第20話 目覚めと後悔
「厚志君、この子が私の妹の里緒よ」
「は、初めまして……よろしくお願いします……」
厚志の前に立ち、お辞儀しているのは篠部未果の妹の里緒である。未果と付き合い初めて半年が経ち、たまたま就職活動のためにこちらに来ていた妹を紹介したい、と呼び出されたのだ。
快活で、誰とでも仲良くなる事の出来る未果とは真逆の印象を受けた。姉と同じ茶の髪を肩で切り揃えているが、眼を覆い隠すほどの前髪が暗い雰囲気を作り出している。前髪に隠れてちゃんとは見えないが、眼は忙しなく動き、厚志と合わせようとはしない。少し猫背気味の姿勢のせいで、余計に暗い印象を受けてしまう。
「俺は藤堂厚志、よろしく」
「~~~っ」
握手をするため手を差し出した。だが、里緒は中々その手を取ろうとしない。
姿勢を正し、前髪を切れば十分美人と言えるはずの整った体と顔を持つ里緒は、視線に耐えられなくなったように未果の背中に隠れてしまった。
「あ、こら! 何で隠れるのよ!」
「んー、嫌われたかな……?」
厚志は苦笑しながら、握手される事なくさ迷った右手で頬を掻く。
「全く、この子は昔から人見知りなのよ……それも重度のね。私以外の誰とも仲良くしようとしないの」
「そうなのか」
「はぁ、こんな状態で本当に就職できるのかしら……」
ため息を吐きながらも里緒の頭を撫でる未果の顔は、穏やかなものだった。本当に仲が良いのだろう、撫でられる里緒の表情は、先程とは打って変わって緩み切っていた。
「まぁ、こんな妹だけど仲良くしてね」
「当たり前だろ、未果の家族なんだから」
「それもそうね」
穏やかな笑みを浮かべる未果に釣られて、厚志も笑顔を浮かべた。
未果は周りを穏やかな気持ちにさせる女性なのだ。何がそうさせている、というのは明言できないが、少なくとも厚志は、彼女といる事でどんなに荒んだ気持ちも和らぐのを感じていた。そんな天性の母性のようなものを持っていた。
未果の周りには常に人が集まっていた。男女とわず人気があり、噂では非公式のファンクラブがあるらしい。そのため厚志が未果と付き合い始めた頃は、よく嫉妬と羨望の混じったやっかみを言われていた。
「これからよろしくね」
「…………っ」
未果の身体に隠れながら厚志を伺っていた里緒に微笑みかける。だが、やはり人見知りする彼女はすぐに隠れてしまった。
それが、彼女―――篠部里緒との初めての出会いであった。
◆ ◆ ◆
「っ、……ここ……は?」
厚志は呻き、瞼を上げた。
途端に眼を焼くような光に瞼を閉じた。しばらくそのままじっとして光に慣らせ、瞼を開く。
光は、どうやら窓から挿す太陽光らしい。何故かカーテンが閉められておらず、日の光がそのまま厚志に降り注いでいる。
厚志は状況が理解できず、寝ぼけた頭のまま起き上がろうとした。途端にうなじの辺りに鋭い痛みが走る。
「……っ!?」
痛みに呻きながらも起き上がり、状況を確かめようとする。
厚志が寝ていたのは、それなりの反発力を持ったシングルベッドだった。しっかりとかけ布団もかけられている。
「……? ここはどこだ?」
自分の部屋でない事は、一目見て分かった。厚志が日課の筋トレをするためにいつもテーブルの上に置いてあるダンベルは無く、代わりに旅行雑誌等が雑然と広がっている。
それ以前に間取りが違う。六畳も無い寮の部屋に対して、この部屋は軽く八畳を超えている。家具や雑貨も見覚えの無い物ばかりである。
自分が置かれている状況が理解できず、厚志が呆然としていると、ドアがガチャリと音を立てて開いた。開いたドアの向こうにいたのは、お盆を持った美樹だった。
