私は誰
「姫さま!大丈夫ですか!」
バターンと障子を開けて入ってきたのは、先ほどまでいた佳だった。一誠とは立ち振る舞いが違う……こんな所が育ちの違いなんだろうか。そんな事を思っていた。
佳は確か自分の乳母と言っていたはずだ。この人なら生まれてからの自分の全てを知っている。そして、年齢も三十路も後半といったところだ、同じ部屋にいた女二人よりも状況も経験もあるだろうから色々と話してくれるかもしれない。
「大丈夫です」
苦笑いを浮かべながら答えると、佳は驚いて口を開けた。
「姫さま……なんてこと!いつもなら『大丈夫に決まってるじゃない』とか言うのに。記憶がないって、こんな人まで変わってしまうものかしら!」
私は……そんなに態度が大きかったのか。大人しい控えめな姫ではなかったようだ。しかし、この佳という乳母は、ずけずけと物を言う。主人が私だから仕方ないのかと思うと、がっくりと力が抜けるようだった。取りあえず気を遣わなくて良さそうな人物のようだ。
「あの……それで、私は高科家の嫁だということしか分からなかったのだけど、他に教えてもらえないかしら」
あの一誠の話では、これくらいしか教えてもらっていない。早く状況を知りたかった。
「そうですよ。姫さまは成島家の姫で、八歳の時にこちらの高科家へお輿入れなさったのです。そして……」
私は永。勝気な性格をしている。八歳で高科家に来てから、一誠さまとは兄妹のように育ち仲も良かったそうだ。しかし、年頃になってからは、夫婦だがあまり言葉も交わすこともなくなったようだ。跡継ぎを心配した奥方さま(一誠の母上さま)は、京の公家の姫君・佐和子を側室に迎えたが、こちらも気が強く一誠さまとは上手くいっていない。そして、少し後に側室とは言っても名ばかりの人質同然の別の国(忘れた)の姫・美津を迎えたが、こちらの姫君とも案の定、何もあるはずもなかった。何しろ、正室の私にまで手を出していないらしく、寝室は別。女は近づけないというので、男色という噂もある。とりあえず、面倒な人に囲まれて暮らしていたわけだ、私は。それにこの二人と私は仲が悪いということらしいが……。
それに一番の問題は、私の記憶が無くなった原因の池に落ちたというのは……突き落とされたということ。佳の話では、佐和か三津の仕業らしいが、真実はどうなのかは分からない。
「それでは何故、突き落とされたと分かったの?」
顎に指を添えて佳に疑問を投げた。自分のような立場なら佳や誰かが傍にいたはずだし、それならば突き落とした相手も見ているはずだ。
「それが、その時に限って姫さまはお一人で庭に降りていらっしゃって……大きな水音がしたので見に行ってみると、姫さまが池に落ちていらして。慌てて皆で引き揚げた時に『突き落とされた』と仰って気を失われたのです」
それでは、顔を見ているのは私だけってことなのか。しかし、思い出そうとしても、自分には何一つとして過去が無い。
「ま、御無事でしたから良いのです。今は何も考えず、ゆっくり休んでくださいませ」
そう言われて身体を横にさせられた。寝かされて、佳の顔を見ると、にっこりとした笑顔が目に入って安心できた。ほうっと大きく息を吐いた時、廊の方から話し声が近づいてきた。今度は何なんだ。
「永姫さま、佐和子さまがお見舞いにいらっしゃいました」
ああ……気が強いという公家の姫さまか。うんざりした顔で佳を見ると、同じくうんざりした表情をして肩を竦めた。
「お通しして」
佳は顔を引き締め返事をした。さて、どんな姫君なのか。
すっと戸を開けて入ってきた佐和子は、身のこなしも優雅な美しい姫だった。一誠といい、永は見惚れてしまう。自分よりも少し年上だろうか、落ち着いたような感じがする。気が強いと佳が言うだけあって、意思が強いような顔をしていて、紅を引いた形良い唇はすっと結んでいた。永の隣まで来るとすっと腰を下ろしたので、永も佳に支えてもらいながら身体を起こした。
「永どの、無理なさらないで」
身体を起こした永を気遣う様子を見せたので、永は笑顔を見せた。
「これくらい大丈夫ですよ」
