「聞いていたの?

ううん、もういいの。辛いのは私だけじゃない。

お母さんも、きっと世界中の皆がそれぞれ辛い苦しみがあるから。

私だけが甘えることなんて出来ないもん。」



嬉しかった。

優しい母親の姿を久しぶりに見て、こんなにもボロボロになっても、まだその温厚と慈愛を持ち合わせた心が壊れないんだって分かったら、私の不安も消えていくように思えた。

何も頼りなんて無くても、何も無くても良かった。

ただそこに優しい笑顔があれば私はもう、この苦しみを少しでも和らげる事が出来る。


雨の音が弱まっていった頃に、少しの間無言だった母が口を開く。

それが、一つとして抵抗の出来る手段のない終わりの合図だったことを、

私は受け入れることが出来なかったんだ。



母親「あのね、巴馴…ねえ、あのね」


巴馴「なに?お母さん」


母親「あのね…

今までの、私の選択がどこまで間違っていて、これからもどんな選択をしていったら正しいことなのか。

どうしようも出来ない世界に、

これが本当に正しい選択なのかが分からない。

生きるということの甘さと幸せな夢ばかり見て、いえ、そもそも普通の生活というものさえ、追い求めるべきものじゃないんだね…

気付くのが遅すぎて、ようやく気付けた時には何もかもが手遅れだった…

私は…」



母親の言葉を遮りたかった。



巴馴「え、お母さん、どういうこと?待って」


母親「だからあのね、私が今まで間違っていた…全部、終わりにしよう?」



そっか、やっぱりそういうことだったんだ。

何か、急に怖くなって、

心臓の鼓動が早くなっていくのを感じていた。



巴馴「ちょっと待って…お母さん。

私、嫌だ。

怖いのは嫌い、苦しいのは嫌い。

やめて…」



語尾に行くに連れて力弱く、震えた声になっていく。



母親「巴馴の苦しい気持ちに代わってあげらないことが辛い、悲しい。」



母親は謝罪をしながら私の両肩に一度手を置いてから、躊躇いなく私の首をゆっくりと締めてきていた。

とっさの事に為すすべもなかった私はそのまま身を任せてしまう。



巴馴「うぐ…う"…あ"……。」


母親「すぐ終わるから、苦しいのはすぐ終わるから、だから言うことを聞いて…

こんな事しか出来ない馬鹿な母親をずっと責め続けていいから、許してくれなくていいから…。

恨んでくれていいから…。」



私は息苦しさに押し込められてしまい、必死に逃げ出そうとしても、力が無くて逃げられなかった。


漏れた吐息の中で苦しい苦しいって力の限り言い放つと、一度、力の弱まった母親を、勢いで押し飛ばした。

母親は柱に背中を打ち付けて、咳き込む。

それと同時に私も咳き込んでいた。



巴馴「…ゲホッゴホッ…

…もう…やめ"てよ…!!

こんな"こと、しなくても、私は勝手に死ぬから"…!!

もう、やめてよ"…!!

嫌だ…やだ、やだやだやだ…!

嫌だよ…もう…何もしな"いでよ…!何にもしなぐて、いいから"…!!!」



呼吸を乱しながら、悲痛な泣きそうな声で

やめてほしいって何度も懇願した。

でも、やめてほしいっていう言葉以外が何も出て来なかった。

どうしたらいいのか、何にも無くて、分からなくて

どうせ、すぐ死ぬのに、やめてほしい理由が分からなかった。



母親「痛いよ?何するの巴馴?

悪い子だね、巴馴のためだって言ってるでしょ?

