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嗚呼  作者: 大庭言葉
19/27

十九

 山道を歩くことを然程億劫に想わなくなってきた。即ちそれだけの人が私の手によって死んでいるということだが。

 少し背伸びをすれば見える小山。小山の峰より少し下に棚引いている紫色の霞はまるで首巻のようで、小山は峰をそれに埋めているようであった。まだ雪はあるのだろうか、そう想った矢庭に欅の密林が私と小山との間を遮蔽した。この滑稽さに噴飯は起こらなかった。常々の私を見れば、このような些細なことにさえ笑うのだが、今日の私にそれを要求するのは愚蒙である。溜息を一つ残して九十九折の坂道を重い足取りで上った。


 宿に着けば女将が早々に私に声を掛けてきた。

「一応部屋はいつもの場所にしてありますが、本当になさるんですか」

 いつにも増して整った桃割髪を私の目下にし、愚問の百曼陀羅を聴かされる。嗚呼、煩わしい。私は傲岸な口調で言い切った。

「仕事には一切触れないでくれ」

 私は彼女の絡みつこうとする手を振り払って胴間声を上げた。私の憤怒が烈火の如く燃え上がった。すると女将は驚愕の色を見せて、退いて行った。謝罪の句は一切無い。非常に無礼な女である。鬱積した憤懣の大方が発散できたものも微々たる私憤が胸中でこびり付いて離れなかった。そのせいでまた憤懣が鬱積する。この状況での悪循環と謂う言葉は言い得て妙であろう。


 いつもの部屋と解ったのであれば女将と話す必要など一切無い。私が宿の暖簾を潜ると、いつもの畳の上に女将はいなかった。だが建水に茶匙、茶筅が使い掛けのような状態の儘に放置されていた。私が過ぎ去ったら戻ってくるのだろう。人間と謂うのは単純な生物だ。私が今暇だったら、少しここで時間を潰して女将が来させないようにしていたのかもしれないが、此処に訪れているのは娯楽でもなければ難癖つける為でもない。仕事である。だから敢えてここを颯爽と過ぎ去らねばならないわけだ。

 私はいつもの階段を、いつもの歩調で上って行く。


 いつもの部屋というのが二階の最も奥にある部屋で、基本的に私以外の人間には貸さないらしい。心霊的なことを踏まえての配慮であると言っていた。私にとっても部屋を貸さないでくれた方が好都合であるから、その辺は感謝を感じている。

 襖に手を掛ける。薄氷を履むが如し、私の中に少しの不安が生じていた。

 襖を開ける。しかし鞄と同様に何故か襖も重かった。何だ先程から、これも罪を背負っているのか。面倒な話だ。私は力強く襖を引いた。

 入梅の冷風が私の坊主頭を冷やした。

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