過去 夫婦
「永」
唐突に一誠に呼ばれた。そして、永の頭の中は次の瞬間に真っ白になった。
何が起こったのか……ゆっくりと一誠の温もりが伝わってきて、抱きしめられているのだと気が付いた。
「永……悪かったよ」
何故、謝るのか。それも分からなかったが、この状況もよく分からない。胸の鼓動は、これ以上速くならないくらいに高鳴っていて、身体中が火照ってしまう。
「な、何なの……」
絞り出した声は震えていた。一誠は、永の身体を引き寄せて、背中に腕を回して抱きしめていた。きつく抱きしめられ、永の耳元に顔を埋めている。時折、一誠の吐息が耳に掛かって、恥ずかしさで真っ赤に染まっていくのが自分でも分かる。一誠に引き寄せられたため、全身を一誠に委ねていて精一杯しがみついた。
どくん、どくん……これは自分の鼓動なのだろうか。それとも一誠の鼓動なのか区別がつかないくらいに、一誠の温もりを感じていた。
「今更だが……ちゃんと永のことを愛している」
一誠の低い声が身体に響いた。抱きしめられているので、一誠の一言一句が身体に響く。
「今なんて……?」
嘘ではないかと訊き返した。
「ばか、何度も言えるか」
一誠の腕に力が入った。照れているようだが、もう一度聴きたい。
「お願い……」
こんな一瞬の言葉、もう一度聞かないと信じることができない。永も両手に力を込めてしがみつく。すると、一誠は永の肩を両手で掴んで引き離した。
「あっ!」
急に離れて驚いて声を上げた。離れたとしても、まだ肩を掴まれたままなので、近い距離で見つめ合う。息が掛かるのではないかという距離だ。
「永が何も憶えていなくてもいい、永は永だ、何も変わらない。俺の気持ちも……だ。今まで夫婦らしいことなど無かったのだから、記憶が無くても同じこと」
一誠は肩に載せていた両手を離し、代わりに右手を永の顔に近づけた。そっと包むように永の左頬に触れる。鍛えられたごつごつとした一誠の掌の感触が、柔らかな永の頬に当たる。大きな掌と感触は、永とは全く違って男らしさを感じた。
「だから、これから永と夫婦としてやり直そうと思う。俺は永が好きだ、これからも傍にいてほしい」
頬の温もりは確かなものだった。嘘ではない。
「わた……し、も……。私も傍にいたい」
掠れてしまった声だが、それでも懸命に声を出した。全身、そして心が満たされて、ふとした瞬間に目がしらが熱くなってしまう。何度も瞬きをしたが、それでも一誠を見ていたい。
「今までのことは分からないけど、多分、前の私も一誠さまを好きだったはず。だけど、記憶を失ってもまた一誠さまを好きになったの。だから、私を妻としてお傍にいさせて……くっ……」
最後の『ください』までは言葉が出なかった。
永の話す途中で一誠は驚いた目をして、やがて堪えきれず永を再び抱き寄せたからだ。愛おしいというように、永の身体をすっぽりと自分の腕の中へ閉じ込める。
「永も同じ気持ちでいたのか……」
感極まったようにため息を吐く。永も嬉しさで笑顔が零れた。ああ、気持ちが通じ合うとはこんなに嬉しいものなのか。永の腕はだらりと力なく垂れていたが、そっと一誠の背に手を回した。広い背中だった。
「永、俺はな……永の記憶がなくなってから、どれだけ後悔したか分からない。今までの永との思い出が白紙になってしまったようで、胸に穴が開いたようだった。ちゃんと永と向き合っていれば、と何度も考えた。俺は逃げていたんだ。こんなことになって悔しかったさ」
苦しい一誠の言葉。永は黙って静かに腕の中で聴いているしかなかった。
「永を怖がらせたくない。ゆっくりでいいんだ、これから夫婦としてやり直そう」
永は腕の中で頷いた。本当は優しいんだ……沢山気遣ってくれている。男女の、夫婦の関係になって今までのように仲睦まじい関係が壊れることを恐れたという不器用さも、結局は一誠の自分への想いから。こんなお方を、以前の自分は嫌いだったはずがない。何よりも今の自分は惚れているのだから、一誠さまに付いていく。
