過去 深まる仲
それから数日経った。永が毒を盛ったという話は一部のみが知るだけで、他言無用となった。しかし、永がやったという確証もなく、誰もが疑いの目で見られる日々が続いた。問い詰められることもなく、それは一誠が口添えしてくれたと後で知った。佐和子は回復して元気だという。見舞いに行ったが、断られてしまった。仕方ない、永には会いたくないだろう。
毎日少しずつ夏に近づいているので暑さと雨の日々が続く。庭に植えられた紫陽花の藍が瑞々しく美しかった。
一誠、佐和子、三津……三者に対して複雑な気持ちで、もやもやとした感じがずっと続く。毎日の雨のようにすっきりとしない。それに、何故か時々だが永の物が無くなっていることが続いた。最初は読み始めた物語が……次には使っていた筆が、最近では櫛が。自分を良く思わない人の仕業かもしれない。毒を盛ったという話がどこまで伝わっているか分からないが、永が気に入らないのか。
いや、でも……もしかしたら、自分の思い過ごしかもしれない。だが、何となく他人の目が鋭く刺さっているように感じた。疑心暗鬼になっているのだろうか。
今日は久々の晴れ。澄み渡った青い空が広がり、それだけで気分が良かった。佳に勧められ、永は庭に出ようかと思って庭に面した廊を歩いていた。最近の永の様子は落ち込んでいるように佳の目には映っていたのだ。少しでも気晴らしが出来れば……と考えたのだ。
『えり!』
誰かに呼ばれた気がした。足を止め辺りを見回した……が、いるのは佳だけだ。
「どうかしましたか?」
キョロキョロと辺りを窺う永に様子に、不思議に思った佳が尋ねる。だが、何もない。何だったんだろう。永は首を横に振り『なんでもない』と答えた。
「今日は暑いですわね」
少し後ろを歩く佳が、眩しい陽射しに目を細めながら言った。あれから少しは邸の中の様子も憶えてきた。永は緑と池の上を滑るように吹く心地よい風を感じながら、廊を曲がった時だった。
「永」
名を呼ばれ、足を止めた。
「殿」
永はその場に座り、両手を付いて頭を下げた。細かな所作がだいぶ様になってきて、すっと顔を上げる仕草も綺麗だった。その様子を庭から一誠は見ていた……が。
「きゃ!殿っ!」
永は顔を両手で隠した。剣の稽古をしていたらしく、上半身をはだけさせていた。引き締まった体躯が男らしく、目にするのが恥ずかしかった。一誠は何かと自分の身体を見て、ようやく気が付いたようだ。
「はは!気にするな」
一誠は笑って木刀を持ちかえながら、腰まで下げていた袖に腕を通した。
「ああ、もう着たから大丈夫だ」
永は一誠の言葉に、恐る恐る両手を放すと、確かにもう素肌は見えていなかった。一誠が片手で襟を整える。そして、汗を手拭で拭き、相手をしていた近習に手渡す。
「少し休むか」
そう言って、一誠は永の隣に腰を掛けた。
「永、今日はどうした?」
一誠は用意された白湯を飲みながら尋ねた。ごくりと喉を鳴らして飲む様は、よほど喉が渇いていたようだが、同時に喉仏が男らしさを感じて永は顔を逸らした。
「最近雨ばかりでしたし、少し気晴らしに……」
顔を赤らめながら答えると、離れた所に控えた佳が口元を押さえて笑っているのが見えた。キっと強く睨むと姿勢を正して慌てたようだ。気分が良い。
「そうか、気晴らしか。そうだな……俺は昼過ぎに少し先にある川の新しい堤の様子を見に行く。それまでだったら付き合っても良いが、永はどうだ?」
思いがけない誘いに永の頬が緩んだ。
「はい!」
永は嬉しさで笑顔を零した。先ほどまでの、鬱々とした気持ちがどこかへ行ってしまったかのようだ。
「永、そうだな……そなたは何かしたいとか、どこかへ行きたいとかの望みはあるのか?」
永は人差し指を口元に当てて考える……また思い出の場所に行きたいというのもある。だが、出掛けるというのに手間を取らせるわけにもいかない……。
「永?」
一誠が隣に座る永の顔を覗き込む。永もふと一誠の方へ目をやると、傍らにある木刀が目に入った。
「殿、私と剣のお相手をしてくださいませ」
思いついて言ったことだが、一誠は目を丸くして驚いていた。
「永がか?そなた、昔、一緒に稽古した時は途中で放り出したのに……」
「何となくやってみたいのです……駄目ですか?」
窺うように上目使いで一誠を見た。
「いや、良い。しかし、その格好では……」
永の小袖を見て言葉に詰まる。もっと動きやすい格好をしろというのは分かるが、大した剣の腕前ではないし、それほど必要ではないと思われた。
「このままで良いです。少しだけですから」
永がはにかむと、一誠が頷いた。『じゃあ……』ということで二人して木刀を持ち、庭に降りた。さすがに陽射しもあり暑い。
向かい合うと、一誠は永が相手でも真剣な顔をした。引き締まった表情が男らしい。一瞬見惚れてしまったが、永も首を振って気を引き締めた。両手で木刀を持つと、一誠はかかってこいと言わんばかりに身体の前で構える。じりっと草履が土を踏みしめる音がした。
「やあっ!」
永が頭上まで腕を上げ一誠に攻めた。
カーン!