「あ、厚志さんおはよう!」
「……美樹……あ、ああ、おはよう」
元気よく挨拶する美樹に、戸惑いながら挨拶を返す厚志。彼女は笑顔で頷くと、部屋に入って来た。そのままテーブルの脇に腰を下ろすと、テーブルの上に陣取っていた旅行雑誌は、おおざっぱに脇に追いやった。一通り脇に追いやると、お盆に乗っているサンドイッチが並んだ皿や、紅茶が入ったカップを並べていく。
「ほら、朝ご飯だよ! 食べよう厚志さん」
「……あ、ああ」
流されるままにテーブルに着き、食事を始める。
サンドイッチは、オーソドックスな卵にハムとレタスを挟んだものから、妙に凝ったコロッケ等もあった。紅茶も澄んだ香りが鼻をくすぐり、味もよかった。
「おいしいよ」
「ん、ありがと」
柔らかく笑う美樹に釣られて、厚志も笑った。
「……そういえば、多田や香奈ちゃん達は?」
「ん? ふぃんなふぁふぁりへーほをふんへるほ」
「…………ちゃんと口の中の物を飲み込んでから喋ってくれ」
「あ……ほへん」
美樹は、紅茶で口一杯にほうばったサンドイッチを飲み込んだ。
「ほら、パンくずがついてる」
小さい子供みたいにパンくずを口の周りに付けた美樹に呆れながら、厚志は指で拭き取った。途端に顔を赤く染めて、美樹が慌てた。
「あ、ありがと……多田さん達は今バリケードを作ってるんだよ」
「バリケード?」
「うん、ここはそれなりに高い塀があるんだけど門があんまり頑丈じゃないから補強して、バリケードを組むんだって。香奈と私は食事担当なの」
紅茶を口に含みながら、美樹が答える。どこか他人事のように言っているのは、恐らく力仕事を任せてもらえなかったからだろう。
「……そうか、ところでここはどこなんだ?」
「えっと……ここは、あの寮から少し離れた所にある家だよ」
「……寮から……」
厚志はまだ痛むうなじに手をやり、ここに来た経緯を思い出そうとした。
スーパーで助けた少年―――大介が厚志を助けるために噛まれ、それでも連れて行こうとした所までは思い出せた。だが、それより後に何があったのかが思い出せない。
「美樹……大介君が噛まれた後、どうなったんだ? 何故か思い出せないんだ……」
「えっと……それは―――」
「大介は死んだよ、俺達に迷惑をかけないためにな」
どう答えていいか分からない様子の美樹の代わりに答えたのは、多田だった。バリケード作成は終わったようで、作業で汚れた服のまま部屋に入って来た。
「……どういう……ことだ」
「そのままの意味さ、大介はこのまま俺達に着いて行っても迷惑をかけるだけだからって手榴弾を持って感染者の中に突っ込んでいったよ」
「な……何で止めなかったんだ!!」
「止めるわけがないだろう、実際奴は噛まれていた。着いて来られても迷惑だ、むしろ走れば十分逃げられたにも関わらず手榴弾を消費してしまった……まあ、囮位にはなってくれ―――」
ゴキィッ、と鈍い音が部屋に響いた。
多田の言葉に堪えられなくなった厚志が飛び掛かり、殴ったのだ。多田は少したたらを踏んだが、すぐに姿勢を直し、厚志の眼を真っすぐ見た。
「多田ぁ! 何を言ってるか分かってるのか!!」
「ああ、奴は無駄死にせずに済んだって事―――ぐぅっ」
多田の言葉を遮るようにもう一度厚志は殴った。
「あ、厚志さん止めて!!」
さらに殴ろうとした厚志を止めるために、美樹が腰に飛び付いた。厚志の力なら振り払うのは簡単だったが、さすがにそんな事を出来るはずが無く、息を吐いて自らを落ち着かせた。
「多田……もう一度聞く、本当にそう思っているのか?」
「…………ああ」
殴られた際に口の中を切ったらしい多田が、口の端から流れる血を拭いながら答えた。
