終章 存在しない数多の心音を聴いて
それから一年が経過した。
穏やかな春の季節。
二礼二拍手一礼。
静かに目を閉じて優しい祈りを想う。
人々が皆が、苦しまないで日々を暮らせるような、そんな幸せを願って。
私はその温かい日常の中にある平和を信じ続けることしか出来ない。
町の片隅にある小さな神社でのお参りを済ませ、また町中に戻った。
◇
私、舞永吊は、あのあと心神喪失状態になり、一人でなにも出来なくなった。
それを烏蓮が、ある小さな町まで運んでいった。
宮海壮という都から30kmほど離れたはずれにある、身寄りのない子供や体の不自由な人たちを支援する団体によって出来た小さな町。
その町は、安聖文と呼ばれている。
そこは、前に住んでいたラッカほど山奥の場所にあるわけでもないけれど、静かな町だった。
私がそこに預けられてから、最初のうちは食事も出来なくて、言葉も話せないほどに衰弱していたけれど、烏蓮や周りの町の人たちに支えられて、何とか3ヶ月ほどしてようやく少しずつ会話が出来るようになっていった。
今、この町にもう烏蓮は居ない。
私の調子が戻ってきて少しずつ元気になったのを確認すると、
すぐにこの町から去っていったらしく、その後の彼の行方を誰も知る人は居なかった。
彼の包帯の下の顔は、誰も見なかったのでどんな人だったのか分からず、それがどんな顔をしているのかは、私はおろか他の町の人もみんな知らなかった。
包帯は毎日綺麗になってはいたので、一人の時に替えてはいたんだろうけれど。
私はこの町でも上手く人とは馴染めていなかった。
でも少し安心感はあったけれど。
烏蓮は、この町を去っていく時に伝言を残していたらしい。
というのも私に対して残した訳じゃないんだと思うけど、町の人が教えてくれた。
"
烏蓮は前に都に居るとき、好意を持って付き合っていた彼女が居たらしいんだけど悲劇的な別れをしたらしい。
結局それからというもの、その彼女に会ったことは無いらしいんだけど
初めの頃に好きだった頃のその彼女の姿なんかはどこかでずっと覚えていて
それで、私を見た時にやっぱりどこか少し似てるなって思ったんだって。
でもそれはここにいる私と、都に住んでる彼女とはそもそも違うんだから、全く別なんだと思うけれどね。
烏蓮は、その彼女から聴いた事の無いセリフも頭の中にあったんだって。
「どこかで、何かの縁で会えたら良いなってずっと思ってるから」という。
きっとそれは彼女が本当に放った言葉なんだと思う。
…いや、そんなまさかね。
"
その伝言を聞いたとき、何か自分も引っかかるのを感じていた。
ラッカに居た時、そういえば私も裏錯という人をずっと想ってたなって。
何故、そんなにも想っていたのか。
本当にずっと、過去の中で愛していた人。
どこかで会ってしまったらもう何もかも終わりなような気がしたから、離れるしかない…ってこと?
だから私から裏錯もみんなも居なくなっていくの?
この町から烏蓮が去っていったのもそれが理由?
