十一
夕飯が出来た、と謂う妻の声が私の鼓膜を震わす。私は重い腰を徐に持ち上げて、書斎から階下へと向かった。
卓袱台には烏賊の山椒風焼きを始めとし、白米や味噌汁、茄子の揚げ浸し等の料理が体裁よく並べられている。赤味噌の少し密な匂いが鼻腔の微弱な動きを生じさせた。私は箸を手に取る。気付けば朝方に少し、彼女と邂逅する以前に軽食を口にした程度で、その後には一切の飲み食いをしていなかった。腹の虫が旺盛に音を轟かせている。私は腹を抑えて照れ隠しをすれば、妻は温和な笑みを掌で隠していた。私が食事にしようと言うと、彼女は笑声交じりに「はい」と言って箸を手に取り、味噌汁を啜った。羞恥が私を押し潰した。
お隣の三陸海岸で採れた若布ですよ、妻は唐突に若布の産地を明かして、箸でそれを取って口にした。それに続くように私も若布を取って口にする。正直なところ産地が何処であろうと、私には味の差異がよく解らないが妻はその点を八百屋や魚屋の主人に頻りに尋ねて、自分の納得いくものだけを買ってきた。小難しい性分であるが、そこが私と妻の共通の要素であり、それがあるからこそ今も尚、円満な夫婦生活が長続きしているのだろう。思わず笑ってしまった。
妻は私に微笑の動機を尋ねたが、私は曖昧な語句を並べて誤魔化した。
味噌汁の濃密な味が妙に薄く感じられた。
妻は濃い化粧の跡が深々と残った眦を、勝手元の蛇口から流れる水に向けていた。少し億劫な風を醸す虚ろな瞳も、豊かにそれを掻き消す誇張した様が、何とも幼く、子供なのだなと思えてきて、晴朗な喜びを露わにし、私はてこてこと笑った。妻は咄嗟に私の方に一瞥をやり、当然の如くこの微笑の動機を尋ねたが、私はこれも又、曖昧な御託を並べて誑した。妻は些か不貞腐れたような面持ちを露骨に、また勝手元の蛇口に手を入れ始めた。それが一層に滑稽さを引き立たせ、黄ばんだ歯を剥き出しにさせて笑った。
「そういえば、便箋は開封されたのですか」
私の緩んだ頬が俄かに引き締まった。私はそれを根っから忘却していたようだ。私は便箋を開けることを何処かで必死に拒んでいた。
「後で、がいいかもしれない」
「急な要件だったらどうするんですか」
妻の言葉は正当で、非の打ち所がなかった。故に憤怒を覚えざるを得なかったが、これは私の一方的で利己的な感情の起伏でしかない。私は純粋に階段を上って、書斎の便箋の封を開けることにした。