厚志はそれ以上何も言わず、美樹を柔らかく剥がすと、多田に背中を向けてベッドに戻った。離された美樹はどうしていいか分からない様子で、オロオロと二人を見ていた。
「それだけ元気ならもう心配いらないよな。正午になったら下りてこいよ、これからの事を話さなきゃならないんだからな」
「…………」
多田は、何も答えない厚志に肩を竦めると、美樹に目配せをして出ていった。シンと静まり返った部屋で、厚志は拳を握っていた。
「あ、あの……厚志さん……」
「すまない、少し一人にしてほしい」
「わ、分かった……ちゃんとお昼には下りて来てね」
「……ああ」
気を遣ってくれた美樹には申し訳なかったが、今の厚志にはまともな反応は出来なかった。
自らが一度は救った少年を見殺しにした事。多田がそんな少年を見殺しにした事。それが頭の中でグルグルと渦を巻き、まともに思考できなくなる。
同時に、大介が噛まれていたのだから多田の対応が間違ってはいない事は理解できていた。だが、頭では理解できても、厚志の心が納得できなかった。
美樹達を危険に晒したくないという思いと、噛まれたとしても『人間』を見殺しにしたという後悔が、厚志の中で溶け合う。
考え過ぎぎで頭が痛くなり、ベッドに横になる。すると眠気が緩やかに訪れ、厚志は特に抗う事なくそれを受け入れた。
すでにバリケードに感染者が集まっているのか、バリケードを叩く音が妙に耳に触った。
◆ ◆ ◆
部屋の中は、ギスギスした空気に包まれていた。バリケードを叩く音が響く度に、皆は身体を震わせる。
「……だから最初に出ていればよかったんだ」
右腕にギブスを巻いた男が、忌ま忌ましそうに呟いた。だが、その言葉に答える者はいない。
ここは病院の食堂である。街の近くにある、山の麓に建てられた病院の、二階の端に二十畳ほどの広さを確保して、最近作られた食堂だった。
だからこそ、他の部屋よりも頑丈で、なおかつ食料が確保できるここに生き残った者達は隠れていた。
(お姉ちゃん……)
胸元のロケットペンダントを開き、篠部里緒は中に納められた写真を見た。写真には里緒と同じ茶の髪を~した、見る者を朗らかな気持ちにさせる笑みを浮かべた女性が写っていた。
写真の女性は、里緒の姉の篠部未果である。里緒は未果の笑顔を見て、叫び出しそうな恐怖が薄らいだのを感じた。
少し冷静になった頭で今の状況を整理した。
食堂のドアは自動ドアではあるが、何故かあるシャッターを下ろせば、かなり頑丈で、当分は壊れそうにない。食堂にいる十人ほどの生き残りの中で、病院関係者は三人しかいなかった。
死者が生者を襲う。そんな謎の奇病が発生した当時は、百人ほどの医師と看護師がいた。
街でも有数の設備と施設を持つ、この伊山病院には続々と怪我人が運び込まれた。指先を怪我したという軽傷から、頸動脈を引き千切られている瀕死の怪我まで多種多様であった。だが、皆人に噛み付かれたような傷痕であった。
地元のテレビ局すら駆け付ける事態に、ただ事ではないと感じた医師達は受け入れ先を募った。この時点で伊山病院の治療室は一杯であり、待合所で治療をし始めるほど怪我人で溢れ返っていた。だが、近隣の病院も似たような状況らしく、受け入れ拒否すら始めている病院も出始めていた。
事態が急変したのは、待合所で治療を受けていた重傷者が死亡した後だった。あまりの怪我人に対処が追い付かなくなって来た時、それは起こった。
死亡した患者の目を閉じさせ、医師が次の患者に取り掛かろうとした次の瞬間、患者が起き上がり、医師に噛み付いたのだ。その患者は医師を噛み殺すと、近くにいたテレビ局のリポーターに襲い掛かった。
