第4章 罪悪感と弱さ
※2011年7月10日 誤字脱字修正しました。
「……つっ」
目頭に痛みを覚え、厚志は目を覚ました。景色が傾いて見えたが、どうやら床に寝ているらしく、やけに床が近い。ただ、その割には側頭部に固い感触は無く、むしろ柔らかいくらいである。
(枕か何かか?)
美樹が気を利かせてくれたのだろうと思い、その柔らかな物体に触れてみる。だが、それは明らかに枕ではなかった。
「んっ……ぅんっ」
妙に艶めかしい声が聞こえた。しかも、枕だと思ったそれは触れるとビクリと震えた。
ここまで来るとさすがに厚志も気付いた。
どうやら今、膝枕をされているらしい。確かに寝てしまった大の大人を美樹が動かせる訳が無く。また動かせたとしても寝かせられる場所は埋まっている。仕方なかったのかもしれないが、何故膝枕なのかが分からない。
一度意識するとスカートのため直に当たる生温かい肌も、その中を流れる血液の音も妙に気になってしまう。
厚志が動こうかこのままでいるか考えあぐねていると美樹に動きがあった。
寝起き特有のとろんとした表情の美樹と目が合う。
「んん……あ、厚志さん起きたんだ」
「あ、ああ。おはよう」
動揺して変な答えをしてしまう厚志。今は採光用の窓から外を見るかぎり夜である。
「うん、おはよう」
美樹は気にした様子も無く、柔らかな笑みを浮かべて答えた。
その笑みに厚志の胸がドキリと跳ねる。頬も熱くなってきたので慌てて顔を背けた。
「よく寝れた?」
「あ、ああ……」
「そっか、よかった」
妙に大人びた雰囲気を出す美樹に戸惑いを覚える。厚志の印象では歳相応の少女だったのだが、今は母親を相手にしているような印象を受ける。
「っと、いつまでも膝借りてたら辛いよな」
「んーもうちょっとそのままでもいいよ?」
「……へ?」
まさかの答えに固まる厚志。
「なんか慌てる厚志さん可愛いしね~」
「……からかってるだろ」
「あはは、バレた?」
厚志が目線を美樹の顔に向けると、舌を出しておどけていた。
「もう起きる!」
「あーあ、残念」
勢いよく起き上がり、美樹から顔を背ける。おどけた美樹が可愛いと思い、顔が熱くなっているのを感じたからだ。気取られる訳にはいかなかった。男としても、大人としても恥ずかしかったからだ。
(意外と怖いなこいつ……)
小悪魔な一面に辟易しつつ、足が痺れたらしい美樹に手を貸して立ち上がらせる。
「ったく、大人をからかうなよな」
「んーまあまあ、気にしない気にしない」
「……はぁ」
肩をバシバシ叩いてくる美樹にため息しか出ない厚志。
ふと、今更思い出したかのように厚志の腹が鳴る。次いで美樹の腹も鳴った。
照れたように腹を押さえて、俯く美樹。膝枕を平然とする割には腹が鳴るのは恥ずかしいらしい。乙女というべきなのか微妙な所である。
「そういや昼食途中だったんだよな」
「そだね、もうあれから六時間以上経ってるし」
「は!? 六時間!?」
うん、と事もなげに頷く美樹。六時間も人の頭を乗せていたのだから痺れて当たり前である。
厚志は呆れつつ、美樹の行為に好感を覚えた。もしかしたらただ誰かの体温を感じていたかっただけかもしれないが、厚志の気持ちが軽くなったのは確かだった。
「ったく、その痺れた足でキッチンに立たれて怪我されても困るから俺が作るわ」
「うぅ……お願いします……」
まだ少し痺れが残っているのか、時折足をひくつかせる美樹に手を貸してやりながら一階に向かおうとする。
その前に確認しなければならない事を思い出し、美樹を待たせて廊下の突き当たりにある出窓に向かう。
(まだ大丈夫そうだな)
塀の外に群がるゾンビ達を見て、一安心する。まだ門を壊すまでには至っていないらしく、少し軋む程度に収まっていた。ただ、ここもあまり安心できる場所ではないのは確かだ。
