幼なじみ
まだ寒さの残る三月、成島永里は剣道場にいた。今日は道場の入団式で、これからこの道場に通うのだ。何故、剣道を始めようかと思ったのか、今では思い出せないが、ただ漠然と『かっこいい』と思っていたに違いない。ただ、晴れた寒い日だったことは覚えている。
入団式には、この辺りでは大きな道場とあって沢山の理事や大人達が出席し、子供ながらに緊張して終わった。入団したばかりの永里は、まだ稽古着を着ていなかったが、すでに入団している子供達は刺し子の道衣と紺の袴を着ていて、どの子も小さいながらも凛々しく見えた。
そして、その帰りのことだった。永里は道場の玄関を出て、北風の強さに顔をしかめた時だ、後ろから甲高い男の子の声に振り返った。
「えい?えい……だよね?」
えい?それは自分のことなんだろうか。首を傾げた。私はそんな名前じゃない。
男の子は生成りの道衣が白く色褪せていて、大分前から道場に通っているようだ。多分、自分と同じくらいの歳かな?九歳くらい?何故、声を掛けられたか分からないが、永里は足を止めて男の子を見た。
「えいでしょ?」
「違うよ、私はえり。成島永里。今度、四年生。それは違う人じゃない?」
永里は顔をしかめたまま男の子を見つめた。真剣な表情なので冗談ではなさそうだ。永里も自分の名前を名乗っただけだ、間違いないのだからと幼いふっくらとした頬を更に膨らませた。
「違うの?あ……そっか。うん、ごめん。俺の勘違いだった。ごめん、永里」
永里は顔をしかめたまま男の子に向き直った。真剣な表情なので冗談ではなさそうだ。永里も自分の名前を名乗っただけだ、間違いないのだからと幼いふっくらとした頬を更に膨らませた。
明らかにがっかりしたようだ。しかし……初対面の見知らぬ男の子に呼び捨てにされるとは。だいたい、同じ道場に通うからと言って、名前もまだ知らないのに。
「呼び捨てなんだ……ふうん……私、あなたの名前、まだ聞いてないんだけど?」
嫌味を言って睨んだ。これくらいの男の子は嫌いだ。子供だし、すぐに意地悪するし、からかうし。
「ここの道場では、皆、下の名前で呼び捨てなんだよ。だから、つい……。入ったばかりで知らないよね、ごめん。永里ちゃん……て呼んでいい?」
あっさりと謝られるとは思わなかった。永里の通う小学校の同級生とは、ちょっと違う感じだ。永里の方が驚いた。
「いいけど。それで……私、あなたの名前、知らないんだけど」
「俺は高科誠。誠でいいよ。同じ学年だしね」
「誠くん……。で、何?何か用?」
永里が睨んだまま尋ねる。ここまで強気でいる必要などないのだが……。
「永里ちゃんが、俺の知っている人にそっくりだったから間違えただけ。ごめんね。これからよろしくね」
誠はそう言って、永里に手を差し出す。握手だ。
え?握手するの?つか、恥ずかしい。動揺したのは永里の方だった。この年齢くらいだと、男女との会話や触れることさえ恥ずかしい年頃だ。しかし、いつまでも手を出さない方が恥ずかしいのか。永里は唇を噛んで無言で右手を差し出した。
「永里ちゃんて面白いね!うん、よろしくね」
にっこりと笑う誠の方が、大人だった。
「永里ちゃん!永里ちゃんてば!」
永里は誠の呼ぶ声に我に返った。既に辺りには誰もおらず、その場にいるのは誠と永里だけだった。
「誠……」
そうだった、部活終わったんだった。
永里と誠は小学生、中学生の間は道場に通い続け、高校一年生になった今はクラスは違えど同じ学校、同じ剣道部に所属している。幼い頃から知っているし、道場の合宿などで寝食を共にした仲間だから、男女という概念などなくしても仲が良かった。幼馴染という言葉が一番しっくりくるのかもしれない。その部活終了後、すでに片付けも終え、皆は着替えも済ませて誰もいなくなっていた。学校の格技場には誠と永里だけがいた。隣の畳で騒いでいたはずの柔道部の部員も誰もいない。永里は着替えはしていたものの、それほど部活の記憶がない。
二人のせいだ。永里は昼間のことを思い出していた。
「あ、あの映画でしょ?観たいよね!」
休み時間に友人と三人で映画の話をしていた。洋画の恋愛もので、周りも世間もカップルで行くという人が多かった。永里も映画のタイトルは知っているが、けっこう、どうでもいい。映画に行く時間なんてないだろうなぁ、部活ばっかだし。
「一緒に観るような彼氏欲しいよねぇ」
友人は机に頬杖を付いて、しみじみ言う。
「永里は部活で行けないか……運動部だもんね。あ、でも、いるじゃん」
永里は訳が分からず、二人の顔を交互に見比べた。は?何がいるって?
