十
体を揺さぶられている、と感じた頃には妻の顔が目の前にあった。
「もう夕方の五時ですよ」
私は古蚊帳の中に布団を敷いて昏々と眠り続けていたようだ。目を無理に開けようとすると、何か沁みるような感覚に襲われるものだから、粗雑に目蓋を擦った。ふと妻の手元にある大きな袋の荷物が目に入った。
「あの最寄りの八百屋まで、今晩の食事の具材を調達していたところです」
「そうか。番茶を一杯、くれるかい」
「わかりました」
妻は立ち上がり、袋の荷物を後回しにして湯飲に番茶を注いで持ってきた。私はそれに息吹を吹きかけて、一口だけ啜った。朝方に口にした渋茶とは雲泥の差がつくくらいに、番茶の方が美味である。当たり前のこの美味しさに、私は玄妙な哀愁を覚えてしまった。照れ隠しに頭を掻く。
「ところで、御仕事のことを伺って申し訳ないのですが、あの御嬢さんはどんな方でしたか」
妻は唐突に朝方の彼女のことを訊きだした。私は口を紡いでいくつもりでいたが、別段隠すことでもないか、と俄かに心が屈折して、漏れ出すように喋った。
「実に謙虚であったよ。娼婦が増えていく中で珍しい風貌だったさ。まあ素封家の娘のようだから当たり前と謂えば当たり前なのかもしれぬが、それこそが彼女が安楽死を求めた最大の理由かもしれないな」
妻は神妙な面持ちで、頻りに相槌を打っている。私は言葉を継いだ。
「彼女は私と同じ座布団に座ることを拒んだよ。況して同じ畳に座ることにさえ躊躇を覚えたくらいだ。彼女はそれを無礼講と比喩した。些か誤用に想えたが、一々指摘する必要性も感じなかったから、私は彼女に慇懃講と返したさ」
「彼女はその後にどのような二の句を続けたのですか」
私は彼女の言葉に重ねるように返答しようとした。だが、そうは行かなかった。彼女が私の慇懃講にどのように返したのか、記憶を掘り返しても出てこないのだ。
「あれ……」
思わず私の口から情け深い言葉が洩れてしまった。妻は屈託のない顔で笑みを浮かべて、私の元から退いて行った。私の記憶に濃厚な霧が棚引いた。胸がつかえるような感覚が私を襲う。何と彼女は返したか。頭を二、三度叩いてみたが勿論、記憶というものは枝先の林檎の如く容易に落ちてくるような襤褸ではない。顔を顰めて思案しようとも、私の心の濃霧は晴れることはなかった。
嗚呼、備忘録。そのような爺臭い物が、そろそろ私にも欠かせなくなってきたのかと思うと、忸怩たる話で首筋が寒くなる想いに侵された。




