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時を超えても  作者: たちばな 弓流
2/24

過去の永里 現代の誠

誠の叫び。何が起きたのか。痛みが全身を襲う。

永里は横道から飛び出した車とぶつかったのだった。運が悪く、横道から永里たちが歩く道に出る車が一時停止を怠ったために起きた事故だった。誠よりも先に歩いていた永里の横から当たったのだ。ブレーキをかけてたとしても、すでに遅かった。永里よりも先に自転車に車のバンパーが当たり、その後に車道に飛び出すように永里は飛ばされた。その時に、大通りに車が通っていなかったのが不幸中の幸いだった。

「う……」

 声を出そうにもどこかを強打したのか声は唸り声しか出なかった。息苦しい。呼吸すらすることが難しい。苦しさから勝手に涙が頬を伝う。


「永里っ!永里!しっかりしろ!」

 誠の声が聴こえる。冷たいアスファルトに横たわった身体を起こして返事をしたいが、痛みで全く動かすことが出来ない。微かに頭だけを動かして駆け寄った誠の顔を見上げた。

 誠、そんな泣きそうな顔しなくても大丈夫だよ。でも……ごめん。痛くて目が開けていられない。

 永里はゆっくりと瞼を閉じた。


「永里っ!永里っ!」

 誠の悲鳴に似た呼ぶ声が遠くでしているのを感じながら、永里は意識を手放した。

「永里……」

 誠はぐったりとした永里を抱きかかえた。暗いからよく分からないが、血は出ていないようだ、しかし意識がない。何でこんなことに!

 隣で車を運転していた中年の男が携帯電話で救急車を呼んでいる。何か言ってやりたいが、今は永里のことで一杯で言葉が出てこない。悔しさと不安で涙が溢れてくる。

「永里っ……え、りっ……!」

 誠はぐったりとした意識のない永里の顔に頬寄せて、両腕でしっかりと力強く抱きしめた。

 

 救急車で近くの大きな病院へと運ばれた永里は、今、検査と治療を受けている。すでに外来診察の終わった病院の薄暗いロビーの長椅子に、誠は腰を掛けていた。あの後、学校の近くだったということもあり、部活の顧問の男性教諭が誠と一緒に付き添ってくれた。途中で警官が二人ほど来て事故の様子と永里の様子を聴いてきた。相手の運転手は事故現場で現場検証中らしい。そんなことより永里だ……気を失った永里の様子が気になる。

 なんで自分じゃなかったのか。

 自分の腕の中で気を失っていく永里の温もりが忘れられない。思い出しては手が震え、隣にいる先生が時々落ち着かせるように背中を擦ってくれた。

「誠くん!先生!」

 バタバタと廊下を走ってくる永里の父親と母親の顔が見えた。

「あ……」

 誠はすっと立ち上がった。何て言ったら良いのか。誠は顔を歪めて唇を噛んだ。こうなったのは俺のせいだ。永里の両親に申し訳なくて目を合わせることが躊躇われる。

「成島さん、御無沙汰しております。永里さんはあちらで治療中です」

 言葉を失った誠の代わりに挨拶したのは先生だった。視線を送っただけで永里が運ばれた部屋を指すと、永里の両親は再び走り出した。その背中を見て、元座っていた長椅子に力なく腰を下ろした。自分は一体何て言えばいいのだろうか。何も考えられない状態で俯いた誠の頭を先生がそっと撫でてくれた。

「大丈夫、成島はきっと大丈夫だ」

 先生の言葉が薄暗いロビーに響き渡った。

 

 その頃の永里は息苦しさを覚えていた。何でこんな状態になっているか分からず顔を顰めた。

「え……ひ……さま」

 呼ばれた気がした。呼吸が苦しい。口を開けてハアハアと大きく息をする。

「えい……さま」

 また呼ばれた。目を開けなくては。

「げ……ほっ……げほっ」

 余りの苦しさに咳き込んでしまい、やっと目を開ける。ぱっと視界が開けて、眩しさに目を細めた。

「永姫さま!」

 覗き込むようにして女の人が顔をくしゃくしゃにして泣いているのが見えた。頭だけ動かして周りを窺うと、他に二人の女性が部屋の隅に座って心配そうに自分を見つめていた。そして、自分は見たこともないような豪華な和室で布団に寝かされている。障子が閉められてはいるが、その向こうは外なのだろう……鳥の囀りが聴こえた。襖は立派な絵が描かれ、床の間に飾られた絵も名のある絵師が描いた物だ。そのことは彼女自身は知る由もなかったが。

 

 どこだここは。

「永姫さまが目を覚まされた!急ぎ殿にお知らせを!」

 自分を覗き込んでいた女性が声を荒げた。は?殿?誰?

「心配いたしました。もう、この(よし)は胸が潰れるかと……生きた心地がしませんでしたわ」

 この人は佳というのか……へぇ……。いや、そうじゃなくて!何なの?私はどういう状況?何が何だか分からない。何も見えてこない。

「永姫さま、どこか痛むところはございませんか?欲しい物は?」

 えいひめ?それは私のことなんだろうか。ちょっと待って……え?ええ?