なんか、変なの。
でもきっと、出会ったらもう確実に終わりなんだってことが分かった気がした。
◇
今日はある場所に向かう。
町に住む鳩祷という人にお願いして、車を出してもらった。
彼は、烏蓮と知り合いでこの町でお世話になっていた人らしい。
たびたび、一月くらいのペースであの山へ送り迎えをさせてもらっていた。
巴馴が亡くなっていた所。
そこへ行ってお墓参りをしにいく。
着くと、鳩祷さんは少し離れた所に車を停め、そこで待っていてくれていた。
…
一人で巴馴のお墓の前に歩み寄る。
町の人と烏蓮が立ててくれた、自然石で出来た小さな巴馴のお墓の前で、私はまた泣いていた。
山の中の桜は未だに咲いていた。
この桜、冬に咲く冬桜だと思っていたけれど、どうやら違うらしい。
と言うのも、この桜は一年中咲き続けていた。
いえ正確には、私の目の前で枯れている姿を決して見せなかった。
この桜は自らの命を生け贄に捧げるように、即刻の間に花開き、私の見える所で見事に咲き誇って見せていたのだ。
おそらく、この世界の人々の誰もが見なくなっている、認識しなくなっている所で、瞬時に枯れているんじゃないかという実感をなんとなく抱いていた。
またここに来ると、ふとこの山を遠く抜け出してどこか誰も知らない土地へ行きたくなる。
色んな誓いも、悔やみきれない思いも、
いずれは忘れ去られるくらいの名ばかりの薄い契りのように感じていた。
それでも私にとっては背負いきれない胸の内の重みは、月日の経過の中で私を一歩たりとも前に進ませることを施してくれない。
ただそれだけでもう充分だと分かるからだ。
大気からは数え切れないほどの漂う命の素が降り注いでいる。
それがどこからやってくるのか誰も分からない。
何でまだこんなにも苦しくなるんだろう。
…
持っていたかばんを下ろすと、かばんに付けていた鈴がリンって鳴った。
この鈴は確か…以前に今境神社からひとつ頂いていたものだった。
鈴の音に寄せられ、一匹の舞う淡い輪郭を呼んだ。
蝶がひらひらと飛んでいる。
この蝶…そうだ。
私のそばをいつも羽ばたいていてくれていた、リツだ。
まだ付いてきていたんだ…。
その蝶を横目に見てから、また前に向き直る。
舞永吊「ごめ…ん、巴馴…、私は何も…してあげられ…なくて、
今でも、ただ願ったり、祈ったりすることしか出来な…くて。」
また弱気になるだけで、いつも私は何にも出来ないって感じて、
過去ばっかり考えて辛くなって、それで遠くの世界に行きたいのに、それも怖くて
そしてなんだかよく分からないけど、始めの頃は意味もなくずっと嫌悪していて。
遠くにあるのものが嫌いだったのに、近くにあるものに裏切られて、
次第に近くのものが嫌いになって、遠くに逃げたくなる。
結局どこにいけばいいか分かんなくなって、ずっと泣き続ける。
次にどこを目指して行けばいいのか分からなくなるだけだからだ。
◇
どうしようかな…。
やっぱりこの場所から逃げていって、今の町からもまた出ていこうかな…なんて思っていた時、
…なにか、穏やかな空気が肌を伝ったような気がした。
そうして、円を描くように周りを見渡す。
さっきのリツが居た。
そして、そのひらひらと舞う蝶の中に、ある一人の面影を感じていた。
その影が薄く存在を見せてくれたように感じた。
散槃「…舞永吊。」
わずかの困惑があった。
あの人の声を聴いた…気がした。
舞永吊「散槃…?散槃…!?」
しんとした静寂の中に聞こえてきた小さな声。
散槃「やっと…気付いてくれた」
その瞬間に目の前の蝶が消えて、後ろに温かい気配が回っていって、静かに私の背後に触れた。
私は振り向かず、その声を集中して感じて聞いていた。
散槃「舞永吊は気付いていなかったかもしれないけれど、私はずっと姿を隠して舞永吊と一緒に居たんだからね。
ラッカで別れを告げてからも、私はずっと舞永吊のそばに居た。
舞永吊の、この苦しくて辛かった日々の中で受けてきた感情を私も一緒に抱いてきた。
私はただ舞永吊を見守り続けるだけで、頼りにはなってなくてごめんね。」
舞永吊「リツ…。
散槃、だったんだ…!