言うことを聞いてよっ!!」



母親は立ち上がって巴馴の前に来ると、叫びながら押し倒した。

半狂乱になっていた母親は、本気で殺しにかかってきていた。



巴馴「ぐ…る"し…い"………よ…」



もう…これで死ぬんだ。

誰か助けて…って、心の中で叫んでも聞こえないよね。

そもそも守ってくれる存在なんて私には居ないのだし。

ばいばい、痛みと悲嘆に満ちただけの無価値な私の一生。


ほんの一時、時間の感覚がなくなって、当たりがふわふわとして、頭が真っ白になっていく瞬間だった。


突然大きな音がした。

雨の音とかそんな尋常なものではない音。

その音源の先、窓のあった外を遮る壁だった。

家の壁は壊れ砕けていて、外に面していたその壁が破られたそこにはヒテイがいた。



母親「なに…何の音っ…!」



唐突に母親が手を離す。

突然離されたその手に、私は起こった状況が分からなかった。


ヒテイの毛から雨の雫がポタポタと落ちていく、その時間が少し長く感じた。


母親は、ヒテイを見ると立ち上がろうとする。

それと同時に私は咳き込みながらそこにいたヒテイに驚き、ヒテイ…と、小さく声を出した。


…その刹那にヒテイは私の横を通り過ぎ、母親を噛み殺していた。

私に見えたのは飛び散った鮮血、体にかかった血痕。

ヒテイの牙は、母親の顔面と首筋、胸を貫いていて、瞬時に母親は誰が見ても即死の状態の姿となった。

そして、それがさらにヒテイに何度も噛み砕かれると、その体はもう誰だったのか分からないくらいになっていた。

ただ、一瞬のうちに母親は何者でもない血に塗れた肉の塊に変わっていた。


私はその血潮の主の姿を想像するだけで、恐怖して、振り向けなくて、目を瞑った。

それでもまだ、私の横では耳を塞ぎたくなるような骨を砕く音が響き、血と肉が擦れる粘りをもった咀嚼音が続く。

もう、やめて…見たくない…聞きたくない…。

目を瞑り、耳を塞ぎ、入り込んでくる、受け取れる感覚を全て遮断していた。



少し静かになったあと、母親の姿を見る。


その瞬間がとてもあっけなくて、

起きた出来事の全てを把握するのに時間がかかって、ようやく全てを理解し始めた時には

私の頬に雫が伝うのを感じ、ごちゃごちゃになった胸が詰まり、かすれ出た嗚咽の声が口から漏れていた。

何でこうなったのか、急すぎる出来事にただ動揺して、目の前のものを否定するために、何か、声を出したかった。


次第に嗚咽は慟哭へと変わっていき、

血溜まりの肉塊に近付いて、頬から大粒の涙をその血溜まりに零していた。



巴馴「う…う…うう"あ"ぁ…ああ"、ごめ"ん、な"さい"…ぅ…あああ、おがあ…さん"…ごめ"ん…なさ"い…あ…ああぁ"…。」



もっと母親と普通の生活を体験してみたかった。

こんな母の鮮血を見たくなんかなかった。

私が描きたかったのはこんな世界じゃない。

母親は決して悪くはない、ただ神様を信じてしまったからこんな結末になってしまったんだ。


もう本当にこれで母親は動かなくなってしまった。

最後に見たあの優しい姿と声を何度も思い浮かべても、目の前にあるのはただ血にまみれた塊で

そこから一言も発せられる事はなかった。


今まで私の為に尽くしてくれたことも、全部が裏切られた気分だった。

一体それが何かの役に立ったのだろうか。


お母さんは何のために生まれてきたの?

こんな結末のために生まれてきたんですか?

教えて、神様。







時間という概念を忘れ、放心し、状況を否むように動けなかった体をようやく僅かに指示できるようになった頃、

大雨は未だ止まずに降っていて、その血だらけになった自分の手と体を洗い流すための雨として利用するために外に出た。


外に提げてあった魔除けが大雨に打たれて流されていた。

編んで作ってあった葉も全て解けて壊れバラバラになっていて

それらが、地面の泥と雨水を吸い込んで崩れ、本来の形を失っていた。

雨の日に、家の玄関の中に取り込むはずだったものを、誰も行わなかったから。

その葉を手に取って千切っていた。

もう意味を成さないものは要らない。


せっかく作った物も、どんなに良くできていた物であろうと

お母さんとも誰とも、もう作る意味も無いじゃん。

私だけじゃもう何の意味も果たさないよ、守る家だって守りたい体だって何処にも無いのだから。



巴馴「辛くなんかない…全然何とも思いもしない」



大雨の中に出た私は、何故だか少し緩む頬と、身体全体に雨粒が当たり、私の止まらない涙と共に流れ落ちていく。


有象無象が混じり合う気配を近辺に感じていた。

海の向こうから幾多の亡霊とも言えるような魔物が、私の前まで押し寄せて来て、甲高い笑い声を喚いたり、鈍く低い絶叫を轟かせていた。



巴馴「来るな!消えろっ!消えろ…!」



それらが頭の上で何か囁いてきて、肩に重くのしかかってきた。

私は精一杯の力で腕を振って追い払おうとしても、圧倒的な数に押し込められ、身動きが思うように取れなくなっていた。

遂に出せる力を全て使い果たすと、俯き、しゃがみ込んで頭を抱えていた。



…重かった体が少しずつ軽くなっていく、魔物が叫び声をあげて消えていく。

顔をあげると、さっきまで家の中にいたヒテイが私と同じ雨の中に出て周囲の魔物を片っ端から全部追い払っていた。

ヒテイの素早い動きと遥かな力量差に為すすべもなく次々と魔物は消え失せていく。

先ほどまで大量にのさばっていた魔物が一人残らず全滅させられると、ヒテイはその場を去っていった。


そっか、今は魔除けなんて無くても、ヒテイがいてくれるんだ。

ヒテイが私を守ってくれるんだ。

何も怖いことなんかない。

みんなみんなヒテイにこの身を委ねてしまえばいい。


挿絵(By みてみん)


