幕間 あの頃のままの笑顔で
厚志達と別れたあとの康太と奈穂の話です。
状況が状況ですので、ハッピーエンドではありません。
前話の終わり方が良かったという方は読み飛ばしていただいて結構です。
「…………行ったな」
走り去るトラックを見送り、康太は隣に立つ奈穂に顔を向けた。
「……うん」
頷く奈穂の顔色はあまり良くない。すでに出血も治まり、まるでもう問題ないように見える。だが、ウイルスなりなんなりが確実に奈穂の体を蝕んでいるのは確かだった。
「戻ろう」
「……うん」
いつも柔らかな笑みを浮かべていた奈穂は、疲れたような、渇いた笑みを浮かべていた。何故そんな風に笑うのか分かる康太の胸は直接手で掴まれたように、ギュッと締め付けられた。
簡単にバリケードを直して事務所に向かう。感染者は大きな音を出し、多数の人間を乗せたトラックを追って行ったため、まず侵入される事は無いだろう。
それでも、これからする事を邪魔されたくなかった。
事務所は血まみれのため奥の更衣室兼仮眠室に向かう。先程奈穂が寝ていた布団を座布団代わりに座る。
「食べる?」
「……ああ、貰うよ」
厚志達が急いで逃げたため、スーパーには大量の食糧があった。そんな中から奈穂はわざわざおはぎを持ってきていた。
昔から康太が好きな物だ。祖母が作ったおはぎを奈穂と二人で食べるのがほとんど習慣になっていた。
甘過ぎず、柔らか過ぎない祖母のおはぎをよく二人でねだった。たった十年前の事が、遠い昔の事のように感じる。
「おいしいね」
「……ああ」
売れ残りらしいおはぎは祖母のものほどではなかったが、美味しかった。案外スーパーも捨てたものじゃ無いと思うほどに。
「けほっ」
「! 大丈夫か!?」
「大丈夫大丈夫、ちょっとむせただけ」
「そうか、とりあえず水でも飲んでおいたほうがいいな」
そう言うと康太は立ち上がろうとした。だが、奈穂に袖を掴まれ、また腰を下ろす。
「ここにいて」
「…………分かった」
康太は諦め半分に頷いた。泣きそうな奈穂などいつ以来だろうと思い、まじまじと見てしまう。
「こんな風に二人っきりになるのは久しぶりだな」
「うん、いつもは信二君や沙苗達がいるからね」
「……そうだな」
康太は渇いた笑いしか浮かべられなかった。つい先程その友人達は死んだ。いや、死んでいたのだから死んだというのは可笑しいのだろうが、本当の意味で死んだのだ。
チャラチャラしながらもなんだかんだ康太達と付き合っていた信二。彼にくっついて友人になった沙苗。恐らく奈穂は知っているだろうが、康太は二人の最後を聞こうとは思わなかった。
「芦谷には悪い事したな……」
「……そうね、あの子康太が好きだしね」
「…………は?」
「やっぱり気付いてなかっんだ……」
奈穂は頭を振り、深いため息を吐いた。
「あんだけ好き好きオーラ出してて気付かれないなんてあの子も可哀相だな~」
「…………うっさい」
ケラケラと笑う奈穂にふて腐れる。こうして見るともうすぐ死んでしまうとは思えない。康太はもうすぐ見られなくなるその笑顔を焼き付けておこうと、じっと見つめる。
二人の時しか見せない意地悪な笑み。普段お姉さん然として皆のまとめ役をしている奈穂は本当は子供っぽいのだ。しかし、そんな裏の顔を知るのは康太と奈穂の家族だけだった。
だからこそ、余計にいつでも思い出せるように、それこそ死んでも思い出せるようにじっと、じっと見詰めた。
「ちょ、ちょっと見過ぎよ!」
「別に減るもんじゃないしいいだろうに……」
顔を反らした奈穂に視線を向けているとボソリと呟いた。
「だって二日もお風呂入ってないし、お化粧もしてないから」
「…………くだらないな」