いつ門が壊されるか分からないし、食料の問題もある。一年持つ分の食料や水があるならともかく普通の家なら一週間分あればかなり良い方である。
むしろ問題なのは電気や水、ガスといったライフラインだ。ライフラインは人間が管理している以上、安定した供給を維持するためにはどうしても人間が必要になってくる。しかし、人が人を襲い、襲われた人がまた人を襲う。そんな鼠算式に死人が増えている今、ライフラインを維持している人間にもすぐに被害が出始めるだろう。
自衛隊は有事の際はライフラインの確保と復帰を最優先に行う。国民の生活を維持するためだ。
だが、それでも限界は出て来るはずである。優先順位の関係で原子力発電所等はすぐに安全確保されるだろうが、動員できる人数の関係でどうしても切り捨てる物もあるはずだ。加えて自衛官とはいえあくまで人間、それが仕事だと割り切れず大切な人の元へ走る者も少なからずいるはずだ。
テレビでは情報を得られなかったが、恐らく政府高官は既に洋上空母や沖縄など感染者が来る可能性の少ない土地に避難しているはずである。ただ、それで国として『生きている』とは言えないかもしれない。
加えて、この地獄が果たして日本だけの事なのか分からない。もしかしたら世界中で起こっているかもしれない。
厚志はテレビを最後まで見なかった事を今更ながら後悔した。
「ま、あまり気にしても仕方ないか、今は目の前にいるあの子達を守るだけだ」
そんな事を独りごち、厚志はまだ階段で待っていた美樹の元へ向かった。
「どうかしたの?」
「いや、なんでもない」
不安にさせないように答えながら一階に向かう。
キッチンに行き冷蔵庫の中身を確認する。ようやく痺れが取れてきた美樹は近くの戸棚を探り、インスタントラーメンや缶詰を探す。
意外にも食品は多く、三人くらいならば一週間生き延びられる量の食材があった。ただ、インスタントラーメンはあまり食べる習慣がないのか、ストックされていなかった。ライフラインの事を考えるとあった方が助かるのだが贅沢は言えない。
厚志はなるべく消費期限の早い物から消費し、電気が無くなっても大丈夫そうな物は後に回す。
とりあえず肉ともやしを使い、簡単な炒め物を作る。ご飯は炊いてあったので、お椀によそい、居間に運ぶ。奇しくも香織の作った物と似た物になってしまったが、材料の関係で仕方が無い。いくら量があるとは言っても計画的に使用しなければすぐ無くなってしまうからだ。
「よし、こんなものかな」
「うわー厚志さんって料理できるんだ」
「んーまあそれなりには、寮は飯出るからな、たまにしか作らないから味は保証しないぞ」
「私が作るよりは絶対マシだよ、うん」
美樹は何故か誇らしげに腕を組んで頷いた。
「……女子としてそれはどうなんだ」
「今は主婦ならぬ、主が夫と書いて主夫の時代なのだよ」
「……はあ」
「うわ、何そのため息!?」
「別に……とりあえず飯食うぞ」
厚志の大きなため息に食いついて来た美樹をいい加減になだめ、テーブルにつく。一応香奈の分を含めて三人分の皿が並ぶ。
「香奈ちゃん呼んで来て、食べたくないってごねるかもしれないけど、食べられる時に食べないといつ食べられなくなるか分からないから」
「ん、わかった」
美樹が二階に向かったのを見て、厚志はため息を吐く。ついさっき――といっても六時間前だが――あんな事があったのだ、なるべくならば顔を合わせたくはない。だが、今は緊急事態である。自分の都合を押し付けるわけにはいかなかった。
「ほら、今は食べないと……」
「……」
階段を下りて来た香奈はかなり雰囲気が変わっていた。柔らかく、誰もが癒されるような和やかさは無く、憔悴しきり、ただ憎悪によって生き永らえているような雰囲気が漂っている。
香奈は厚志を一瞥したが、まるでそこに何も無いかのように視線が素通りする。厚志も見ていられなくなり、視線を逸らした。
