過去 嵐の前の静けさのように
その日の夕方、永の元へ一誠がやってきた。昼間の雨はすっかり上がって空は茜色に染まり、部屋の中も茜色が差し込む。夕焼けを背にしていると顔は暗くて分かり難いものだが、それでも一誠の端正な顔はハッキリと見えた。遠くでカラスの鳴き声が聴こえる。それに釣られて、永は庭の方に顔を向けた。
「永、前に約束してただろう?あれを見に行こう」
一誠の声で、永は視線を戻した。約束?
「あれ……?」
咄嗟に出た言葉で、何一つ約束を思い出していない。すると、一誠は、はあ……と永にも聴こえるため息を吐いた。
「忘れたのか……俺だけ覚えているって……。あのな、俺としては傷ついたぞ。約束したろ?」
約束、約束、約束……。あ!ああ、あれ!
「蛍っ!」
永は両手を胸の前でぱちんと合わせた。もう一度大きなため息。一誠は眉を寄せて口の端を上げた。苦笑いだ。
「思い出したか。そうだ、俺と蛍を見に行く約束をしただろう?」
「そうですが……でも、今から?」
嬉しい、が……良いのか?仲睦まじくはなったとはいえ、一誠は忙しい身だ。今日も出掛けていて、先ほど戻ったばかりなのに。
「ああ、どうせ、この後は何の用もない。約束は早い内に果たそうと思ってな……ほら、永は忘れていたしな」
永は恥ずかしくなって俯いた。大したことのないような口約束を覚えてくれていたとは……思いがけず嬉しい。下を向いた顔が緩んだ。
「く、くくっ……」
頭上で笑いをかみ殺している。ぱっと顔を上げると、一誠は笑うのを止める。からかっているのだ。永が口を尖らせた。
「申し訳ありませんでしたっ!忘れっぽくて!」
拗ねると、一誠は更に笑いを誘われたらしく、顔を歪めた。ムキになって言い返したが、逆効果だった。
「いや、いい。行こうか」
一誠と共に庭に出た。以前は来たことがあるのだろうが、今の永には初めての場所だ。すでに邸は見えず、木立の間の道を抜ける。すでに薄暗いので、一人で来たのなら怖いはずだ。ちょっとした葉擦れの音で、身体がびくりと揺れる。だが、立ち止まっては一誠の背が見えなくなるので、懸命に後を追った。小さな門の前まで来ると、先に歩いていた一誠が後ろを振り返った。
「ほら」
差し出された右手。手を掴めと……。永は躊躇いもせず、一誠の掌に自分の手を重ねた。怖かったのを知られたのかな……でも、こんな気遣いが嬉しい。すると、一誠は永の手を握って引き寄せた。
「ありがとうございます」
笑って礼を言うと、一誠も微笑む。そのまま、永の手を持ち替えて歩き出した。
「怖いか?」
「もう平気です」
やはり、驚きながら歩いていたのを知られていたようだ。『そうか』と小さく答えて、そのまま先へ進んだ。
『いいじゃん。手、繋ぐくらい。ね?』
ふと、一誠の声が頭の中で響いた。え?前を歩く一誠は黙っている。どこから聴こえたのだろう。永は周りを見たが、しかし、いるのは一誠と自分だけだ。
永は首を傾げた。以前、猫を追いかけていたあの日だ……あの日、一誠と手を繋いた時に、昔誰かと手を繋いだ感覚を思い出した。あれは、やはり一誠だったのか。
さわさわさわ……。風が竹を揺らす。門の先は竹林だった。時折、竹同士がぶつかり、カシーンという澄んだ音が響く。道の両脇は竹垣で、ここも庭の一部のようだ。陽は落ちたので昼間のような暑さは和らいでいるが、川も近いせいか更に湿気も多く、空気はひんやりとしていて心地が良い。だが、見慣れぬ風景。永は落ち着きなくキョロキョロと辺りを見回しながら、手を引かれていた。
「ん?ここも昔遊んだ場所だな」
振り返らずに一誠も辺りを見回す。二人の草履の音と、竹の揺れる音。それに混じって水の音が聴こえ始めた。川が近い。数段の石段を降りて、川原へと辿り着くと、林の中から急に視界が開けた。それほど川幅があるわけではないようだ。川原には所々に岩が転がり、地面が広がる場所には草が生い茂っていた。そして、時期ということもあり、かきつばたが紫色の花を付けて群がって生えていた。さぞ、昼間に見たら綺麗なことだろう。その時、水面を渡る風が永と一誠の間を抜けていった。緑を波立たせながら、風は林の中へ吸い込まれていく。
「殿!」
二人で振り返ると、いつもの近習が走ってくる。
「新九郎か……何かあったか?」
一誠は、ふっと繋いでいた手を離した。さすがに永も人前で恥ずかしさもあるが、一誠の手の感触と体温が遠ざかるのには、いつも寂しさがある。
「何か、じゃないですよ。もう陽は落ちて暗くなるのですから、灯りくらい持ってくださいませ。これでは、足元も見えず、永姫さまも不安でしょう。すぐそこまで行かれるんですよね?そこまでご一緒いたしますし、その後は少し離れた所で待機しておりますゆえ、帰る時にお声を掛けてください」
半分呆れたように言う感じは、一誠はいつもこうなのだろう。思い立ったら……というところか。
「くくくっ……すまんな、永も新九郎も」
一誠は自分の不手際を笑った。二人きりではなくなってしまったが、ちゃんと気が利く家臣で良かった。いくら一誠と一緒でも、やはり暗くなり始めたので怖い。