「え……?何?」
永里が戸惑っていると、友人はニヤリと笑う。
「永里には高科くんていう彼氏がいるじゃん」
普通の声量で言われたつもりが、やけに大きく教室に響いた。永里は教室を見渡すと、皆がこちらを見ていた。
「やっぱり!付き合ってると思ったんだ」
「あんなに仲イイのに付き合ってないってのが嘘だよなぁ」
話の輪に入っていなかったクラスメイト達がざわつき始める。
え!ちょっと待って!
「違う!違うってば!」
否定しても信じてもらえない。一部の女子がこちらを睨んでいたが、それどころじゃない。こんなにクラス中の生徒達が知ってしまって、すぐに誠本人の耳にも入ってしまう。違うのに……誠は、ただの幼馴染なだけなのに。典型的な十代にありがちな『からかい』……騒げば騒ぐほど周りに囃し立てられるのに、否定しないのも認めるようで耐えられない。
「本当に違うの!」
永里の声は届かない。虚しく教室に響くだけだった。もう勝手に話が進んでいく。永里は困惑して唇を噛んだ。少なくとも永里はショックだった。一番の身近で昔からの大事な人……そんな人をからかいの対象にされるのは耐え難かった。
誠の顔を見上げる。出会った頃は同じくらいの身長だったのに、いつの間にか見上げる高さまで成長した誠。顔も綺麗になって、それはそれは女子にモテている。きっと教室で睨んでいた子も誠のことが好きなんだろう。昔は、陰湿な女子に靴箱に画びょうなんて古典的な悪戯までされたものだが、そんな女子には分からないだろう……
どんなカッコいい男だって、剣道やっている奴の防具と、稽古の後の本人は超臭いってことを。
「永里ちゃん、本当に何かあった?今日はぼうっとしててさ」
心配そうに誠は永里の顔を覗き込んだ。永里は『誠』と呼び捨てているが、未だに誠は『永里ちゃん』だ。
言えないよ……彼氏なんて言われて、誠のことを色々と思い出してたなんて。まだ、誠の耳には入っていないのかな?違うクラスだから、噂はまだ聴いていないのかもしれない。永里は誠の話に首を横に振った。しかし、そんなことで動揺してぼうっとしていた自分が情けなくて座り込んでしまった。膝に顔を埋める。自分に尋ねるっていうことは、まだ誠の耳には噂は入っていないらしい。
「本当に?何か悩んでるんだったら、ちゃんと言って。俺じゃ頼りになんないかもだけど」
「うん、ありがと」
少し顔を上げると、誠は少しはにかんだ笑顔を見せた。こういう笑顔や気遣いを他の女子にも見せているんだろうか……そう思うと何だか胸が痛い。ずっと一緒にいたが、高校が初めての同じ学校で、クラスでの様子は知らない。剣道というスポーツ柄、どうしても男子が多いので、誠がどんな様子で女子と接しているかなんて分からないのだ。
「じゃ、帰ろう。もう外は真っ暗だよ」
誠はすっと手を差し出した。もう初めて握手をした時のような恥ずかしい思いはない。冗談言えば背中を叩いたりもする。
「え……」
だが、今日は違った。あんなに騒がれた後だ、意識したくなくても躊躇ってしまう。誠の手を取れって?手を掴むか掴まないか、どちらが正解か分からない。もじもじとしていると、少し屈んで、誠は永里の手を勝手に掴んだ。
大きな手。男らしいごつごつとした逞しい手だった。いつもとあまり変わらないように見える。その誠の様子に永里は胸をなで下ろす。意識しているのは自分だけらしい。
「誠、手洗った?」
すかさず永里は誠に尋ねる。いくら籠手の下に手袋を着けていたとしても、臭いものは臭いのだ。自分は……記憶は定かではないが、確か洗ったような気がする。
