三
「そうですか。わかりました。では布団に横になってください。そして右腕を念入りに揉んでおいてください。最期くらい小さな痛みで旅立てるように、私も最善を努めますから」
そう言った私の顔が上がることは、彼女が死を迎えるまでに決してなかった。
彼女は言われるがままに布団の上に寝転がる。
私は縹色の鞄から一つの注射器と液体を含んだ容器を取り出した。
二人の間に沈黙の色が静謐に滲んでゆく。
「先生、私は今どのような顔をしていますか」
窓の外から聴こえる小さな小糠雨の音に絡み合った、不憫な彼女の声は少しやつれていて、それは決心の成就の現れのように見えた。私は注射器の中に液体を注ぎながら、呟く。
「美しいですよ」
その言葉の語尾は霞むように消えた。自分でも呆れるくらいの普通の感想であるのに、彼女はその言葉を耳にした途端に、俄かに頬が紅に染まってゆき、空を舞う葉桜のような淡い猩々緋を私の瞳に映した。その一切の装飾を施していない大和たる艶やかさが、私の率直な美しいという言葉に更なる強調を加えた。嗚呼、今にも私の唇からそれが流れ出そうである。だが、私は血みどろに己の口を紡いだ。今、眼前で浄土へと旅立つ彼女の前で、その言葉は余りにも不謹慎である、という自覚があったものだから。
気付けば無意識の内に私の手は、用意が整った注射器が一本、確かに握られていた。これを彼女の腕に刺せば、彼女は二度と私の目の前で、そして人々の目の前で、また自然の前で、笑みを浮かべることは無くなる。もし私が之ほどに脆弱な男でなければ引き止めたのかもしれない。だが現を見据えれば到底、私がそのような傲慢な態度をとれるはずもなく、ただただ彼女が望む死を近づけてやることしかできないのであった。
「ではそろそろ。目を瞑ってください」
情けないくらいに私の声は震えていた。彼女は緩やかに口角を上げて、同時に目を徐に瞑った。
「では少しの間、さようなら」
彼女の真珠の如く純白な肌に、光沢を見せる銀色の針が入り込んだ。私はそれを確認し、その針を通して液体を流し込んでいく。
彼女は死んだ。