「なあ……俺がこんな風に抱いているのも怖いか?」
永が腕の中から顔を上げると、一誠は不安そうに顔を歪めていた。
「ううん。平気です」
永が首を振って否定すると、一誠はほっとしてはにかんだ。
「そうか。永が記憶がなくなったことをいいことに、最近は永に触れていたからな。本当は嫌だったのではないかと思っていた」
「まさか!そんなことありません!」
どきどきと胸が高鳴ったり、宥められて心穏やかになったり……色んな思いはあるが、好きな人に触れてもらえるのは嬉しい。
「くっ、くくくっ!そんなに俺に触れて欲しかったのか?」
全力で否定した永が可笑しかったようだ。その言い方では永がはしたないような物言いだ。永は更に真っ赤になった。
「ち、ちが……違う」
永が必死に取り繕うのが余計に面白いらしく、一誠は顔を背けて笑いをかみ殺す。あまりに笑っているので永は拗ねて頬を膨らました。
「悪い、悪い」
一誠はやっと笑いが収まったらしく、永の頬に触れた。先ほどと同じように撫でられると、一誠を意識してどきんと胸が跳ねた。
「触れるのが嫌じゃないことは分かった。じゃあ……口づけるのは?」
口づける!永は驚きのあまり、目を丸くして口をぱくぱくしてしまう。そんなことを訊かないでほしい。口づけが好きか嫌いかなんて答えられないではないか。目の前には一誠の顔があるのだ、動揺して口元ばかりに目がいってしまう。堪らずに永は顔を逸らした。
「そんなこと訊かないでください!」
それが精一杯の答えだった。すると、一誠は触れていた頬から手を離して、永の後頭部に掌を滑らせた。そして引き寄せる。
「じゃあ、勝手にする」
囁くと、一誠はそっと永の唇に自分の唇を重ねた。
二人とも瞼を閉じた。何も見えないのにお互いを感じる。吐息が、香りが、全てが唇から伝わるようだ。胸が高鳴る。柔らかく、全てが満たされるような口づけだった。今までの関係が解けていくようだ。強張っていた身体も次第に力が抜けて、永は必死で一誠の胸にしがみついた。その様子が愛おしいと思ったのか、一誠は更にきつく永を抱き寄せた。
少しして、どちらからともなく唇を離した。目の前の一誠は凛々しくて、この人が夫なんだと思うと嬉しかった。永がじっと見ていると、一誠は急に照れて腕の中から永を解放した。顔が心なしか赤い気がする。誤魔化すように一誠は立ち上がり、庭に面した障子をすっと開けた。いつの間にか夕暮れ時で、永は布団の上から、一誠の背中を見ていた。
「永、蛍がいる」
振り返った笑顔は、いつもの一誠だった。永も立ち上がり、隣に並んだ。
そこには三匹の蛍が庭を飛んでいた。仄かな明かりが儚く美しい。永が見ていると、一誠が永の肩に手を置き、自分の方へと引き寄せる。肩を抱かれ、永は頭を一誠に委ねて寄り添った。ああ、なんて幸せなんだろう。
「今度は城の下にある川べりに行こうか。あそこも蛍がいるんだ。幼い頃、二人で城を抜け出して見に行った場所だ……二人して怒られたんだがな。何か思い出すかもしれないしな」
そこも思い出の場所なんだ。一緒にいられるならどこだっていい、永は頷いた。一誠はちらりと永を見たが、ふっと笑って再び庭へ視線を移した。穏やかな時間で、お互いに言葉など無くても満ち足りていた。
「永、ずっと触れたかったよ。だが、怖かったら言ってほしい。ゆっくり進めば良いのだから」
永も応えたくて一誠の着物を掴んで頷いた。
その日の晩は、初めて二人で眠った。ただ二人で手を繋いでいただけだったが、二人の幼い頃の話、永の故郷、今の領地の現状、跡目を継いだ後のこと、沢山の話をした。一誠は男として我慢をしていたのかもしれないが、永の身体と気持ちをおもんぱかって、二人で話して眠った。今までの二人に比べたら、かなりの前進だった。
しかし、次の日の朝は義母を始め、それとなく義父、佳にも昨夜の様子を訊かれて困った。皆、跡継ぎが欲しいのだろうが、かなり恥ずかしい思いをしたのだった。




