1日目・朝 (表)
俺、柊勇人は覚えておくと言うことが極めて苦手である。顔を洗えば、水に流されたかの如く携帯電話のありかを忘れ、外に一歩踏み出せば授業で覚えたイマニエル・カントの思想を忘れる。ただ断っておきたいのは、俺は暗記する、記憶すると言うことは得意だ。携帯電話をズボンのポケットに滑り込ませていること、カントが二世界論を唱えたこと、問題なく覚えることはできる。覚えておくのが苦手なのだ。たとえれば、俺の脳には大きなタンスがあってそこには無数の引き出しが取り付けられていて、かつその引き出し全てが開いており俺は丁寧にそこに覚えたことを仕舞うのだが、なんとその引き出しには指をかける取っ手部分が欠如している。中に何かが入っているのは確かなのにその中身が知りたいときに開けることができない。開けようとしても爪がその側面をかりかりと削るだけ。そんな感覚。
こんな自分にもどかしさを感じることが多々あった。が最近ではそのもどかしささえタンスの中に仕舞い込んでいるようだ。
さて、そんな俺を見かねてか、俺よりもずっと明達で聡明な妹、花撫が今日この日記帳を手渡してきた。
「に、兄さん、これになるべく明確にその日に起こった出来事を綴って下さい」
蒼く分厚いこの日記帳を手渡される際、違和感を覚えたのだが何だっただろうか。今朝の出来事だというのにもう忘れかけている。この日記帳の意義が早くも失われてしまいそうだ。だが、せっかく妹が物忘れの酷い不肖の兄に日記帳をつけさせることで、その不出来さに歯止めをかけようとしてくれているのだ。少しでも思い出す努力をしよう。
俺の考えでは妹の恥じらったような口ぶりに違和を感じた。おお、そうだった気がする。花撫とは17年共に暮らしているが、2つ違いの兄妹ともなると反抗期・・・いや思春期だろうか。ほとんど口をきかなくなっていたように思う。俺にシスターコンプレックスという患いは無いはずだが、それでも顔を合わせてもほとんど会話がないとなると寂しくもなる。毎日交わす言葉と言えば唯一「おにい、醤油とって」だった。彼女は目玉焼きには醤油派だ。
おっと、これは今日の日記だ。あまり過去を振り返り過ぎるのも宜しくないかも。
軌道を修正しよう。
つまり彼女に感じた違和感は俺への対応だ。何というか、話をした、ということも珍しい。そこに輪をかけて少しの恥じらいを見せていたことも珍しい。
少し下を見てそれから右に目線を送ったかと思えば拳を作ったり解いたりと|忙≪せわ≫しない様子だった。ただ、恥じらいのようなその行為がどのような感情から来た仕草だったのかは曖昧だ。優しさか、憐れみか、畏怖か、戸惑いか・・・判断がつかない。通常の兄妹関係ならば理解することも可能なのかもしれないが、あの事故以来俺の記憶はより信用に足りなくなっている。記憶障害とは厄介なものだ、それが一時的なものであるとしても。そんな頼りない記憶力が脳に薄く刻み込まれた「妹」という情報を必死に探すのだが、俺との関わりの深さや彼女の癖など明確な情報は未だ見つかっていない。先ほど書いた程度の情報。要するに容姿や名前以上のことをよく覚えていないのだ。(彼女が餃子にも醤油で貫くことはよく覚えているが)。
ゆえに今花撫の心理について考えても大きな成果は期待できない。やめだ、やめ。今の俺の記憶の中の妹は夜、兄の部屋にプレゼントを持ってくるような奴ではない。そう考えれば妹もあの事故で両親を失って以来少しずつでも俺との距離を詰めようとしてくれているのだろう。可愛いことじゃないか。取り敢えずはそれでいいか。
おや、何の話だったか、日記か、そう、日記だ。今のままだと妹の観察日誌になってしまう。
とは言え、なにぶんごくごく平凡な生活を営んでいる男子高校生にとって日記に特筆するようなデンジャラスな日常はない。
今日4月21日は火曜日。学校があるので朝はいつも通り6時半に目が覚める。未だに二つ折りの携帯電話が行方知れずになったまま顔を洗いに一階へ降りると、これまた通常通り花撫が朝食と弁当の用意をしていた。
「お、おはようございます」
おはよう
「・・・はい、おはようございます」
寝ぼけ眼ではあるが朝の挨拶。大事だろう。
4つある椅子のうち2つしか使用されないまま食事が進む。
「兄さん、今日の予定は?」
昨日と同じ。学校行って午後はバイト。晩御飯は賄いが出るからそれで済ましてくるよ。
「了解しました」
なんか形式ばった返事だな。
目玉焼きにソースをかけていただく。やっぱりソースだよな。醤油派との争いを望んでいるわけではないが、やはり戦争がおこるとすればソース派に志願する。必ず。
「いえ、その、何か変でしたか?」
いいや。ちょっと違和感あっただけ。変ってことは、ないよ。
少しぎこちない会話をした後に一瞬の沈黙ができる。うん、変だろ。家で「了解です」って使わんだろ、ほとんど。
出来てしまった不可思議な間を埋めるかのように は俺が使い終わったソース瓶を音を立てながら引き寄せ、それを目玉焼きに垂らそうとする。
ちょ、お前それソースだぞ。いいのか?醤油じゃなくて。
「え?あ、間違えました」
慌てて花撫はソースがかかった上から赤いさし口のある瓶から新しい黒い液体を滴らせる。辛いぞ、それ絶対。
「っ!?」
辛いに決まってるだろう。馬鹿。
「・・・馬鹿じゃ、ないです」
何気なく「馬鹿」なんて単語を使ってしまって嫌われてはどうしようと後悔しかけたが、結果何とも兄妹らしい会話になった気がする。
その後大した会話も出来事もなかった(ポケットの中に携帯電話はあった)がそれでも俺としてはいつもより少し幸せな時間に感じた。
短編のつもりが連続になってしまいました。
2話も同時に投稿しております。興味を持っていただいた方は是非。