木刀がぶつかり合う音が響く。それを皮切りに、カンカン!という音が続く。永が果敢に攻めるのを、一誠が木刀を斜めにし剣を払う。
「すごいじゃないか!永!」
一誠は嬉しそうに永の剣を受けながら言った。
「そんなこと言っている暇は無くなりますよ!」
永は打ち込みながらも攻める手は止めない。つっと額から汗が流れるのが分かったが、それどころではなかった。こちらは必死なのに、一誠はそれでも手加減をしているのだ。
「姫さまっ!」
佳の心配そうな声が聴こえた。だが、止める気はなかった。楽しい。それに今までの自分は知らないが、昔から剣は得意だった気がする。身体が軽いのだ。
「永、これでどうだ!」
一誠は永の木刀を思い切り払った。すると、カーン!と一際大きな音がして永の木刀は手から離れた。
「あっ!」
永の驚きの声と共に木刀が地面に音を立てて落ちた。一誠の力もあって、永も態勢を崩してドサっと尻もちをついてしまった。痛い!
「永!」
一誠が慌てて永の傍に走り寄る。さっと屈むと、脇に木刀を下ろして永の様子を窺う。永は鈍い痛みから顔を歪めていた。佳と一誠の近習が近寄ろうと立ち上がったが、一誠は手で制した。仕方なく浮かした腰を下ろして二人の行方を見守る。
「悪かった。永があまりにも上手いので、つい本気になってしまった。許せ」
そう言って、一誠は手を伸ばして俯いた永の頬に触れようとした時だった。
「こら、永。だから言ったのに……」
伸ばしかけた手を一誠はどうしようもなかったらしく、置き場を探して落ち着かないようだ。俯いていたが、永も何事かと顔を上げると、顔を逸らして真っ赤になった一誠がいた。
「え?何?」
赤くなる意味が分からない。
「だーかーらっ!足!」
一誠が永の足を指差す。永がゆっくり自分の足を見ると。
「きゃっ!」
裾がはだけて足が随分と見えていた。慌てて両手で掻き合わせて隠したが、既に時は遅し。一誠はしっかりと見ていたので注意したのだ。恥ずかしくて顔が見られないので、永は背中を向けてしまった。
「だから言ったろう?永は本気になり過ぎだ」
ため息を吐きながら立ち上がり、永の前に回り込む。そして、少し屈んで右手を差し出す。
「ほら、拗ねてないで立て」
どんな顔をして良いか分からないが、差し出された手にゆっくり手を重ねようとした時……。
一誠から永の手を掴み、ぐいと引っ張って立たせた。左手で永の腰に手を回して身体を支え、右手で引っ張る。腰に腕を回した時に、頬に一誠の頬が微かに触れた気がした。頭が真っ白になった。
「ほら、また汚して」
すぐに永の裾を手で払う。何事も考えられない頭が、一誠の払う仕草を見て動き出す。どきどきと胸が高鳴る。身体中が煮えたぎったように熱い。
「す、すみません!後は自分で出来ます」
上ずった声で言うと、一誠は立ち上がった。そして、永の真っ赤な顔を見つけてしまう。
「そなた……照れるなよ。俺まで恥ずかしいだろうが」
「すみません!」
でも赤くなるのを止められない。永は両手で顔を隠してしまった。
「俺も悪かったよ。許せ……。ほら、謝ったんだから、手を外せ」
永の顔を覆っていた手を退かすために、一誠は永の手首を掴んで強引に外す。すると、まだ赤くなった顔が見えてしまった。眉を寄せ唇を引き結んだ永の頬に、ゆっくりと手を伸ばす。一誠は、そのまま頬をそっと撫でた。
「熱いな。くっ!くくくっ……」
堪えきれず、一誠は吹き出す。
「笑わないでくださいませ!」
永は余計に恥ずかしくなり怒り出す。
「くっ、くくく……ああ、もう笑わない。だから、もう一勝負しようか」
永は笑いを堪えている一誠の手を払い、近くに落ちている木刀を拾いにいく。今度は一泡吹かせてみせる。顔が緩んだ一誠を睨みつけた。
「今度は御覚悟くださいませ!笑っていられないようにしてみせます」
「ああ、かかってこい」
一誠と永は再び剣を交え始めた。その様子をハラハラしながら、佳と近習が見守る。だが、微笑ましくもあり、次第にくすくすと笑い始めた。