 がばっと起き上がると、隣に座っている佳は後ろに手を付き、目を丸くして驚いた。

「永姫というのは私?どこなのここは!」

 自分は誰なんだ。過去を思い出そうとしても記憶がまるでなかった。何一つ思い出せない。基本的なことは分かる……これは畳、これは障子、これは花。ただ記憶だけがすっぽりと抜け落ちてしまっている。

「姫さま、まさか記憶が……」

 

 呟くように佳が言った時、スーッと滑るように障子が開けられ、男の人が現れた。

「記憶がないというのか」

 男が後ろ手で障子を閉めると、佳は慌てて両手を前に着いて平伏した。若い割には威厳があるように見えた。そして凛々しい。十七、八歳といったところだろうか。思わず見惚れていると、その男は自分の隣に腰をすっと下ろし、胡坐をかく。所作が美しく身分が高い者のようだ。


「永。そなたの名は永だ。先ほど庭の池に落ちて溺れたのだ」

  淡々と低い声で説明される。

「こちらにいるのは佳、そなたの乳母だ。まことに記憶がないというのか?」

 半信半疑で男は尋ねた。じっとこちらを見て様子を窺っている。永はあまりにも見られていて、男の顔を直視していられずに顔を背けた。

「だって、分からない。何も分からないんだもの……」

 分からないということの説明のしようがない。永の頭の中のことで、照明しようもなかった。問い詰められると泣きそうになる。目がしらが熱くなってくるが、唇を噛んで堪える。泣いても事実は変わらない。ぎゅっと両手で掛けられていた布団を握った。

「記憶がないのは信じよう。こんなことを嘘をついても何の得にもならないからな」

 信じてくれるの……?永は男の顔をもう一度見た。すると、真っ直ぐ見据えていて、どきりと鼓動が跳ねた。この人は誰なんだろう……殿というのがこの人のことなんだろうか。


「永は八歳の時に成島家からこの俺の元へ嫁いできた」

 嫁いで?ということは……。

「俺は高科(たかしな)一誠(かずまさ)、そなたの夫だ」

 やっぱり!永は驚いて両手を後ろに着いてのけぞった。驚きで言葉が出なかった。口を開けたまま一誠を見つめた。

「はあ……本当に全て忘れているようだな」

 一誠は大きなため息を吐いて俯いたが、暫くして上目使いで永の様子を窺う。そんな事を言われたって分からない物は分からない。不安と焦りが込み上げる。胸がどきどきと早鐘を打ち始める。どうすれば良いのか……誰も知らないこの場所で自分はこれからどうすれば……役にも立たない自分は追い出されてしまうかもしれない。大体、自分は今までどんな性格だったのか、どんな生活を送っていたのか。不安で視線が定まらない。そんな永を見かねて一誠は口を開いた。

「皆、下がれ」

 すると、すっと二人の女と佳が頭を下げて部屋を出て行った。残されたのは一誠と永だけだった。急に人の気配が無くなり、それはそれで緊張する。いきなり夫と言われたこの男と何を話せというのか。永は膝の上で両手に力を込めて握った。


「とりあえず、小袖一枚じゃ風邪をひく」

 そう言って永の肩に打掛をそっと掛けてくれた。そう言われれば、自分は池に落ちたという話だ。小袖一枚では少し肌寒い。

「ありがとうございます」

 小さな声で礼を言うと、再び一誠は隣に座った。

「そなたが無事で安堵した」

「御心配をおかけいたしました」

 と言っても何の記憶もないのだが。一誠はどうでも良さそうに、うんうんと相槌を打っていた。

「そなたは隣国の成島家の二の姫。小さいながらも名家だ。それで更に隣国の大山家の脅威に対抗するように高科家と同盟のために八歳の時に嫁に来たってわけだ。戦の世だからなぁ……仕方ない。で……他に訊きたい事はあるか?」

 それで全て説明したつもりだったのだろうか。自分が嫁に来た理由も、出自も分かった。だが、分からない。

「まだ、あの……貴方さまのことが分かりません。あとは……ここでの私はどのような……」

 そこで言葉が止まってしまった。分からない事ばかりなのに、分からない事が分からない。

「ああ、そうだな。この高科家は成島よりも名門の大名家だ。そこの跡取りが俺だ。で、そなたは俺の正室だ。それぐらいか……」

 もう言うことは無いというように片膝を立て、一誠は立ち上がろうとした。

「え!そ、そんな……!」

 いや、もっと何か言うことあるだろう!と思って、永は一誠に自然と手を伸ばしてしまう。だが、その手を見て一誠は一瞬身体を強張らせた。


「え……?」

 永は手を止めた。何か気に障ることだったのだろうか。

「いや、何でもない。それと、この事は俺とそなたと佳だけの秘密だ。他言無用だ。色々と面倒だからな。とりあえず、そなたは休め」

 誤魔化すように顔を背けて、一誠はそのまま立ち上がって部屋を出て行ってしまった。残されたのは永一人。

「休めと言われたって……どうしたら良いの」

 気なんか休まるはずなんてなかった。そこにバタバタと廊を走る足音が聴こえてきた。近づいてくる。今度は一体誰だというのか。


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