言いようの無い空気が居間を包み込む。
「……と、とりあえずご飯食べよう。ねっ?」
「あ、あぁ……」
何とか居間に流れる暗い空気を吹き飛ばそうと美樹が無理矢理笑って声を出す。厚志もなんとか返事をした。だが、香奈は特に反応せず、テーブルについた。
暗い空気が全く拭えぬまま食事は続いた。
「……」
「……」
「……」
三人が三人とも何も喋らず食事をしているため、外の感染者達が出す呻き声や壁を叩く音がやけに大きく聞こえた。それがさらに厚志の気分を落ち込ませる。
「……藤堂さん」
「は、はいっ!?」
突然香奈に名前を呼ばれ、傍から見れば笑えるほど飛び上がる。何とか声をかけようと悶々と考えを巡らせていた時に不意打ちされたため、異常な反応になってしまった。
とりあえず厚志は動揺で荒くなった息を調え、香奈に向き直る。
「……外の……」
厚志は黙って香奈の言葉を待った。勇気がいる言葉なのだろう、正座した膝の上に置かれた手が白くなるほど握られる。
香奈は何度か詰まりながら、言葉を続けた。
「……外の人達の事を知ってるんです……よね?」
「……ああ」
「なら、詳しく教えてください。私は……お母さ―――母の分も生きなきゃいけないですから」
感染者達の事を知るという事は必然的に香織の死に話が及ぶという事だ。厚志が実例を交えて話す上で、唯一の実際に『見た』感染例は和臣だけである。噛まれたらしい傷を持った感染者は外を見れば沢山居るが、実際に感染し、感染者になったのを見たのは彼なのである。という事は和臣に噛まれ、死んだ香織の話もしなければならない。
香奈がどれほどその話を聞くために自分を奮い立たせたかは厚志には分からない。
厚志は香奈の強さに感服し、逃げようとさえ考えていた自分を恥じた。
「わかった」
厚志は自らも覚悟を決め、頷いた。
「あくまで俺の推察を含むが……それでもいいか?」
「……はい」
「なら、まず感染経路からだ」
香奈が頷くのを見て厚志は感染者に対する推察を話し始めた。
まず外の感染者は、死人に間違いない事を前提として話した。
感染経路は分かっているのは一つのみ。それは感染者に噛み付かれた場合だ。これは初めに説明はしていたが、それはあくまで映画やゲームなどからの情報で予想でしかなかった。しかし、ニュースや和臣のケースを見れば明らかだった。
映画にもあるように感染者に噛まれれば、致命傷で無くともやがて死に至り、感染者として復活する。もしかしたら、噛まれなくとも引っ掻かれたり、奴らの体液が体内に入るだけでも感染者になるかもしれない。
それは人としての『死』であり、感染者としての新たな『生』なのかもしれない。だが、感染者は人を喰らう。人が生き残るためには感染者を他人、友人、家族関係なく殺さなければならない。
感染者を『殺す』。唯一の方法が頭を潰す事だ。むろんゲーム等にあるように頚椎の破壊やナイフなどで脳を刺しても大丈夫かもしれないが、今の所確実に倒せる事が分かっているのは潰す事である。
「ここまでが今分かっている感染者の簡単な情報だ」
「……」
美樹と香奈は押し黙り、厚志の言葉を聞いていた。美樹はまだ元々持っていた知識や実際に倒した経験があるため、見た目に変化は無いが、香奈は眉をひそめ唇をきつく結んでいた。
この後話さなければならない事を考えると厚志は気が重かったが、話さないわけにもいかないため続けた。
「感染者になった奴はもう家族でも友人でもない……ただの人を喰う化け物だ」
「……っ」
香奈の身体がビクリと震える。美樹が彼女に近寄り、抱き寄せる。
美樹がもう話さない方がいい、と目で訴えていた。だが、厚志は続けた。
「たぶんここにずっとは居られない。近いうちにここより安全な場所に行くために出ていかなければならない。もし移動中、俺や美樹が噛まれたら即座に頭を潰せ、いいな」
