きらり光れば(前編)
八月の小樽は夕刻に差し掛かっても暑かった。太陽はにやにや笑いながら、この街を旅ゆく僕らを日中ずっと焦がしつづけた。ひとしきり僕らを弄んだ夕陽は、迫る宵闇に朱を溶かしながら沈みゆく。北の海辺の地に、夜が訪れようとしていた。
じっとりまとわりつくような湿気に首回りがどうにも不愉快で、無造作にハンカチを取り出す。「もうじき夜なのにね」となりを歩く彼女が笑った。「な」一音をもって返す。木綿の、空色をしたハンカチ。昼時、彼女の額ににじむ汗をぽんぽんと拭いたのを思い出した。彼女のにおい立つ髪が、夏風と戯れていて。はらりはらりと白いおでこにこぼれかかる髪は、なんだか妙に綺麗だった。
札幌から電車で一時間。小樽はそう遠くなかった。運河の街、オルゴールの街、ガラスの街。お寿司もスイーツもよく知られているというから、僕らは札幌の駅前のちょっと洒落たホテルから、かたんことんと緑帯の列車に揺られてここまでやってきた。海岸線をゆく列車の車窓からぼんやり眺めた海は、まるで青系統の絵の具を何度も塗り重ねたみたいに、深くて濃淡のはっきりした色をちらつかせた。
「すごいね。北海道の海って、こんなに綺麗なんだ」
向かい合わせにした座席に座る彼女が、笑った。子どものように表情を華やがせながら。僕は札幌からほど遠くない場所に、こんなにも美しく輝く海があるのを知らなかった。波打ち際に張り付くようにして進む線路。あるときは岩場だったし、あるときは大小さまざまな丸石の転がった海岸線だった。そしてあるときは、小麦色の肌をした子どもたちがはしゃぎまわる白砂の砂浜。北のこの地にも、夏はちゃんと訪れていたみたいだった。
「こうやって海を見てるだけでさ、さざなみの声が聞こえてきそうだよね」
ちらちら瞬く銀の海。かたん、かたたんと車輪が立てる歌声に乗せて、すきとおった窓の向こうから、海の鳴り響くのが聞こえてくるようだった。列車は明かり取りの窓の付いた隧道を抜けて、また白日の下に姿を現す。近付いたり離れたりを繰り返しながら、けれど目の届く距離にある。まぼろしの波の声も、いっしょになって近くなったり遠くなったりした。
「むかしさ、貝殻を耳に当てて、『海の音が聞こえる』って、やらなかった」
童心に帰った少女は、貝殻の代わりにちいさな手のひらで耳を覆った。静まりかえり、ただ規則的に刻まれる音だけが響く車内で、僕らだけは違う世界にいた。それは足元を波がやさしくあらう、みずみずしくてまぶしい砂浜。僕も笑って、丸めた手のひらをそっと耳に当てた。いつかふたりで聞いた波の残響が、遠くどこかからやってきた。