後は阿鼻叫喚の大惨劇が起きるだけだった。噛み殺された医師が起き上がり、逃げ遅れた看護師を襲い、先に運び込まれていた患者が同じように死した後、起き上がり医師に襲い掛かる。ネズミ算式に増えた感染者は、瞬く間に病院内に溢れ帰った。
里緒達が何とか食堂に逃げ込めたのは、奇跡に近かった。たまたま切れた注射針を取りに行って戻った里緒は、医師が襲われたのを見て、逃げ出したのだ。それが返って彼女を助けた。
あまりの患者数に、入院している中でも動ける者を移動させていた看護師達と合流でき、事情を説明し食堂に篭ったのだ。もちろん看護師の中には里緒の意見に反発し、助けに行くと息巻いて待合所に向かった者もいた。それを見てどうするべきか迷っていた者もいたが、しばらくして待合所に向かった看護師の悲鳴を聞いて篭城を決めた。
里緒もそうだったが、他の者達もすぐに救助が来ると思っていた。だが、二日目にテレビが映らなくなり、ラジオもノイズしか走らなくなった辺りで、救助は見込めない事に気付いた。それでも何人かは救助が来ると信じていたようだが、五日目にもなるともはや誰もそんな希望は言わなくなった。
(このままここで死ぬのかな……)
里緒に頭を預けるようにして寝ている同期の看護師―――笹山こずえを起こさないようにしながら、彼女の寝顔を見た。
こずえは見た目は地味な女性だった。どこにでもいる普通の顔立ちに、肩で切り揃えた黒髪と同色の瞳。中肉中背で高くもなく、低くもない背丈。
そんなどこにでもいる女性だが、里緒は何故か彼女に姉と同じ雰囲気を感じた。この病院に看護師として就職し、唯一プライベートでも付き合いのあるのがこずえだった。
(他はどうでもいい……こずえだけは……失いたくない)
そんな考えが頭に浮かんだ瞬間、廊下に続くドアが叩かれた。また感染者がやって来たのか、と皆が眉根を寄せた。
「な、何!?」
ドアを叩く音に驚いたこずえが目を覚ました。どうせ感染者だと思っていた里緒は宥めようとした。だが、何かを言う前にドアの向こうの『誰か』が声を上げた。
「た、助けてくれ!!」
今の所あの奇病に冒された者は、唸るような声は上げるものの、言葉を話す者はいなかった。それはつまり、今ドアの外にいる者が生存者である事を示していた。
「あ、開けてくれ! 息子がいるんだ!!」
「お父さん、来たよ!」
変声期前の男の子の声が聞こえた。どうやら息子がいるというのは嘘ではないらしい。しかも、男の声を聞き付けた感染者がやって来ているらしい。
「い、今開けます!」
こずえがいち早く反応して、シャッターの開閉装置に向かった。それを阻むように、食堂内に散らばっていた生き残った者達が開閉装置の前に集まった。
「ど、どいてください! 早くしないと彼らが!!」
「駄目だ、ここを開ければ外にいる化け物が入って来るかもしれない。あんたらもそう思うだろう?」
生き残った者達の中で一番年老いた男性が、開閉装置に集まらなかった里緒と男性医師に向けてそう言った。こずえは信じられないものを見たような表情で里緒達に顔を向ける。
医師は苦虫を噛んだような表情で俯き、里緒もどう答えていいか分からない表情で立ち尽くしていた。
「早く開けてくれ!! せめて息子だけでも中に入れてくれ!!」
切羽詰まった男の声が食堂に響く。
「早くそこをどいて! 貴方達は自分が助かればそれでいいの!?」
こずえの言及に誰も答えない。ただ俯いたり、視線を逸らしたりしているだけだった。
「早く!!」
いよいよ危機迫った様子の男が、一際強くドアを叩く。
(……皆の視線はこずえに集まっている……今だ!)