散槃、ちり…は…。」
私の目からはまた何度も涙は零れ、そして涙の流れを強め、大声で泣き出してしてしまっていた。
突然の来訪に何を言っていいのか分かんなくて、ちょっとの間黙っていた。
散槃「…いくつか舞永吊の心の支えに少しでもなるために、なにかまたお話をしてあげようと思う。
これは私と舞永吊の内緒の話だからね。
そうだね…何から話していこうかな。」
しばらく、散槃の声から感じられる愛情を受け取っていた。
長いように感じたけど、ほんの数十秒くらいの間だと思う。
少しずつ落ち着きを取り戻していく。
散槃「それと、ラッカに居た頃は疑いを持たせてしまったこと謝らせてほしい。
この世界で誰も信じられなくさせてごめんね。」
舞永吊「ううん、私は散槃をずっと信じたかった。
散槃の約束と、言葉にずっと支えられてきたから…。」
散槃「ありがとう。
これからも舞永吊の心の中に降りてきた私の言葉を信じていてほしいな。」
舞永吊「うん」
散槃「いつも見守っているから、不安になった時も苦しくなった時も迷った時も、必ずそばにいるって事を思い出して欲しい。
そして同じように、舞永吊のそばに静かに接してくる人たちは、言葉を交わさずとも分かり合える、私と舞永吊と同じように良い心を持った人であるって事を信じていて欲しい。」
散槃「今、私が人だった頃の体は無くなってるけど、人として生きてた頃の私はずっと舞永吊の近くにいます。
そしていつかまた、このコエデハとしての体が無くなったあとでも、どこかで嘆き苦しむ人がいれば私は味方をします。
そして、伝えられる時が来たのなら必ず伝えます。」
舞永吊「うん…!」
…私にはまだ、ずっと迷いがあったようだった。
何も出来ないからって狼狽えて、今という時間にただ怯える。
戸惑って、存在の質感に足をとられるだけだった。
きっと、その私の胸中をずっと影で散槃は見通していたんだって思う。
散槃「時には私たちが苦しみだって思うかもしれない、それさえなければ苦しむことを感じることも無かったはずなのにって思うかもしれないけど、それらが本来の帰る場所だって信じていてほしい。
必ず私たちが正しい方向へ導きます。
…それじゃ、舞永吊にとって大切な事を伝えておこうと思う。
よく聴いてきて。
今なんてものはどこにも無いのだから、今という時間ばかりを考えて、そこに自分という存在の居場所を無理に求める必要なんてどこにもないし、
今は何も無いということに、不安になる必要も怯える必要もない。」
いくつもの優しい言葉と多くの伝言が、私の内に伝う。
散槃「今をほんの一時だけなら見てもいい、けれど今という時間、未来という時間を不安な時に絶対に考えてはいけない。
忘れかけていた過去の温かい日々を思い浮かべた時に楽なのであればそれでいい。
もっと言うなれば、本来は想っていてもいいのは過去だけです。
それは自分の人生の中だけじゃなくて、もっともっと古くて、遡っていったところまで考えてもいいです。
そこに、本物の未来に近いものがあるはずだから。
いずれそれが苦しみの感情となって心が深い闇に落ち、よく分からなくなってきたのなら、周りを何も見ず、自分の中をもっと深くよく考えていったらいい。
そこには本物の綺麗な心があって、必ず私たちが皆で待っています。」
私は言葉では伝わらない多くの感情を学んでいたような気がしていた。
ただの思い上がりかな、でもそれでもいい。
散槃「これらの言葉は、この思いを共有した舞永吊と私と、知っている人全員の秘密にしようね。」
舞永吊「うん、分かった…!」
散槃「みんなみんな、"お帰り"の言葉を言うのをずっと待っていたんだよ。
舞永吊たちの生きてきたお土産話をずっと待っていた。
この世の真っ暗な世界で流した涙のぶん、私たちの世界は多くの微笑みで溢れている。
私たちの居場所は古い古い形のない形となった記憶の中に必ずある。
私たちが歩んできたものはその中に記されていき、舞永吊と、そして全ての命の心の中に必ず存在する。
それは永遠に変わることも、無くなることも絶対にない。
綺麗な星々のようにいつまでも完全に保たれている。
そう信じていてほしい。
みんながその記憶の中で一つになります。
それはみんな同じ。
舞永吊は巴馴を亡くしたことをとても悔やんでいるけれど、体を失えば私たちは一つになれる。
だから、死を臆する必要も無い。
舞永吊が感じてきた苦しみも痛みも全部受け入れて、その体を失った時、いつでも舞永吊を迎えいれます。
巴馴もきっと、舞永吊がいつの日にか帰ってくるのを待っているから、今はなにも焦らなくてもいい。
そしてこの先、舞永吊が体を失うまでの間に