「いつものことではないですか。少しは立ち止まって辺りを見てくださいませ。こちらは心配でなりません。それでは、殿、ここからは足元が悪くなりますので、永姫さまのお手を取ってくださいませ」
やはり一誠は、くっくっと笑っていたが、すぐに永の手を取ると歩き出した。言われた通り道が悪かったが、まだ真っ暗というわけではなく、おまけに灯りもあったので、それほど苦にはならずに目的の場所に着いた。竹林を抜けてからすぐだった。新九郎と呼ばれた近習は灯りを一つ置き、立ち去る。永と一誠は彼を見送った後、川の方を見た。
「ここから先には行くなよ。危ない」
一誠は近くにあった岩に腰を掛けた。永は一誠の注意通り、草が生い茂った場所には行かないで川の方を見つめた。
「永、おいで」
一誠に呼ばれ、振り向くと穏やかな微笑みが目に入った。灯りもあって、一誠の顔がはっきり見えた。永が近づくと、持っていた手燭を少し離れた場所に置いて、ぐいと永を両手で引き寄せた。
「ここに座れ」
永は、一誠の膝の間に座らされた。岩に腰を掛けている態勢で、後ろから一誠に抱えられている。これでは、以前、三津から逃げるように隠れた時と一緒だ。腕を回り、永の前に一誠の手がある。背中には一誠がぴったりと寄り添い、息遣いや鼓動が直接伝わる。どきどきとするのは大分慣れた……今は嬉しさと安心感で満たされる。
「ほら、見えるか?」
一誠が指差す方には……蛍。それも一匹、二匹ではない。儚い光が無数に舞い始めたのだ。草の葉、水辺、そして永の周りにも……光ったり消えたりしながら不規則に飛んでいた。
「わあ……すごい、綺麗……」
永は蛍の舞いの美しさに、感嘆のため息を漏らした。
「喜んでもらえて嬉しいよ」
一誠は後ろから力を込めて抱きしめる。永の肩に自分の顔を置き、一誠も一緒に眺める。横目で見ると、すぐ横に一誠の顔があった。吐息がかかるという話でもない、頬が触れ合い、話す声も振動が伝わるくらいの距離だった。さすがにこれは……。永も意識すると恥ずかしかった。
「こうして、また永と同じ光景を見られるなんてな」
一誠の話す声が耳元で聴こえた。しみじみと言うのは、今までの関係のせいだ。
「俺は、永が無理に思い出さなくても良いと思っている。このままでいいさ……」
どうやって過去を思い出せるのか、その方法は誰も分からない。しかも、この事実を知っているのは三人だけだ。永自身も無理に思い出そうとはしていない……方法が分からないなら、自然と思い出すのを待つだけだと成り行きにまかせていた。だが、その間でも今までの知識は同等のものにしておかねばならず、学問や生活の知識などは学んでいた。
「ありがとうございます。私自身も焦って思い出そうとはしてないので、そのお言葉で安堵いたしました」
一誠が、ふっと笑みを零した。
「そうか。それならいい」
だが、少しばかり気がかりなこともある。三津とぶつかった時に見た一誠……。着物は見たこともない南蛮のような物だった。それに私のことを『えり』と呼んでいた。聞き間違いだろうか……いや、でも自分の名は間違えない。一誠も妻の名を間違うはずがない。そして、先ほどの竹林で聴こえた一誠の言葉。頭の中で響く一誠の声。あれは何だったのだろう。一誠の声なのに……。これも記憶の一部なのだろうか。まったく分からない。そして、もう一つの気がかりが……。
蛍が永の傍まで飛んでくる。永がそっと掌を出すと、触れそうな距離なのにふわっと舞って離れていく。淡い光が美しい。
「記憶のことは焦っていないのですが、私は佐和子どのと三津どののことが気がかりです。どうして二人は……」
もう一つの気がかりを率直に切り出した。あんな嫌がらせをし合う仲を続けていくのだろうか。
一誠の腕が強張った。一誠は更にぎゅっと抱きしめてくる。その逞しい力強い腕に安心感がある。満たされて、永は肩に乗る一誠の頭に寄り添う。
「すまない、永と二人の仲の悪さは俺に原因がある。少し時をくれないか?俺も気にしていることだから」
いつも答えてくれない返事をくれた。永は頷いた。一誠が原因?その言葉に引っ掛かるものがあったが、永は一誠の身体に寄り掛かる。考えていることが、どうでも良くなってしまうような心地よさだった。記憶も無理に思い出す必要はない、いつ戦になるか分からない乱世……今を大事にしたい。
「いつも永を守ってやれなくて、すまない」
急にぼそりと一誠が呟いた。
「え……?何のことですか?」
永が後ろを振り返ると、一誠は顔を見られたくないのか、永の頭に口づけを落として永がくすぐったくて前を向いたのを良いことに、がっちりと後ろから抱えた。
「色々だよ、色々。池に落ちた時も、三津とぶつかった時も、他にも沢山。元を正せば俺が永を守りきれないからだ」
そんなことを考えていたのか。色々というのは記憶を失くした前のことは知らないが、三津とのことだって一誠のせいじゃない。全部、自分の不注意だ。
「一誠さまが気にすることじゃありません、私が迂闊だから……」
「そう言うなよ。永の全てを守るのは俺の役目だ」
一誠はそのまま黙ってしまった。二人で舞う蛍を見ていた。水音と風が草を揺らす音だけが聴こえる静かな夕暮れ時だった。




