ガーベラの妖精
「あれは失恋だな。あんなに長い髪をバッサリいくなんて、失恋以外に理由があるわけがない。間違いない」
仏頂面の黒髪黒縁眼鏡の園芸部の部長が言うから、思わず持っていたシャベルを落とした。
温室の中で響いたそれに反応して、ガーベラの世話をした話題の彼女がこちらを見る。
咄嗟に一緒にいた男子部員が目を逸らす。おれの頭を誰かが掴み、逸らされた。
「絶対に触れるなよ」と誰かが言う。
「相当の失恋らしいからな。そっとしておいてやれ」と部長が言うから、皆が従った。
おれはシャベルを拾い、彼女を振り返る。
ガーベラの手入れをしている東野璃子先輩は、とても小柄な体型をしている。
可愛らしい顔も小さく、腰近くまであった長い栗色の髪に包まれていたら愛らしかった。
一度触れてみたいと思っていた綺麗な髪だったのに、今の東野先輩は肩に触れそうな長さしかないボブヘアーに変わっている。
長い髪に触れられないことには残念に思ったが、その髪型も似合っていて可愛いと感想を抱いた。
でも部長の発言で印象は、変わってしまう。
確かに少し落ち込んでいるような様子だ。
項垂れる後ろ姿に胸がチクチクしてしまう。
おれも、俯いた。
東野先輩とはそれほど言葉を交わしていないけど、よく目を合わせる。
恥ずかしそうに俯いて逸らす。
そんな東野先輩に恋をしている。
東野先輩も、おれが好きなのかもしれないと思っていたのに、自惚れだったらしい。
東野先輩は落ち着いていて一人を好むと思われがちだ。
可愛いと漏らすが、誰も東野先輩を好きにならないのは高嶺の花と思ってしまうからだろう。
おれが抱いている印象は違う。
東野先輩は、花に笑いかける。
たまに話し掛ける天然なところもあって、なにもないところで躓いたり鉢植えを落としかけたりするドジなところもある、そんな無邪気な彼女に惹かれていった。
花達を愛しているから、誰よりも長く温室にいる。
長い栗色の髪に包まれた小さな東野先輩はまるで――――…妖精だと思う。
入り込んだ蝶にも笑いかける姿はとても明るくて、いつか花のために歌ってあげるんじゃないかって思ってしまうこともある。
そんな勝手なイメージを抱きながら、東野先輩を眺めた。
東野先輩もおれをよく見る。
目が合うとそっと頬を赤らめて顔を逸らす。
揺れる長い栗色の髪は、温室の光で艶やかで何度も触れたくなった。
温室の窓から差し込む温かな光に包まれて、消えていってしまいそうだなと思ったこともある。妖精みたいに。
東野先輩は花を愛しているから、花にも愛されていると思う。
そんな東野先輩に、おれも少しは想いが注がれているのかもしれない。
なんて思っていたのに、失恋をしたという。
一体、誰が東野先輩を傷付けたのだろうか。
気になった。
「…………あれ……鞄が、ない」
気になっても、部長の命令もあり触れることはよした方がいいと思い、部活を終えてすぐに帰宅しようとした。
靴を履き替えたところで鞄がないことに気付く。
「アホー。ボケッとしてるからだよ」
「ごめん……先帰ってていい」
一緒に帰る予定だった友人に呆れられた。付き合わせるのも悪いから、先に帰らせておれは温室に戻る。
東野先輩のことばかりを考えてて、持って出てきた記憶がない。
温室に入れば、暖かい花の香りに包まれた。花で満たされているからだ。
静かだから誰もいないかと思ったが、妖精がいた。
赤や白やピンクのガーベラが春の日差しを浴びる窓辺に、ちょこんと腰掛けた東野先輩。
花に話しかけていたところだったのか、おれが入ってきて驚いた顔をする。
