十七
翌朝の話である。あの宿から一本の電話が来たのであった。丁度、私が悪寒のようなものに襲われて階下に降りたときの話である。けたたましい電話の音に憂鬱を感じながら出ると、あの女将が愕然としたような口調で問い確かめてきたのだ。
「何か先生に用事があるという女の子が来てるけど、本当にあの子なんですか。まだ幼い十代半ばか後半くらいの」
私は木で鼻を括ったような返事をした。何処か女将は忙しい口調でいろいろ伺ってきた。しかしそれを私は一蹴するように、
「立ち入った質問は避けて貰いたい」
とだけ残して電話を切った。遂に来たかと気落ちする中で、とどのつまり死に至るだけであって、それで私の生活にも社会の情勢にも一切の変化がない訳だから、そう深く考えないで行け、と自己欺瞞した。だが本心に逆らわない限り安堵を得ることは不可能であるのだから、これは正当な感情の詐欺であろう。感慨の無い冷血な人間である私は空け者なのであろうか。すると、妻が私に歩み寄り訊いてきた。
「今日になるのですか」
「そうなりそうだ。朝食を摂ったら身支度をして早々に向かうとするよ。こういう厄介事は早めに片付けておいた方がいいからな……」
「私には解りません。貴方がこの職業をお続けになる理由が」
振り向けば割烹着姿の妻が口惜しそうな顔で私に見ていた。その眼光は私を今にも突き刺さんばかりに鋭かった。
「……話そうか……」
私は嘘偽りを振り払って全てを言った。妻の作為的な相槌や偽りの悟りは畢竟するに驚愕と失望であろう。
「朝食にしますか」
妻はこの事実を忘却しようと、勝手元へと急いだ。私は妻の背を追うようにしてついて行く。私は口供した。妻は私に背を向けた儘、首を振って卓上に朝食を並べた。白米に、昨日とは具材の違う味噌汁。そして私の好物の鰤大根。
「鰤大根……」
私の涙腺が仄かに緩んでいるのが解った。だが、落としてはならぬ涙というものがある。私は手を合わせて「いただきます」と言い、真先に鰤へと箸を入れた。
「昨日、魚屋さんで安かったんです。大根は庭でとれたものです」
妻はそう言い残して、洗面所へと行った。
「食べないのかい」
そう尋ねれば、
「洗濯を終えてからにします」
妻はそう言った。




