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嗚呼  作者: 大庭言葉
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 針先についた少しの液体と血糊を、紺絣の手拭いで綺麗に拭き取った。手拭いが湿り、異色を帯びていくことに、私はそう別段嫌悪を抱くことはなかった。

 不意に彼女の顔に手を添えてみる。何の意識もなく、ただ、何となく。すると顔は雨粒のように冷たく、粉雪のように白かった。彼女を瞥見した私は一度、縹色の鞄を見て次なる作業を試みたが、どうも私の心は操り人形のように自由自在に操れる従順なものではなかった。一先ず手にしていた物を全て卓袱台の上に載せて、私は松の木が描かれた襖をゆっくりと開けて階下へと向かった。


 階下には桃割髪の女将が、少し盛り上がった畳の上で茶を点てていた。その前を私が闊歩で通り過ぎようとすると、女将は細く見詰めていた抹茶から視線を上げて、私を見詰めて言った。

「女の子は無事に逝かれましたか」

 その言葉は余りにも残酷で、陰惨なものであった。また彼女の語調が毅然としていたせいか、それがより濃く聴こえるのは私だけだろうか、と悩んだ。その苦悩が時の経過と共に憤激へと化してゆく。

「まだ一仕事残っているから如何とも言えませんよ」

 私の語調の些かの強まりが、露骨に憮然たる想いを呈していた。私はすっかり自己陶酔しているようだ。自我に溺れる自分に嫌悪を覚えた。

「気分が晴れがましくないので少し散歩をしてくるだけです」

 詫びの意を込めたその言葉だけを残し、私は宿の暖簾を潜った。すると、そこには予期せぬ光景が在った。

「御嬢は無事にお逝かれましたか」

 洋服を身に纏った風変りのその男は、涙ぐんだ声で私に物言いかけてきた。彼は、確か彼女の側近であったはずだ。私は彼の噎び泣く姿に、見るに堪えないものを見てしまったという後悔を覚えた。

「お逝きにはなれましたが、締めの御粧しが残っております」

「態々、死人の顔に落書きを施すのですね」

 彼は私の気を逆撫でしているのだろうか。同情の心が一瞬にして憤怒へと化した。

「落書き、とは何ですか」

 少し語調を強めれば、彼は大粒の涙を袖で拭い、私に鋭利な眼光を向けて対峙を仕掛けてきた。私に並々ならぬ憎悪があるのか、奥歯を噛み締めた彼は眉間に皺を寄せている。私は彼の沈黙の上の憤怒に、素知らぬ顔を見せてお返しした。すると男はまた私の怒りを買うような言葉を洩らした。

「その言葉の通りです。態々、死人の顔に化粧をするほど徒労感を負うものは他にありますか」

「私がいつ徒労感を背負ったと口にしましたか。私はこの職務を億劫に想ったことなど一度もありません」

 どれ程に私が憎いのか、それは計り知れないくらいに膨大なものなのかもしれない。私は予想することにさえ恐怖を覚えた。

「果たしてそうでしょうか。何せ人を殺して落書きするだけで莫大な額の金銭を親族から奪っていますからね。それはまた都合のいい話ですね、先生」

 私には彼との論争に終止符が打つ光景が想起できなかった。これは確実に彼が私を呵責するばかりで、あたかも私が彼女の意思の左右関係無しに殺めたと主張するだけになってしまう。私は話題を切り替えた。

「何故、彼女は私のところまで来られたのですか。数十里も経て」

「それが解るのであれば、私がこのような愚劣な選択をすると思いますか。私だって最初は引き止めましたが、御嬢の意思が解らなかった故に引き止めることができなかった」

 出し抜けに憤怒を露呈する彼の気がわからなかった。私は口を曲げて考える風を見せた。すると、彼は少し罪意識を覚えたのか将又、今後の交友に支障を来すことが厭だったのか、俄かに良心が咎めたような面持ちを浮かべ出した。

「私はよく八つ当たりをする悪癖があるのです。申し訳ないですね」

「私は少し河川の下流に行ってきます。用があったら其方までお願いします」

 彼の懺悔に私は無愛想な返事をした。否、彼の謝罪に何一つの返答をしていない。これはある種の看過を露骨にしたわけである。私としては当に為て遣ったりと謂うところであり、別段罪悪感などと謂う感情は一切抱かなかった。

 気付けば額には稀有な程の量の汗が流れていた。名物裂の手拭いで汗を拭えば、一瞬にしてそれは湿り気を帯びた。私はそれを袂に隠した。

「嗚呼、私はろくでなしののらくら者だ」

 不機嫌に地面の石畳に凝然たる視線を送った。

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