例え何度も絶望して心が砕けそうになった時でも、必ず私たちがそこから救い出します。
そうした時に、本物の光が放たれていることを証明させてみせます。
それが、理だから。
だからこそ、この世界で辛い境遇になった時こそ、心は強気になっていって欲しい。
もし、いつかこの言葉すら信じられなくなってしまう時があったとしても、それはそれでいい。
不安のままでいてもいい。
それが舞永吊を守ってくれるから。
私たちはみんな心の中でまで戦う必要なんてない、思いの中では争いなんて何もない。
だからもう動揺しなくていい、嘆かなくていい、迷わなくていい。
この世界は次から次へと多くの物が変わっていってるけど、舞永吊が生きている間には、絶対に変わらない事もたっくさん!あるんだよ。
それを絶対に忘れないでいて。」
変わり消えていったものと、絶対に変わらないたくさんのこと。
舞永吊「ありがとう…。
どうしても苦しくて耐えられない時はどうしたらいい?」
散槃「辛くて苦しい時も、終わりが来るから信じて待っていればいい。
必ず終わりは来るから。
苦しい時も、それは一時的だから、なにも怖がる必要は無い。
ただ終わりを信じていればいい。」
舞永吊「…でも、一時的に終わってもまた始まってしまうんじゃ。
そうしたら、いつまで経っても終わりなんて来ないかもしれない」
散槃「確かにそうかもしれない。
けれど、その時の舞永吊は心がもっと強くなっていて、
今度からはそんな辛いことにも負けないし、振り切ることが出来るようになっています。
始まる事に怯えることも無い。
そして、いつか辛くて苦しいと感じることにも必ず終わりが来ます。」
舞永吊「…もし、でもいつか本当に苦しいことを忘れてしまったら、涙を流す事や、正しい事を忘れてしまうんじゃ…。」
散槃「ううん、きっと大丈夫。
舞永吊が正しくある限り、正しい事は絶対に忘れません。
周りを怖がらないで、心が優しく囁く声を聞いて。
この世界が怖いって感じることも多いと思うけど、この世界には怖いことなんて何にも無い。
未来を怖がることもない。
この世界ばかりずっと見ないで。
この世界ばかり考えないで。
そして、遠くの世界で起こっている出来事を見て悪く思わないで、そこは自分の住んでる場所と同じだから。
そしてまた私は何度でも伝えます。
この世界に幾度となく裏切られたとしても、
いつも私たちの居場所は"変わらない事の中にある"。
だから例え世界がまた動き始めたとしても、何も怖じ気づくことはない。
この舞台が変わり続けることの中に、決して変わらない事がいつも秘められてあるから。
それを感じていればいい。
大丈夫。
苦しくなったときは、空白の中に眠る私の心音を聴いてください。
必ずそこに居ます。」
私は口を閉ざし、散槃の告げる言葉に身を委ねていた。
もう、私から発せられる言葉は何も無かった。
◇
◇
…
永く久しい、恒久の時間が額を抜けていったように思えた。
気が付くと周りの気配が少しずつ消えていった。
巴馴のお墓の前で祈りを捧げ、その場を退いた。
巴馴のもとへいつか必ず行く。
きっとそれは、もうすぐ近くにある。
すぐにそこへ私も行くことになる。
この体があるのはほんの一瞬だから、何も今寂しがることもない。
散槃の声を何度も胸に反響させて感じていた。
澄み切ったこの風が、何の始まりの旋律なのか。
それを理解できる私は、もう眼が醒めていたんだと思う。
もっとたくさんのことを、この肌を撫でる変動の多くに伝えたいのに、教えることが出来なかった。
生まれることの悲劇を、どうしたら伝えられるんだろう。
存在することは苦しみを促すための算式でしかないと、どうしたら分かってもらえるんだろう。
明るい未来を信じることこそが裏切りの形であると、いつになったら人々に理解されるのだろう。
◇
その後、鳩祷さんにお願いを頼んでラッカへ連れて行ってもらった。
どこにあるのか詳しいことは分からなかったけれど、この山の中のどこかに村があるはず…という事を伝えると、
車を走らせて探し回ってくれて、発見した。
到着してまず始めに見えてきたのは、いくつかのカシャクがその村の中で徘徊している様子だった。
もう人間の姿をしているコエデハたちはどこにも居なかった。
でも、そのほかに蝶の姿になっているコエデハも何匹か確認することが出来た。
鳩祷「こんな所に村があったんだね…。
誰も知らないんじゃないか、ここ。」
舞永吊「私は知っていましたよ」
小さく微笑みを浮かべる。
鳩祷「人間が残したと思われる建物はたくさんあるけれど、人はどこにも居ないね…。
それに、ここに居るのは…カシャク?