「洗ったよ!失礼だな」
そう言って永里をひっぱり立たせてくれた。そして、ソツなく永里のバッグを持ってくれる。
「ごめん、ごめん。冗談だってば。ありがとね」
「いいよ」
笑っているが、その笑顔は寂しさが混じっているように思えた。昔から時々、こんな寂しそうな笑顔を見せることがある。理由を訊いたことはないが、いつも胸がちくんと痛んだ。まさか、先ほどの冗談で傷ついた訳ではないだろうが。
「ねえ……誠。あの……」
格技場の出入り口に向かって歩いている。しかし、この状況は一体……。
「何?」
わざとなんだろうか。
「手」
「手?手が何?洗ったって言っただろ」
いや、私がぼうっとしているという問題ではないだろう、誠は何を考えているのか。
「手!繋いだままなんだけど」
立たせてもらった……までは解る。だが、繋いでいる必要がない。『彼氏がいるじゃん』頭の中で友人の声が聴こえた気がした。彼氏!いや、違うから!皆の勝手な思い込みだし。焦って手を振りほどこうと、力を入れて腕を引く。
「いいじゃん。手、繋ぐくらい。ね?」
にっこりと笑顔で返されると、ムキになるのが馬鹿みたいだ。う……と言葉を詰まらせたことを良いことに、誠は永里の手を更にきつく握った。
「まあ、いいけど、さ……」
意識しているのは自分だけらしい。どんな顔をして誠の方を見たら良いか分からない。咄嗟に俯いてしまった。
「ふっ」
誠は頭の上で小さく吹いたようだ。からかわれている。同級生の男の子よりも誠は大人というより、永里の扱いが上手いだけか。仕方なく、されるがままに手を繋いで外に出た。
外はすでに暗かった。外で活動するような運動部は暗くなると部活が終わったりするものだが、剣道のような屋内スポーツは暗くなっても電気を点ければいくらでも出来る。例えば台風だろうが、大雪だろうが、学校さえくることが出来れば活動できるのだ。剣道は嫌いじゃないが、ちょっと遊びたい気分の時は嫌なものだ。そこそこの剣道部は部活を切り上げたが、体育館では強豪のバスケットボール部が、まだ練習をしていて、それを横目に通り過ぎた。ボールの弾む音とシューズのキュッというスキール音が聴こえてくる。
「頑張るね、バスケ部は」
「そうだね」
誠が話しかけるが、意識が繋いだ右手ばかりに集中してしまう。手汗かいてないかな。暗いから分からないだろうが、多分、顔は赤いはずだ。しかし、繋いだ手から永里の体温が伝わっているはずだった。誠は何も言わないが、緊張しているのも伝わっていると思う。
「本当にどうかしちゃった?今日はやけに静かだし」
誠が顔を覗き込むが、永里は唇を噛んで顔を背けた。今、見られたくない。大体、こんな手なんか繋ぐからじゃんか。どうかしちゃった?って訊きたいのはこっちの方だよ。
「な、何でもないよ……」
ぼそりと永里が呟いた。だが、誠は素っ気なく『ふうん』と頷いただけで、再び前を向いて歩き出す。二人の横を男子生徒が自転車で追い越しざまに、横目でこちらを見ていったが、誠は動揺もせずに堂々と歩いていた。
誠は誠で、先ほどの格技場でのことを思い出していた。稽古が始まる前から永里の様子が変だと思っていたが、稽古中も心ここにあらずだ。ぼうっとしているので、簡単に技を決められてしまう。永里は強い選手だ。県でもベストエイトには入る。だが、今日は負けっぱなしだ。隙だらけで、真正面から面を取られてしまう。
正座をし、黙とうの後、『ありがとうございました!』と礼をして終わる。そこまでは、ちゃんとやっているようだったが、立ち上がりもせず、正座を崩して座っていた。