ベージュのセーターに、緑と赤の線でチェック柄のスカート。細い足は白くて長い靴下を履いている。
「東野、璃子、先輩……」
「どう、したの?」
ぎこちなく笑みを浮かべて、東野先輩は何故戻ってきたのかを問う。
危うく戻ってきた理由を忘れるところだった。
温室の中心まで行って、おれの鞄を探しながら答える。
おれの鞄はない。ここではないなら、何処だろうか……。
東野先輩は何をしているのだろうか。
目を戻せば、そわそわしている様子で俯いていた。
温室で一人になりたかったのだろうか。
失恋の痛みを癒すために……。
背にした光の中に溶けてしまいそうに見えた。
「東野先輩」
「っん?」
「髪。切れましたね」
部長は触れるなと言ったが、堪えきれなかった。
おれに指摘されると、彼女は目を真ん丸に見開いては短く切り揃えた髪を揺らすように頷く。
「失恋、ですか? あんなに長い髪をバッサリなんて……」
「へっ?」
驚いたように目を瞬いている東野先輩は固まってしまった。訊いてはいけなかったのだろうか。
「皆が言っていました……。あんなに綺麗な髪を切ったなんて、失恋以外理由がないと部長が言ってました」
天井からぶら下がる鉢を避けて、東野先輩の元へ歩み寄る。東野先輩は目を伏せていたが、目の前に立てばおれを見てまた固まった。
「とても綺麗で、一度触ってみたかったのですが……残念です」
左手を伸ばす。
昨日まではそこにあったであろう毛先を想像しても、勿論ない。
上へ移動して肩に触れそうな栗色の毛先に触れる。
途端に俯いていた東野先輩の頬に赤みが帯びた。
「でも、今の髪型も似合ってますね……」と見つめながら、親指で毛先を撫で付ける。
ぱちくり、と東野先輩は長い睫毛を揺らして瞬いた。
「触り心地……いいですね。先輩の髪」
本当に長い髪に触れられなかったことを残念に思うけど、東野先輩の反応を見ているだけで気にしていられなくなる。
みずみずしい花びらみたいに、艶やかな髪を指に絡ませたら、東野先輩は耳まで赤らめた。
この反応は、やっぱりおれが好きだと思える。
おれが好きならいいのに。
そうでなくとも、今から好きになってほしい。
顔を近付けたら、東野先輩は息まで止めた。
東野先輩自身、花の香りがする。
「いい香りがします」と言いながら、やっぱり妖精みたいだなと思った。
ガーベラに囲まれているから、ガーベラの妖精。
彼女の香りを吸い込む度に、愛しさが込み上げる。
もっとこうしていたいと思っていたら、東野先輩が顔を上げた。
間近で瞳が合う。
東野先輩は仰け反り、後ろの窓に頭をぶつけた。
「大丈夫ですか?」と心配して窓に手をつき、ぶつけた箇所を気遣う。
あまり痛くはなかったのか、頷く東野先輩は視線を泳がす。重ねた手が緊張していることがわかった。
「……先輩、一体誰にフラれたんですか?」
「へ?」
重ねていた手を、東野先輩の頭の後ろに触れて撫でる。
「おれずっと……先輩はおれを好きだと思い込んでました……」
また俯いてしまっている先輩を見つめながら、囁いた。赤みが増す。
ああ、なんて可愛らしい反応なんだろうか。
こんな可愛い人を、一体誰がフッたのだろう。
きっと彼女の魅力を知らないのだから、教えたい。
「いつもおれを見てたから…………自惚れてましたね。あんなに長かった綺麗な髪を切らせるほど先輩を悲しませた人って、誰なんですか……?」
大切な髪を切るほど追い込んだのは誰だ。
どんな人を、見て思っていたんだろう。
「あ、あの……志水くん。私は、誰にもフラれてないよっ。これは、その、イメチェンだから」