あの永遠に続くような長い寿命の中でずっと苦しみを受けている、と聞いていたけれど…」
私はカシャクのもとへ近付いていくと、腰を低くして目線を下げて座った。
鳩祷「ちょっと、怖くないの?
あんまり近付くと危険だよ、なにか危害を与えてくるかもしれないよ」
舞永吊「大丈夫です」
カシャクは私のそばに寄ってくると、すぐ隣で止まった。
カシャクはなにかよく分からない言葉を話している。
よく分からない音を発している。
私は静かに頷いて、その音をよく聞いていた。
舞永吊「なにも危険じゃない。
姿が人間じゃなくても、形が違ってもみんな同じ。
それに、言葉なんて話さなくても心の中だけで分かってくれる。
相手の心を強く信じればいい。
種族が違っても、決して触らなければ、触れ合わなければきっと理解し合える。」
向かい合って目を瞑り、無言で相手の心を信じる。
表面上の言葉なんてただの飾りみたいなものだから。
舞永吊「声に出さなくても伝わってる。
そんなこと昔から知ってたはずなのに。
あの時カホちゃんと一緒にそう語っていたこと、
昔の先祖が伝えてくれたこと、
失ってはいけないこと、
そうやって、また散槃が教えてくれたこと。
それら全部が全ての理由だから。」
苦しくなんてない、何も怖くなんてない。
長い間苦しむ必要なんてない。
私からそれを教えることは出来ないけれど、カシャクたちもきっといつか、そのことが自然と分かる日が来るから。
…
カシャクたちと別れを告げる。
またいつかこのラッカへ遊びに来ることを言う。
その時は、もっとたくさんのコエデハたちと一緒に出迎えてねってことを伝えてから、私はラッカを去った。
◇
それから、もう一度山の中に戻ってから、今境神社にやってきた。
リツを呼ぶ鈴を、社の中に返しておいた。
今境神社でのお参りを済ます。
舞永吊「神社の拝殿の奥は、神様が宿っている場所だから行っちゃだめなんですよね」
鳩祷「そうだよ。勝手に立ち入っちゃだめだよ」
神様っていうのは見てはいけない。
だってこの世界には居ないし、現れないんだから。
見てしまったらそれは神様と呼べるものじゃない。
それが現れたなら、私たちはもう抗う事が出来ない。
どこまでいっても絶対に神様には勝てないのだから。
神様に情けなんてない。
人々の下らない陳腐で飽き足りた喜びや明るく見える偽物の未来を一瞬で暗闇へと沈降させてくれる。
そして、何が正しいのか分からなくて迷い続けている子どもたちをさらに深淵へと降ろし、地の底へと突き落とす。
ただ、無意味で奇怪で不必要な点を打ち込む。
舞永吊「この世界に神様は居ない。
だけど、何かがそこにずっと保たれているって感じることは出来るし、そうやって信じるものなんだよね。」
そうして、自分の心の中だけに秘めておくものだから。
私は、"存在しない数多の神様の存在"を忘れちゃいけないんだって思う。
いや、忘れてしまうのも当然であるというのならそれもまた仕方のないことなのかもしれない。
忘れるのも運命、大切に築かれた神社が崩れゆくのも運命。
私の歩む道すらも運命。
体は前に進みゆくことしか出来ないのも仕方のないこと。
何も分からずに意味の無い世界を切り開いてゆくことしかならないのも仕方のないこと。
そしていずれは、結局最後にはここに戻ってくる。
神様と共に、形を持たない自然への信仰へと。
私のいかなる行いも、最終的にはどれもこれも意味の無いこと。
この世界にどんなに裏切られ、加虐され、絶望しても、
それら全て自分が小さい存在であるからという自覚を抱いていた。
もはや感覚と思考、感情、そのものこそが世の核心に属するもの認め、それらに自分は守られていることを感じ受けていた。
それら全てを含め、自らの体の小ささと共に、私はもっと大きな存在というものに、どれだけ足掻いても抗えないという実感を抱いていた。