「く、くだらないってなによ! 私はいつもいつも気にしてたの……ゲホゲホッ!」
「っ! 大丈夫か!?」
いきなり咳き込んだ奈穂の背中を慌ててさする。だが、咳はなかなか止まらず、たんが絡まったような嫌な咳に変わっていく。
十数回ほどで咳は何とか止まった。
奈穂が口に当てていた手にはべっとりと赤黒い血が付いていた。
「ゲホッ……ごめん…………もう駄目かも……」
「…………ああ、無理するな」
康太はなるべく楽になるようにと奈穂を布団に寝かせ、自分は壁を背もたれにした。すると、奈穂が起き上がり、康太の隣に同じように壁に背中を預けて座った。
「寝てろって」
「嫌よ……今だからこそ……甘えたいのよ」
「……分かったよ」
康太は奈穂の頑なな雰囲気に負けを認め、やりたいようにやらせる事にした。今がチャンスとばかりに奈穂は康太の肩に頭を乗せた。
「ねぇ……そういえば……ずっと私と……一緒だったから見た事……無かったけど、あんた…………彼女とかいないの?」
「は? いきなりなんだよ」
「だから……彼女とかいないのかって……聞いてんの……」
ちらりと奈穂の方を見ると、バッチリ目が合った。思わず顔を逸らしてしまう。いつの間に見ていたのか分からないが、奈穂の目は真剣なものだった。茶化しているのではなく、本気で聞いているのだろう。
康太は気恥ずかしさから頬を掻く。
「…………いないよ」
「……え?」
「いないって言ってんの!」
「……そっか…………全く、康太は……私がいないと彼女も……作れないの?」
「そもそもずっと一緒にいるんだからお前が気付かない訳無いだろうが! そういうお前はどうなんだよ…………彼氏とかいないのかよ」
康太は尻すぼみになりながら聞いた。少し怖かったのだ。ここでもし、奈穂に「いる」と言われたらどう反応していいか分からなくなる。
「…………いないよ。いるわけない……じゃん」
「そ、そっか……」
「そうだよ…………私が……好きなのは今も…………昔も……康太一人……なんだから」
奈穂が搾り出すような声で言う。
康太は「いない」と言われただけでホッとしていた。だから、奈穂の告白は聞いてなかった。
「ん? 何か言ったか?」
「…………」
「な、なんでしょうか、な、奈穂さん? その、視線が怖いんですが…………」
奈穂の射殺すような鋭い視線に思わず敬語で喋ってしまう。
「はぁ…………康太っていっつも……そうだよね」
「……えっと、状況読めないんですが」
「肝心な……時に話を聞いていない……って事…………」
「うっ……申し訳ない……」
「ま、そんなとこも含めて…………好きなんだけどね」
「…………え?」
今度ははっきりと聞き取れた。聞き取れはしたがその意味が分からず呆けてしまう。
「また……聞き逃したの……? 全く……康太は…………私はね……昔も今も……康太が好きだよ……」
「…………本当か?」
「……ごめん……迷惑だよね…………」
「んなわけあるか!!」
「康太……?」
奈穂は死にかけの状況での告白を卑怯だと思っているのだろう。だが、康太にはそんな事は関係なかった。
「俺だって……俺だってな…………」
勇気の無い自分を恥じ、先に告白させてしまった奈穂に罪悪感すら感じている。
男である康太が言わなければならない事だった。ただ関係が変わってしまうのが怖くて出せなかった気持ち。
奈穂に告白されてようやく決心が付いたなどという、情けない理由だったが、康太は目一杯息を吸い込み、あらん限りの声で今まで表に出さなかった気持ちを叫んだ。
「俺だって、奈穂、お前が好きだ!!! 大好きだ!!!!」
「…………っ!?」