「……」
美樹が仕方が無いな、と呆れた様子で肩を落としていた。彼女は、厚志は相手が死んでからでしか殺せない事を知っているから呆れているのだ。
自分が出来ない事を人にしろなどおこがましいのは分かっていたが、厚志は自分のやり方がどれだけ危険か分かっていた。だから香奈には危険な事をさせるわけにはいかなかった。もちろん今の言葉は美樹にも向けて言っていた。美樹なら理解できるだろうという信頼を持っているから厚志は明確には告げなかった。
(全く、十歳近く離れてる子なのにな……責任を押し付けているなんて)
厚志は自嘲しながら香奈を見た。
香奈は美樹に抱きしめられたまま黙っていた。見れば握り締められた手が震えている。
それもそうだろう。たかだか十六歳の高校生の、それもついさっき母を亡くした子に、今度はいざという時は親友を殺せと言っているのだ。受け入れられるわけがない。
「……それは……人として……死にたいからですか」
「……ああ、そうだ」
「……なら、母は……母は人として……死ねましたか?」
「……」
香奈の質問に厚志は押し黙る。確かに感染者として蘇る前に頭を潰したため人として死ねたかという問いの答えには頷く事が出来る。ただ、厚志の我が儘で死ぬのを待ったため、本当に人として死ねた―――とは断言出来なかった。
厚志が俯き黙っていると、香奈が口を開いた。
「すいません。意地悪な質問でしたね。母が人として死ねたのはあの顔を見ればわかります」
「……え?」
厚志が顔を上げる。
「さっき、戻ってくる前に香奈がどうしても見たいって言うから香織さんの部屋にいったの」
「……そう、だったのか」
確かに弔うために綺麗に整えたのは事実だが、はっきり言って厚志の自己満足以外の何物でもない。自分が救えず、殺すしかなくなってしまった。その罪悪感を少しでも拭うための行為だ。
香奈の目にどう映ったかは分からないが、厚志は後ろめたさから香奈の顔を真正面から見ている事が出来なくなり、視線を下に向ける。
「……藤堂、さん」
「……」
「ありがとう……ございました。母を人として……母として送っていただいて」
「……っ!?」
厚志は香奈の言葉に驚き、視線を戻した。
香奈は美樹から離れ、涙を流し、厚志を見ていた。そして、頭を下げた。
「そんな……俺は君にお礼を言われるような事はしてない!!」
厚志は思わず叫んでいた。
「いえ、さっきは取り乱しましたが、今の話を聞いて分かりました。確かに気持ちの整理はつきませんが……それでも、言わせてください。母を死後も救ってくれてありがとうございました」
「違う、違うんだ! 俺はただ、守れなかった罪悪感を拭うためだけに……殺して……その事実を認めたくないから、弔ったみたいに見せ掛けただけだ!! いつもそうだ俺はいつも守れない! あの時だって、今回だって!!」
八つ当たり気味に叫ぶ。だが、香奈はただ真っ直ぐ厚志を見つめる。
「藤堂さんがどう思ったかは知りません。『あの時』というのも知りません。ただ、私は母の死に顔を見てお礼を言いたかっただけです」
「……だがっ」
「いいんです。私は藤堂さんをまだ許せません……ですが、母があなたによって救われたのは事実です。私では、母を……母を救えなかったはずですから……」
溢れる涙を拭い、香奈は無理矢理に笑い、言った。
「ありがとう……ございました」
最後のお礼だというように、香奈は深々と頭を下げた。
「すまない……すまないっ!!」
厚志は自らも涙を流しながら、謝った。
救えなかった香織達に、母を守ってやれなかった香奈に、そして弱い自分を恥じて謝った。
香奈は強い。母の死を乗り越えきれてはいないかもしれないが、乗り越えために立ち向かっている。
そんな強さを感じ、厚志は涙を流し、美樹に香奈共々抱きしめられるまで謝り続けた。