感づかれないためにゆっくりと壁際まで移動していた里緒は、生き残った者達の意識が完全にこずえに向いているのを確認すると、開閉装置に向けて一気に走った。数メートルの距離だがやけに長く感じる。
「こずえ、早く!」
生き残った者達が反応する前に開閉装置に飛び付き、里緒は『開』のボタンを押した。里緒の動きに気付いたこずえは、ドアに向かって走り出す。
「この隙間から早く中に!!」
素早くドアを開け、少しだけ上がったシャッターの隙間から手を差し出す。
「優太、先に行きなさい!」
「でも……お父さんは?」
「後から行くから早く行きなさい!!」
シャッターを向こうでの親子のやり取りを聞きながら、里緒は焦っていた。シャッターは、大人でも俯せになったらギリギリ通れるくらいで止めてある。それ以上開けば、感染者が入って来るまでに閉められない可能性があるからである。
シャッターの隙間から見える感染者達は、男のすぐ背後まで迫っていた。優太と呼ばれた男の子がシャッターを潜り、こずえが抱き抱える。
「お父さんも早く!」
「駄目です! 私が通っている間に奴らがたどり着いてしまう。それだとせっかく助けていただいた優太が危険になる……閉めてください!」
「だ、駄目です! 早く中に!!」
「早く閉めて! 妻だけでなく息子まで失いたくない!!」
里緒は、足を潰されたのか、元々怪我していたのか分からないが、元は中年男性であったろう床を這って進む感染者の存在に気付き、『閉』のボタンを押した。軋んだ音を立ててシャッターが降りていく。
「里緒!?」
「床を這っている奴がいたの、このままだと潜り込まれる……」
「でもっ!」
こずえがそれ以上何かを言う前に、シャッターが一際大きな音を立てて閉まった。
「ありがとうございます。優太……強く生きろ!」
「お父さん!!」
「来るなら来い! うおぉぉぉぉぉぉ!!」
掛け声と友に、シャッターの向こうから何かを叩き潰すような音が数度響いた。やがて、その音も無くなり、生々しい咀嚼音が聞こえてくるだけになった。
父親は最後まで悲鳴を上げなかった。それは息子に恐怖を与えないためだったのかもしれない。優太もそれが分かっているのか、こずえに抱きしめられたまま、涙を流しながらじっとシャッターを見詰めていた。
「…………」
その場にいた誰一人として、喋る者も動く者もいなかった。
やがて、再びシャッターが叩かれ始め、ようやく皆が思い思い集まり座り込んだ。里緒は気まずさを感じながらも、ドアを施錠して、優太を抱いたまま窓際に座ったこずえの傍に腰を下ろした。
こずえは静かに泣く優太を宥めていたが、しばらくすると寝息が聞こえて来た。
「……ありがとう」
「え?」
「里緒がシャッターを開けてくれなければこの子すら助けられなかった」
「……そんな、私は父親を見殺しにした……」
「確かにそうだけど……この子には悪いけど、私は一人でも救えてよかったと思う…………もちろん父親を救えなかった事は納得は出来ないんだけどね」
そう言い、こずえは涙を流したまま微笑んだ。その姿に里緒は涙を流した。
「ごめんなさい……」
「謝らないでよ……私だって一人なら何も出来なかった。里緒がいてくれたから、今も正気でいられるんだから」
「……私もこずえがいるから―――」
里緒の返事を遮るように、けたたましい電子音が食堂内に響いた。
「こ、これって……もしもし……そ、そうか無事なのか!? あ、ああ……こっちは病院で立て篭もってるんだ……ああ、ああ……絶対に帰るから……待っててくれ……ああ、愛してるよ」
右腕にギブスを巻いた男が、涙を流しながら携帯電話を切った。
「お、おい、繋がったのか!?」
「ああ、妻が……家で立て篭もって待ってるって」
「で、電話を貸してくれ! 家にかけてみる!!」
生き残った者達がそれぞれ携帯電話を取り出しながら電話をかけ始める。理由は分からないが、回線がパンク状態で繋がらなかったはずの電話がかかって来たらしい。
病院は非常電源を確保してあったため、立て篭もった後、数日だが電気は確保できた。その間に、たまたま充電器を持っていた者に、規格が合う携帯電話を持っていた者が充電させてもらっていた。そのため、ギブスの男や里緒を含めた数人は、まだ携帯電話を使える状態にあった。
「里緒、かけないの?」
「…………」
里緒は誰にかけるか迷っていた。母親はすでに他界し、姉である未果もいない。ちらりとある男性の影がちらついたが、頭を振って掻き消した。
(あの人には頼りたくない……)
しばらく迷って、里緒は高校時代から付き合いがあり、家がこの近くの友人に電話をかける事にした。