過去 新たな危険
一方、永は自分の気持ちを意識してしまった。あれから一誠と顔を合わすと恥ずかしくて、まともに顔を見ることができない。せっかく、一誠と話しているのに失礼だ。少し手が空くと一誠のことを考えてしまう……ああ、重症だ。その時だった。
『えりちゃん』
この前と同じ声が聴こえた。前回は切羽詰まったような声だったが、今度は違った。優しく呼びかける声。永は同じく辺りを見回したが、やはり誰もいない。大体、耳から聴こえただろうか。頭の中に直接響いたような気がする。『えりちゃん』……?私は永で、そんな名前ではない。
何だったんだろうか……これは、記憶を失ったことと関係があるのだろうか。だが、いくら考えても答えなど出るはずもなかった。
そんな時、永の部屋に三津が尋ねてきた。
「永さま。庭の紫陽花が盛りで、すごく素敵ですのよ。雨も上がりましたし、ご一緒に見に行きましょうよ」
は?何の企みがあるというのだ。永があからさまに眉を寄せて、窺うような目で見ると横で控えていた佳が咳払いをした。
「私を誘っていただけるとは光栄だけど、珍しいこともあるものね」
わざと棘のある言い方をした。嗜めてくれた佳の顔を見られない。
「うふふ。そうかもしれませんわ。でも、綺麗な物を見た時の気持ちは、誰か一緒の方が嬉しさも増すでしょう?ぜひ、永さまと見たいと思ったのです」
胡散臭い。だが、断る理由もなかった。ま、いいか。永は軽い気持ちで頷いた。
「ええ、では一緒に行きましょうか」
永は立ち上がり、三津と共に庭へ出た。
「佳どのは遠慮してくださらない?私は永さまと二人が良いの」
三津は甘えたようにお願いする。さすがに佳も強くは言えないので、困った顔をして永を窺う。
「二人で見てくる」
永は佳を手で制し、三津と共に庭へ出た。
邸から離れていく。
「永さまは、私より長くこの城にいるから何度もご覧になっているでしょうけど、でも、この季節だけしか楽しめないものは、この季節に楽しんでおかないと勿体ないですものね」
先を歩く三津は、嬉しそうに振り返った。三津のはしゃぐ姿は可愛らしい。だが、永にとっては、記憶が戻ってないので『何度もご覧になった』と言われても知らない。
「はは……」
引きつった笑いで誤魔化したが、さすがに自分でも情けない。こんな誤魔化し方など、幼い子でもしないんじゃないか?などと思った。しかし、もう後には引けないので、仕方なく歩く。やはり、佳と一緒に来れば良かったかも……そしたら、誤魔化すことも二人ならば上手く演じることが出来たかもしれない。
「永さまは寂しくはないのですか?」
唐突に三津が足を止めた。考え事をしていたので、危うく三津にぶつかるところだった。顔を上げて三津を見ると、真剣な顔をしていた。
完全に邸は遠ざかり、もうすぐ林の方へ出てしまうような静かな場所だった。三津が真っ直ぐ見つめてくるので、堪らず目を逸らした。すると、少し先に青や紫色の紫陽花が見えた。この小道を少し行けば目的の場所なのに、ここじゃ話題を変えることも出来ない。記憶のことを知られたくないので、三津とあまり話し込みたくはない。だが、ぴちゃんと雨水が葉から落ちる音があちらこちらで聴こえていて、余計に永の言葉を三津が待っている雰囲気が伝わってくる。黙ってはいられないようだ。
「寂しいとは?」
率直に意味が分からないので訊き返した。
「殿のことですよ」
寂しい……とは感じてはいなかった。今までの自分は感じていたのかもしれない。一誠さまとは距離があったのだろうが、記憶を失ってからの一誠さまとは少し近づいていると思う。
ただ……まだ、壁一枚を隔てたような感覚はある。肝心なところで、いつも気持ちをはぐらかされているのだ。確かに、それを思うと寂しい。
ああ、そうか。三津どのも佐和子どのも、一誠とはろくに話もできないのだった。特に三津は人質でここにやってきたのだった。自分のことで精いっぱいだったから、側室の二人のことまで頭が回らなかった。一誠は他の二人にも距離を取って、心を開いてはいない。もしかしたら、誰にも心を開いてはいないのではないか……そう考えると、二人の側室のこともそうだが、一誠の孤独を感じて寂しさが募った。
「私は……別に……」
少し間を開けて答えたが、他に紡ぐ言葉が見つからなかった。
「私は寂しいです。両親の元を離れて、決心をしてこの城に来たのは武家の娘だし仕方ないのだけれど……。だけど、殿とはほとんど話したこともなく、それに……寝所にも訪れてはもらえない」
ずきっと胸が痛んだ。それは、自分も同じだった。それどころか、一誠は誰にも触れない。これでは、いくら側室がいようと同じだった。跡継ぎを産むことが、私達の大事な役目なのに。一誠のことを改めて意識した今なら、触れてもらいたいとは思う。
「永さまも同じでしょう?」
三津は遠慮なく訊いてくる。この不躾な物言いが癇に障った。苛立ちながらも立ち去ることもできず、黙って顔を背けた。
その時に、くすっと鼻で笑うような声がして顔を上げると、三津は不敵な笑みを浮かべていた。思わず驚いて目を丸くすると、三津は誤魔化すように、袖で口元を隠した。
「三津どの?」
あの時と同じ。佐和子の毒の騒ぎの時に一誠に宥められた時と同じだった。あの時の三津の勝ち誇ったような、永を見透かすような冷ややかな笑みと同じだ。
「いえ、何でもないのです。さ、すぐそこですわ。行きましょうか」
三津は踵を返し、小道を再び歩き出す。永も後に続いたが、先ほどの笑顔が脳裏から離れなかった。胸がざわめく。落ち着かない胸を押さえながら先に進むと、すぐに紫陽花が沢山植えられている場所に着いた。
「まあ!綺麗ね!ねぇ、永さま!」
はしゃぐ三津が、後ろにいる永を振り返る。少し坂になっている一角に紫陽花が所せましと植えられ、青や紫の花を咲かせていた。
「そうね、綺麗ね」
永は作ったような笑顔で三津に答えた。三津のはしゃいでいる様子が、わざとらしくて仕方がない。前に、一誠が『演じている』と言った言葉がぴたりと合っているようだ。
「永さまも、もっとよく見てくださいな」
うわの空の永に声を掛ける。三津に続いて永も歩き出した。すぐそこには東屋もあり、座って愛でることもできそうだ。三津は時折、永の方を振り返るが、永にはその時の笑顔が嘘のようで、白々しく思えた。だが、前にも思った通り、自分に正直なんだろう……これが三津の表現なのだ。
そんなことを考えていた時だった。振り返った三津の顔が一変した。
「殿……」
小さな声だったが、永の耳にも届いて振り返る。そこには、遠いが一誠の姿が見えた。キョロキョロと辺りを見ているので、誰かを探しているのだろう。
どきんと胸が跳ねた。姿を見ただけで胸が高鳴る。
高鳴りを押さえるように永は胸に手を当てた時。先を歩いていた三津が、こちらへ走り出した。
「え……!」
永の驚きの声を上げた。そして……。
ドン!
永の身体に衝撃が走った。そのままどさりと地面に叩きつけられた。永の身体は、横を通り抜けた三津により突き飛ばされたのだった。