あの霊峰を見ていた太古の人たちのように
存在しない神様と共にゆっくりゆっくり、歩調を合わせて、
不断の行為の中で、不変の影を抱き、
心を常に静め、観念の取り消しと、迷いの元をよく知り分かり、何も選ばない事と死の恐怖を覚えながら歩み出したい。
私は現世に何にも抱かない。
物や飾りなんて手放して、必要の無いものはもう何も手にしない。
形式的な動作じゃなくて、形や物で現すんじゃなくて。
見るんじゃなくて、触るんじゃなくて。
大切なのは、全ての理由を感じること。
◇
どれほどまでに神様は優しい存在なのか。
どこまでなら神様と呼べるのか。
どこまで行ったら神様になれるのか。
神様になることが出来たのなら、きっとこの世界に大きな混乱をもたらすだけなんだと思う。
◇
◇
どこまで追い求めても解の出ないというその恐ろしい重大な解が意味するものについて、彼らは未だによく分かっていないんだと思う。
彼らって誰かって?
よく分からない。
近くに居るようで遠い世界に居る、名前も知らない人。
でもたぶんそれはみんなだと思う、みんな。
孤独に冷え切るお客さん以外のみんな。
でもそうじゃなきゃ世界はまともに動かないんだから仕方ないんだけどね。
いや、動かなくていいけどね。
うん、そうだ。
それが一番正しい。
「安息を求めれば災いが降りかかる」
それが思考のなかでも行われるという実態が、謎をさらに深淵へと深めていく。
しかし、その理由を心に聞いたときに明快となっていく。
仮定を立てたとしてもあくまでも仮定でしかなくて、逆の解釈を持つことも出来る。
私たちの組み立てた論理は既に始めから破綻していた。
それどころではない。
全ての学術的な証明によって導かれたものであってさえ、それらによって築かれた全ての認識や常識も仮定でしかなく、始めから破綻している。
疑いは真実を生み、真実は疑いを探す。
それらは決して変わることなく、変化していく。
迷いも嘆きも苦痛も恐怖も、私が存在しているから、または存在していないから、という何らかの理由があるかさえみんな誰もよく分かっていない。
カシャクとなったコエデハたちは、永遠に続くほどの苦しみを本当に感じ続けているのかな。
私には見えていない。
しかし私にとって、その苦しみがあるという事は理解出来るような気がしていた。
そして、その永遠性と苦しみはカシャクに限った話なのだろうかと考えていた。
ただ私は、新たに生まれてくるかもしれない存在しない数多の心の嘆きの声に耳を傾けることしかできなかった。
人として生きることを忘れること、小さな体の偉大な命に郷愁を抱くこと。
独りぼっちで泣いているたくさんの星を聞くように耳を寄せてあげること。
遠い記憶を思い出してあげること。
そして、誰もこの世に連れてこないこと。
この思いを忘れずに共有出来たなら、全てが無かったいつかの過去へ想いを抱き、帰ることが出来ると信じていたい。
しかし、それは私が人であるがゆえの…もしくは、人間であると思い込み過ぎているがゆえの強い望みなのかもしれない。
そしてまた私は永遠という観念に飲み込まれていくことしかできない。
私だけが孤独の世界で、私は静かに消えていく。
この体が自然に朽ちるまで、全ての生命の普遍とする活動にわずかな微笑みと、見えない所で多くの涙を流し、何も語れずに西の空へ沈んでいく。
いつか、無惨に崩れ去る"時の堅牢"を突き砕く儚い夢を現すよりも
私だけが全ての原初に帰ることが出来るならそれでいい。
目の前で消え去ってしまう色鮮やかに見える無意味な明日や未来は、もう何もいらない。
だってそれは、全部私がそう決めたことだから。
そして、あなたもそれを望んでいたはずだから。




