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嗚呼  作者: 大庭言葉
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二十六

 家に着いた。勝手元から包丁と俎板が出すこんこんと謂う音が聴こえる。朝、妻を不機嫌にさせたから出迎えてくるはずもないか、否、このような罪人を快く出迎えて欲しくなかった。だが、私の目の前に割烹着の妻が現れたのだ。

「おかえりなさい」

 そう言って縹色の鞄と、私の帽子の庇を手にして居間へと向かって行った。私は赤の他人によって快楽を得た人非人、そう悪漢である。であるのに、何も知らない妻は私のような廃物を快く出迎えた。私の呼吸がまた荒ぎ始めた。

 それから私は昼食も夕食も拒んで、一人書斎で頭を抱えて震えていた。

「私はとんでもないことをしでかしたんだ」

 震えが止まらなかった。嘗て此処までに震えたことなどなかった。嘗て之ほどに愚かな大罪を犯したことなどなかった。嘗て、嘗て私はこんなにも淫らなことをしたことはなかった。刹那である。胸元から血痰のようなものが出てきた。卓上の白紙の原稿用紙が真紅に染まった。何だこれは――魂の戦慄、それが背中を凍らす。ただでさえも荒いでいた呼吸がいっとう増して乱れていった。まるで私の肺胞は機能を失ったかのようであった。すると偏頭痛が呼吸困難に加えて生じてきたのだ。竹刀で後頭部を殴打されるような感覚に襲われた。今までに感じたことのない、幾重の痛みと精神の崩壊。私は生命の危惧を悟った。これは危ない。そう想った途端に頭を過った一つの片仮名の薬名。――マイナアトランキライザ。それは確かあの鞄に仕舞いこんでいた。私は食事を貪る禽獣のように階下を駆け降りた。居間に鞄があるはずだ。はあはあと呼吸を荒げる。それは狼のような獣性を持っていた。

「あの縹色の鞄は何処だ」

 妻に呶鳴るように尋ねた。妻は少し驚きの色を浮かべながらも居間の片隅を指さした。私はその鞄を手に取って、元来た縁側を駆けて二階へと上った。マイナアトランキライザを探しながら。そうそれは脳系を壊す精神.安定剤――。私はそれを過剰に服用すると死を招きかねない、ということを知っていた。だが、私を壊しているこの狂気が、それを冷静に見極めるはずもなく、私の口に二十粒程度のそれが入り込んだ。私は水も無しにそれを飲み込む。収まらない。即効性が無い。私は引き出しを漁った。睡眠.導入剤。これを使えば少しは正気に戻れるはずだ。机の後ろにある書棚の引き出しを片っ端から開けた。いつも整頓していなかったせいか余分なものばかりが出てくる。それらは床へ投げ捨て、無いであろう引き出しは其の儘に放置しておく。――あった。私はそれをまた口に含んだ。先程の二十粒が私の喉を傷めたせいか、十粒にも抵抗を覚えた。だが無理矢理押し込むように、それを胃に入れた。まだ落ち着かない。

「何でだ、何でだ」

 獣の咆哮のように私は叫んで言った。するとそれを聴き付けた妻が階段を駆け上って来た。

「どうなさったんで……す……」

 そこまで言いかけて、妻は絶句した。もう言わずと知れたことだ。私が人間離れした風貌と化しているんだろう。妻は悲鳴を上げた。

 私は妻の首元を想い切り掴んだ。

「おい、おい、おい、薬は何処だ、落ち着く薬は何処だ」

「それは貴方が一番御存知で……」

「おい、知らないから訊いているんだ。どうせ知ってるんだろ。答えろ」

「本当に知りません……」

 妻を締める手が強くなっていく。もう何をしているか解らなくなってきた。私は妻の首を掴む手を離した。

「そうだ、酒だ、酒。酒を持って来い」

 そう言うと妻は急いで階下へと降りて行った。しめしめ、私は妻を信じ切って待っていようとしていた矢庭に、玄関の戸が開いて、閉まる音が響いてきた。まさか。そう想って障子を想い切り開けた。そこには割烹着姿で一目散に逃げる妻の醜態があった。

「貴様……」

 私の憤怒は化け物のようであった。両手の拳は震え、鼻筋には刻み込まれたかのような皺が出来上がっている。強く噛みすぎた唇からは血が流れていた。

 妻が私から逃げた。何て滑稽で愚かだろうか。私は大きな声で笑った。何を妻は考えているのか。私から逃れられるとでも想ったのか。私は今までに沢山の人を殺めてきたのだ。そのような私が妻一人殺めることができないとでも悟ったか。そうであるなら馬鹿とでも言って嘲笑ってやろう――。

 私は二階から飛び降りた。妻を追いかける為。妻を殺める為。

 ――風船が割れるような音がした。

 ――妻は再び大きな悲鳴を上げた。

「少しの間、さようなら」

 私が私に戻ったのは、死んでからであった。

 

 ――空っぽの器の中に蝋燭を灯して寝たら、朝には器の中に蝋さえ残っていなかったんです。


 私は地面を真紅に染めた。

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