残酷なまでに進み続けるその時が、もうこれ以上進まないでって何度も願った。

次にどんな悲惨な出来事が待っているのか、怖くて、怖くて、想像したくなくて、

もう、明日が訪れないでって、明日をこの私の目に映さないでって悲願し続けていた。


このまま時が進み続けてもいずれ息絶える自分の姿を想像して、それに恐怖するとうずくまって、苦しくなって、何にも行動が出来なくなる。

こんな事を続けていても、ただ辛いだけってことが分かってるから

だから、このまま早く死んでしまった方が苦痛も、恐怖も消え去るだろうって考えが何度も過ぎり

感覚を全て放り投げて無に返す、安寧の、無限に続く永遠の、死を求めていた。







夢を見ていた。

嬉しい事があったら皆で分かち合えて、悲しい事があれば皆で乗り越えて、そんな事が当たり前と言える、良好と言えるような日々を過ごしていた。

一人ぼっちでいる人には手を差し伸べて、手をつないで寄り添ってあげていた。

そんな、儚くて意味のない、夢。





朝の日差しと小鳥の鳴き声で目を覚ます。

昨日の大雨が嘘みたいに空は晴れ渡り、青々と広がった天が真上にはあった。

しかし、昨日の出来事が嘘ではないと証明させたのは、家の中にあった母親の死体だった。


昨日はあのあと、私は家の中に戻ると、血が染み込んで雨でずぶ濡れになっていた衣服を脱ぎ捨て、新しい服に着替えると、夜になるまでずっと雨が降り止むのを待って外を見ていた。

夜になって雨の勢いが弱まって来た頃、外に出て軒先で雨を避け、その家の脇に敷物を広げてその場で眠っていた。



晴れ渡った空の元、私はこの家を出ていく決意をした。

別にどこにいくわけでもなかった。

ただ、あの家には居られないからだ。


私は可哀想な子だったのかな?

みんなは私をどんな目で見ているのだろうか?


母親を見ても、どんな痛みだったのか想像出来なかった。

その皮膚が裂かれて、血が溢れ出る傷口を見ても、その死ぬ程の痛みは私には伝わらなかった。

感じたことが無いからだ。

それと同じ様に私の痛みは誰にも分からない。

どんな痛みも苦しみも、恐怖も、体験した事のない人には考えも及ばない。

今まさにこの瞬間、苦痛を覚えている人でない限り、嘘を言っているように見えるくらい、非情なまでに伝わらないんだ。

私を遠くから見ている人は、私のことを可哀想な子を演じる役者くらいにしか思えないんだろうね。


誓ったよ。

例え、この先に温かな日々があって、その生活が幸せなもので上書きされようとも

この苦痛と恐怖の中で戦い続けてきた記憶を、私は絶対に忘れない。

忘れちゃいけないものなんだ。



波の優しい音が私を癒やしてくれる。

静かに流れるこの空間がずっと続けばいいのに。


-

海に浮かぶ島に続く海原を見ると、何故だか知らないけれどかなり激しく潮が引いているのが分かった。

時期的に珍しい上に、昨日は大雨だったのにも関わらずだ。

多くの点在した岩の頭が確認出来ていて、この様子だと本当に島までたどり着けそうなくらい海の上を渡れそうになっていて、それはどこか招かれているかのようにも見えた。

-


一度行ってみたかったあの島。

少し、足を踏み出して行こうと思った時、その島の有り様を目を凝らしてよく見る。



大量の魔物がうじゃうじゃとひしめいていて、塊のようにくっ付いては分裂している。

ぐにゃぐにゃと蠢く、一つでありながら多数居る生き物のような姿がそこにあった。



私は、猛烈な耐え難い嫌悪感を覚え、すぐにその場を逃げ出した。


一度家に戻り、残りのもう無くなりかけた僅かばかりの米を手にし、最後の本当の別れを家に告げて、近所の御神木まで足を運び、持ってきたお供え物の米を捧げるとその場をあとにした。


その後の私の飢えを凌がせてくれたのは、ヒテイのおかげだった。

ヒテイが私のために色んな食べ物を山から採ってきて、私のいる場所に何度も突然現れては届けてきてくれたからだ。


巴馴「ありがとう、ヒテイ…お母さん」



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