「永里ちゃん」
稽古が終わって真っ先に声を掛けたが返事は無かった。やはり変だ。仲の良い女子部員や先輩達が『高科、成島を何とかしてよ』と頼んで帰っていった。が……さて、返事もしないのに、どうしたものか。誠が顎に指を掛けて考えていた……永里の考えている時するクセを真似てみる。その時、同じく一年の男子部員が座り込んでいる永里の元にいるのが見えた。何をする気だ。
「成島、部活終わったぞ。立てないのかよ」
そう言って永里に手を伸ばした……瞬間、誠は走り出した。誠の足音に残っていた部員達が一斉に振り返る。人目など気にも留めなかった。
「永里に触るなっ!」
自分でも思ったより大きな声が出た。男子部員はびくりと身体を揺らし、一歩後ずさる。
「あ……悪い」
そいつは何も悪いことなんてしていない。親切心で永里を心配しただけだったのに……それなのに、俺は。
「いや、俺こそ悪いな」
合わせる顔がなくて、俯き加減で謝った。真横にあった道場の構えなどをチェックする大きな鏡には、ちらりと見ただけでも、鋭い眼光で強張ったような自分の顔があった。
「そんなに心配ならさ、早く付き合っちゃえよ」
男子部員が言うと、周りから『そうだ、そうだ』『見ていて、もどかしいんだよ』『いつも永里ちゃんなのに呼び捨てかよ』などと声が上がった。永里は自覚ないだろうが、可愛らしい顔をしているので男子生徒の中では人気はあるほうだ、と思う。幼馴染という言葉を使いたくはないが、ただ俺の欲目なのかもしれないけれど。俺が仲が良いということで、何度も永里のことを訊かれているなんて本人は知らないんだろうな……こんなやり取りがあったということも。それに、永里と出会う前から知っているということも……その時は、名前は違ったけど。
「永里ちゃん、あのさ、ちょっと時間ある?」
しばらく黙っていた誠が口を開いた。永里が誠を見上げると、落ち着かなそうな誠の顔が目に入った。私が変って言うけど、誠だって変なんじゃん。
「うん、今日は塾もないし、大丈夫だけど。何?」
「歩きながら話そっか」
だが、誠は何も話そうとはしない。話があるんじゃなかったのか。ただ黙々と二人は駐輪場へと向かう。格技場の隣りには体育館があり、長い校舎の横を抜け、校門そばに駐輪場がある。所々に街灯があるが暗いことには変わりがない。駐輪場だけが、蛍光灯の灯りで明るかった。もう学校に残っている生徒は少ない。
「何なの、一体」
永里は少し離れた場所で自転車の鍵を開けている誠には気が付かれないような小声で呟いた。話……とは。
もしかして。『彼氏がいるじゃん』何度も頭で繰り返す言葉。誠をそんな風に見たことは無かった。男なんだが、違う……もっと信頼していて、兄妹のような……家族のようなと言った方が良いのか。それだけに、今日のクラスメイトの言葉が刺さった。大事だから、からかわれたくない。少し目立つのも分かっているけど、誠に噂のような好奇の目を向けて欲しくはなかった。他の人に誠の何が分かるというのか。
そして、自分の気持ちが分からなくなった。こんなことを考える資格がないのだと。自分はただの幼馴染だった。それ以前に彼氏とか以前に好きという気持ちすら意識したことがない。高校生になって、普段から一緒に過ごすようになってからというもの、誠と付き合っているのかと訊かれたことは何度かあったが、はっきりと彼氏と断定されたことはない。
「永里ちゃん、帰ろう」