「……じゃあ、好きな人は、いない?」
「いると、言うか……その」
先輩は髪型を変えた理由は、失恋ではなくイメチェンと答えた。
なんだ、違うのか。
信じこんでしまった。
先輩は意中の相手はいないとは言わない。
目を瞬かせて戸惑うように泳がすと口ごもる。
ああ――――…自惚れなんかじゃなかったのか。
「おれずっと……想ってました」
嬉しくなり、もう一度視線を合わせてほしくて両手で手をついてまた近付く。
「落ち着いてるって思われがちだけど、おっちょこちょいで、花にも蝶にも笑いかける東野先輩が……好きなんです」
気持ちを伝えた。
告白と、言うのだろう。
先輩は赤い顔を俯かせたままだ。
「先輩は?」とおれは先輩の気持ちを確かめる。
ビクリと小さく震えても彼女は顔を上げない。
「好き? それとも嫌いですか?」
額を重ねて、押し上げれば視線が合う。
先輩はまた仰け反ろうとしたが、おれが左腕を置いているから窓ガラスにはぶつからずに済んだ。
「――――…す、好きです」
おれの目を恥ずかしそうに見ながらも、彼女は好きだと言ってくれた。
腕の中の妖精は頬を赤らめて、おれを見つめる。
愛しくて、愛しくて、口元が綻んだ。
先輩は花を愛でる時のような瞳を向けてくれる。
「おれと付き合ってください」
「ぜ、ぜひ」
短くなった髪を揺らして、彼女は頷いた。
そっと髪が撫でた頬に唇を重ねる。花びらのように柔らかかった。
赤いガーベラのように、彼女は真っ赤になる。
「一緒に帰りましょう。璃子先輩」
「う、うん。……ゆ、柚女くん」
嬉しさのあまり、つい名前で呼んだ。
そうしたら、璃子先輩もおれを名前で呼ぶ。
柚に女と書いてユメ。
女の子みたいだとからかわれる度、子どもみたいに怒る名前。
璃子先輩が呼ぶと侮辱も嘲笑も含まれていなく、心地いい。
おれは手を貸して窓辺から彼女を下ろした。
「その髪型も似合ってて可愛いって、言いましたっけ?」
「うん、言ってくれた」
失恋ではなくイメチェンで変えた髪型は、似合ってて可愛い。その感想に戻る。
優しく髪を撫でた。
その栗色の髪に包まれた顔は赤いままだけれど、照れた笑みが溢れる。
とても可愛い。
璃子先輩と帰ろうとして思い出す。鞄がまだ行方不明だった。
「それでその……おれの鞄、見ませんでしたか?」
「え。本当に探しに来たの? 君、持って温室を出てたよ」
「……じゃあおれの鞄はどこですか?」
「知らないよ……。一緒に探そうか」
璃子先輩、今日もおれを見てくれたのか。嬉しく思いつつも、おれは鞄の行方を考える。
おれより小さな璃子先輩は、おれと手を繋ぐと上目遣いで探すことを提案してくれた。
「温室から出たあとは、何処に行ったの?」
「えっと……教室ですね」
「じゃあ行ってみよう」
璃子先輩は帰ることを急ぐことなく、ゆっくりと歩いておれと教室へ。
友だちと戻ってきた教室に、置いたまま忘れていたらしく、ポツリと鞄が置かれていた。
「柚女くん、うっかりさん」
鞄を持てば、璃子先輩はいつも花に向ける笑顔で笑う。
告白が出来て結ばれたから、うっかり置き忘れてよかった。
笑い返して花の香りがする璃子先輩に、また頬に唇を重ねた。
「ガーベラ」を書いたのがなんと七月!
柚女くん視点を書くといっておいて、年末まで放っておいてしまいました。すみませんっ!
なんとか年越す前に書けました。
書いている間に思いましたが
柚女くんは自分の攻め方がいかに女の子を赤面させるものか、理解していらっしゃいませんね。
彼こそ天然ですね。
妖精にメロメロな柚女くん視点でした。お粗末様です!