十八
私がいつもの縹色の鞄に器具や手拭いに数冊の書物を詰めているときであった。妻が襖を叩かない儘、入ってきた。
「荷物の用意は整ったのですか」
「最中だよ。にしても君が合図を無しに入ってくるのは珍しいことだな」
妻は口に手を当てて今まさに想い出したかのような素振りを見せた。
「どうかあの子を救えないものですかね」
妻は気を咎めているような口調でそう言った。やはり十五、六の死を促しに行く男を快くは見送れない、という訳か。唯でさえ安楽死をさせる医師を見送ることにさえ、疚しい気分であるのだから。だが、妻のその道徳的呵責を一蹴するように私は言った。
「人間に英雄と謂われる奴なんか存在しないに等しいんだ。誰もが嫌悪し、軽侮し、時には殴り合う。それが浮世の道理なんだ。君の想像のように秀麗なものではないんだ。寧ろ汚穢に満ちた酸鼻な世界なんだ。そんなところに義侠心何てものは必要ない。寧ろそれは御節介であり、邪魔物扱いされる。ならば私のように穢れを悔やみながらも生きていくのが常軌と謂うものではないのか」
と下駄の鼻緒を弄りながら言うと、妻は私の頬を想い切り平手で叩いて、足早に玄関を去って行った。私は此の上の無い悪人だ。己の心も殺して、妻の心も道連れにして、揚句には人の生命さえも注射器一本で奪う。之に勝る罪があるなら教えて欲しい。そうでない限り私は戸外に投じている太陽の光さえ背負えない。安堵が欲しい。そう想っていると遠くから私を急かす妻の声が聴こえた。
「行かないのですか」
憮然とした口調で私に言っている。もう呆れ返っているのだろうか。確かに昔の私は無私で硬骨な正義を持していた。だが、その愚かさに気付き、安楽死を専業とする医師へと転向し、自分も騙して妻も騙して、安楽死を望む人等も騙してきた。
ろくでなし。私はどうしようもない人間だ。
重たい腰を持ち上げる。之以上いればまた妻が呶鳴るに違いない。嘆息が洩れた。
玄関に横にしておいた鞄を手に取る。さて行くか、そう想い立ち上がろうとした。しかし鞄が余りにも重くて、私の足が縺れた。何か余分な物でも入っているのか、そう想って鞄を開けてみたが別段いつもの道具と変わりがない。もう一度持ち上げてみる。やはり重い。
そうか――この鞄には私の罪をも持ち運ぶ訳か。流石に之には嘘の笑みさえ浮かべることは難儀であった。もう辛いの他に言葉が浮かんでこない。
嗚呼。