誠の声に肩がびくんと揺れた。声変わりもすっかり終わり、低くなった誠の声が胸に響く。誠は自転車を押して永里の前まで来ていた。小さく頷くと、永里も自転車のスタンドを足で蹴り、駐輪場から出す。
「あのさ、少し歩こうよ」
「え?わざわざ?」
自転車という物があるのに、乗らずに押すのか。邪魔以外何ものでもないじゃないか。面倒くさそうに顔をしかめると、誠は苦笑いをした。
「いいじゃん、いいじゃん。どうせ暇なんでしょ」
そう言われると仕方なく頷いた。校門の街灯の下を通り、自転車を押しながら歩く。
「永里ちゃん、こっち」
誠は塀側を指差し、そちらを歩けと促した。学校前といえど少し奥まった場所にあるために歩道がない。それほど交通量が多くもないが、いつも決まって誠は車道側を通ってくれる。
当たり前のようだったが、男として守ってくれているのか……などと思ってしまう。そんなことを考えちゃう私は誠が好きなの……?ちらりと誠を窺ったが、何事もなく微笑みを向けられただけだった。
もし、誠に彼女ができたら?
この笑顔は他の女の子に向けられるものだろう。そこで自分は何も感じないのだろうか。いや、違う。永里は架空の彼女を想像するだけで、胸がぎゅっと締め付けられるような息苦しさを覚えた。
「俺、こっち側を歩きたい派なんだよね」
そんな派があるわけないじゃん。と心の中で突っ込みながらも素直に従う。すっと現実に引き戻される。気遣ってくれてるのかと思ったけど、違うのかな。永里は考えながら自然と唇に右手の人差し指を当てた。
「それで?歩いてまで話すことって何?」
ちらりと誠を横目で窺うと、こちらも見ずに真っ直ぐ前を向いて歩いていた。調子狂う……何なの?いつもと少し違う誠。いや、違うのは自分も同じか……クラスメイトにからかわれて誠を意識してしまう自分。誠も自分と同じように何かあったのだろうか。
「誠?」
何も答えない誠に再び問いかける。しかし、反応がない。誠の顔を見ると、同じく前を向いたままだ。何台かの乗用車のヘッドライトが誠を照らしては通り過ぎる。その度に風が、二人の髪や制服を揺らした。
「誠ってば!」
思わず怒鳴り声を上げた。聴こえているなら、せめて返事くらいしてよ。口を尖らせて脹れて見せる。すると、ゆっくりと誠が永里の方へ顔を向けた。なんだ、聴こえてるんじゃん。
「誠、何なのよ。話があるんでしょ」
「うん。そうなんだけど、さ。あのさ……」
言い難いことなのか歯切れが悪い。せっかちな永里は苛立ってしまう。自然と早足で誠を追い越して後ろを振り返る。嫌なことは早く済ませたい。何の話なのか予想もつかないだけに、余計に苛立つ。眉を寄せて誠を見ているが、多分、言葉でさせ苛立ちは伝わるだろう。
「永里ちゃん……」
誠は少し伏せていた目を思い切って開けて、少し前を歩く永里を映す。真剣な瞳だった。
「な、何……?」
動揺して足を止めた。試合の時に見るような真剣な瞳だった。笑っていない。いつもはどこか穏やかな感じがする誠なのに。
ヘッドライトで誠の表情が一瞬ぱっと照らされ、真面目な顔がはっきりと見えた。そしてすぐに薄い暗に包まれる。だが、その誠の顔が次の瞬間に驚きの表情に変わったのが分かった。
「え……?」
永里もつられて驚きの声を上げた。
「永里っ!」
誠の悲鳴に近い叫びが聴こえた。何が起きたのか理解できなかった。
誠は手に握られていた自転車のハンドルを手放して、永里の方へ走り出した。
キキーッ!
ガシャン!
金属がぶつかる音と車のブレーキ音が鳴り響いた。
「永里っ!」