言葉の方が大丈夫だろうか……今までどんな会話をしていたのか、どんな態度だったかも憶えていないのだから、そちらの方が心配だった。そして、一誠から他言するなと言われている。佐和子にも気が付かれないようにしなくてはならない。気が付かれたら、それはそれで自分の弱味になり得る。仲が悪いというのなら尚更、知られたら困るだろう。
「あ……ああ、それでしたら良かった」
少し間があったので、どきりとした。何か気が付かれたかと思った。
その時だった。
「永姫さま、三津さまがいらっしゃいました」
今度は三津か。思わず佳と顔を見合わせた。すると、佳は大丈夫というように大きく頷いた。
「お通しして」
そして三津が部屋に入ってきた。佐和子とは違い、可愛らしく大人しそうな雰囲気の女性だった。多分、同じ年齢くらいだろう。
「あら、貴女も来たの?」
すかさず佐和子が嫌味のように言う。とげが含まれた言葉に三津は苦笑いをして、小さく頷いた。
「永さま、お加減いかがですか?」
佐和子とは全く違う女性に戸惑うが、動揺してはいけない。ごくりと一つ唾を飲むと声を振り絞る。
「ええ、大丈夫です」
「良かった。安堵いたしましたわ。しかし、何故池になど落ちたのかしら?」
三津は安堵したと言いながらも不躾に理由を訊いてきた。そんなことは、こちらが知りたいくらいだ。どう答えようかと、返答を咄嗟に頭の中で巡らしている時に佐和子が突然、口を開いた。
「池に落ちたのですから、三津どのも永どのを少し休ませてあげなさいな。何事もないのでしたら良かったですわ。お顔を拝見しに来ただけですから、長居はお身体に触りますので失礼いたしますね。ほら、三津どのも失礼するわよ」
佐和子は三津を促すと、三津は慌てて『は、はい』と返事をした。どこか、おっとりした所があるのだろうか。そう見せかけて、自分の知りたいことは訊いてくるような感じだが。永は少ないやりとりの中で二人を見抜こうと頭の中を巡らせる。
佐和子は少し頭を下げて、また流麗な所作で出て行った。後に三津が続く。あれは敵情視察?なんて思いながら、その後ろ姿を見送った。
「はぁ……」
二人が出て行って障子が閉められた後に大きなため息を吐いた。佳も緊張したのか、肩をがっくりと落とす。
「ねぇ、あんな感じで良かったのかな」
自分の態度が変ではなかったかと佳に尋ねた。何の打ち合わせもないまま、永姫を演じなくてはならなかった。
「そうですね、大丈夫です。いつもの姫さまなら、もっと嫌味を言っていたかもしれませんが、殿に言われたのでしょう?記憶がないという事を隠せと」
「そうだけど、よく分かったわね」
「他の人に知られると色々と面倒ですからね。姫さまと何の話もしない間に佐和子さまと三津さまがいらっしゃって……少し困りましたけど、この佳は姫さまの乳母なのですから、それくらい当然です」
頼もしい……が、これからが問題。私は記憶だけ、過去だけが抜け落ちている。言葉や基本的な生活をするくらいの知識は残っている。私にまつわる事だけが無いだけ。それはまだ救いなのかもしれないけど、あの二人や他の者達に気が付かれないように暮らしていけるのだろうか。
そして、何となく分かった気がした。あの二人とは仲が悪いというのは、少し話しただけでも納得できる。あの佐和子という女は公家の姫というだけあって高飛車だ。そして三津という女は、佐和子の言いなりではないのか……?あまり深読みは出来ないが、あれだけの間で自分と二人の関係が分かったと思う。
永は考えながら唇に右手の人差し指を当てた。
「それ……その仕草は姫さまのクセです。やはり記憶は無くなっても、姫さまは姫さまですね!安心いたしましたわ」
隣の佳が両手をぱちんと合わせて喜ぶ。へぇ……そんなクセが。我に返って、視線を人差し指に落とした。自然と出るものなのか。何となく自分らしい部分を見つけて少しだけだが嬉しい気持ちになった。
「とりあえず、バタバタしていましたが、さ、姫さま……少し休んでくださいませ。考えても仕方ありません、少しずつ思い出せば良いのですから」
佳の前向きな言葉に促されて身体を横にした。
「ありがとう、そうね、少しずつね」
笑顔で返事をすると佳もにっこりと笑った。その笑顔は安心できて、何の記憶もないというのに昔から知っている気がした。寝て起きたら、何事も無かったかのように記憶が戻っていれば良いのに……。そんな事を考えながら、永は眠りに落ちた。