序章 空白の心音
陽が傾き始めていた。
この世界に、人が自分のほかに一人として居ないのなら時間は止まっているように見えるはずだった。
自然はあるがままの状態を維持して、咲いては散る移ろいが永遠に続く。
その変動に意味は無いし、変動それ自体が意味を持たないのなら、その基底と成す空間も私には必要無かった。
それらの動向をもたらし決定付ける世界に、自己の存在が関わる余地が無いのだ。
誰かがそこに居ないということは比べる対象が無いのだから私という物語も語られない。
これほどまでに素晴らしい事を捨て置いて、どうして私の心はまた脈を打ち始めていたのか。
要するに、この世界に生まれてきたという始まりにして最も悲惨な出来事によって受け継がれた自己本位な体は、今もなお息づいているということだ。
◇
◇
山々は日没の残映によって赤い景色へと染められていく。
朧封舞永吊は、その夕陽に照らされていた赤い果実を手にして微笑むと、それを袋に包んでカバンに収めていた。
ふと、寂れた境内の角に目をやると、大きさの違う二つの影が伸びている。
ひっそりと物音を立てずに近付いてみる。
そこには一人の小さな人の女の子がいた。
彼女は、その隣に大型の犬のような体型を持つ一匹の動物を連れていた。
人の子の何倍もの体格のあるその動物は、危険な面持ちをしていて、大きな牙と爪は隠されることなく暴力的にその破壊の様相を晒していた。
その様子から、始めは襲われてるのかと思って向かってみたがどうも違うらしい。
私は静かに近くへ立ち寄ると話し掛けたのだった。
舞永吊「こんにちは」
女の子は怯えた様子で振り返った。
その子を映した姿は、幼い顔と傷跡、そして樹木のようなものに害されている片目だった。
女の子「わっ…お母さんをいじめないで…!」
隣の動物をかばうようにして、その子が初めに発した言葉はそれだった。
流れて、語り継がれたあとに、使い古されて放置され、
今となっては誰も訪れなくなったこの山に隠れて閑散とした社へと何しに来たのだろう。
いや…きっと平和なものじゃ無いんだろうね。
その子の隠されることのない傷跡が私の胸を荒ませていた。
女の子「ごめんなさい…っ…!ヒテイってば私が寝てる間に勝手に知らないとこに連れてきたみたいで、別に邪魔なら私は、それで…」
私はカバンから先ほどの赤い果実を取り出して、少し齧って差し出した。
舞永吊「おいしいよ」
私は笑顔を女の子に向けた。
その子はおそるおそる果実を受け取ると、ほんの少しずつ食べ始めるのだった。
◇
女の子の名は塞巴馴と言った。
舞永吊「巴馴の隣にいるのはお母さんなの?」
巴馴は頷いていた。
巴馴「ヒテイはお母さん役。
他の誰よりも私を守ってくれて、すごく頼りになるんだよ、ね、ヒテイ」
ヒテイの牙は研ぎ澄まされたかのように鋭利で、その強大な顎の力で噛み砕かれたら誰もが即死だろう。
でもきっとそれは巴馴には向けられない。
信頼し合って、慈しみ合っているのが分かった。
だから、その牙は巴馴を守るためにあったんだと思う。
◇
◇
誰も訪れなくなった社に、人々は神様の存在を抱かないのだろうか。
そもそも初めから神様の存在なんて多くは信じていなかったのかもしれない。
でなければこのように、神様という大きな存在を相手にして、人は容易く社を手放すなんて真似は出来ないだろう。
今を生きる私にはよく分からない。
昔の先祖たちは、この社をどうして築いたのだろうか。
誰に祈りを捧げて、何を感じ、何を伝えたくて、この社を残してきたのだろうか。
それに対して、何も知らずに残されてきたものだけをただ何となく信仰していた現代の人々が、この社を手放すに至った結末は、一体何だったのか。
おそらくこの寂しげな神様の残骸という終点に至らしめた昨今の人間心理は、ただ自分の存在を知って欲しかっただけなのかもしれない。
神様は、ここに今生きる人々全員をいつも見ていると、誤信していたから。
世界は決して公正ではない。
それを曖昧に感じていながらも、
心が暗く深い闇の中に傾いたとき、見捨てないで欲しいと願い、都合の良い時に守ってくれるような存在が欲しくて縋っていた。
また、人間たちは愚かにも神様の存在を今世の生涯に賭けようと、社を立案した結果、また一時の神様の鎮静を計り、
心の拠り所として現世に現れ、結局はこの形として出てきてしまったのが、この社なんだ。
いつしか、守ってくれるその存在が神様じゃなくても良かったのかもしれない。
人は、もう神様に頼らなくても生きていけるような、代わりの存在を見つけたのかな。
それとも、頼らずとも自分の指標だけで歩き出せるようになったのかな。
どちらも…あり得ないね。