奈穂は何を言われたのか分からなかったらしく、一瞬ポカンとしていた。やがて、理解したのか顔を赤くして、涙を流し始めた。
「ほ、本当……?」
「当たり前だ! 奈穂の意地っ張りな所も、運動神経悪い所も、ちょっと嫉妬深い所も全部大好きだ!!」
「私も……私も、正義感が……強くて、人一……倍優しくて、優柔不断……な康太が……大好き……!」
感極まった康太が奈穂を抱きしめた。彼女も弱々しくではあるが、康太の背中に腕を回した。
「くそ、何で今更気持ちが通じ合ったりするんだ……」
康太が忌ま忌ましそうに呟く。奈穂はそんな彼を宥めるように背中を撫でた。
「仕方ないよ……私は……素直じゃなかったし……康太は……優柔不断だった……から……」
「あはは、確かにそうだな」
康太は苦笑して、肩から力を抜いた。徐々にだが奈穂の身体から温かさが無くなっているのが感じられた。
もうすぐなのだ。奈穂との別れと自らの手で愛している女性を殺さなければならない時が迫っていた。
「……なぁ、キスしていいか?」
「……っ、駄目……だよ……そんな事したら……康太にうつっ……ちゃう……」
「関係あるか……!」
康太は奈穂から身体を離すと躊躇う事なく唇を合わせた。しばらくそのまま奈穂の唇の柔らかさを、肌の感触を感じる。
やがて、どちらともなく離れる。
「…………あはは……キス……しちゃった……」
「そうだな……ファーストキスだ」
私も、と言う奈穂の顔がくしゃりと歪む。そのまま大粒の涙を流し始めた。
「いや……! いやだよ……! 死にたく……ない!! 何で……何で康太と……両思いだって……わかったのに! 一杯したいこと……あるのに!!」
泣きながら、搾り出すようにして叫ぶ奈穂を康太は抱きしめた。
「俺だって、俺だって奈穂と一杯したいことがある!! くそ! 何でもっと早く告白しなかったんだ!!」
康太も涙を流しながら叫ぶ。自らの勇気の無さとこのままの関係でいいと甘えていた自分を呪った。
今までだっていくらでも機会はあった。高校卒業の時、同じマンションに引っ越して康太の部屋でご飯を食べた時、サークルでカップルが出来た時、機会はいくらもあったのだ。それら全てを今の関係が壊れるのを怖がり、一歩を踏み出せなかった。
「俺は……馬鹿だ!!」
「それなら……私も……馬鹿……だ―――ゲホッ」
「奈穂!?」
奈穂が苦しそうに顔を歪めると、血を吐いた。もう限界なのだろう。彼女の肌は外を闊歩する感染者に似た青白いものへと変化していた。
奈穂はゆっくりと身体を離すと、一番聞きたくない言葉を言った。
「…………ごめん……もう、限界みたい」
「…………嫌だ」
「康太……?」
「嫌だ! 何で、何で奈穂を殺さなきゃならないんだ!? 奈穂を殺すくらいなら食われた方が―――」
康太の叫びは奈穂の手によって遮られた。もう身体を動かす事も辛いのか、腕は震え、額には汗をかいていた。
それでも、彼女は辛さの一端も見えない笑顔を浮かべた。
「……康太……あなたが私を殺したく……ないように、私も感染者になって……康太を殺したく……ないの」
「……っ!」
「ね……? 私達の思いは同じ……二人とも……お互いを殺したくないの……でも……このままじゃ……私は康太を……殺しちゃう……」
康太は奈穂の言葉を黙って聞いた。限界にも関わらず無理矢理意識を留めているのか、彼女は時折辛そうに顔を歪めた。
「だから……康太。私を殺すんじゃなくて……救って」
「救う……?」
「うん……あなたの彼女を……あなたの大切な人……のはずの私を…………救って」
そう言って、奈穂はもう一度いつもの心が温かくなる、とても綺麗で可愛い笑みを浮かべた。
「…………っ、~~~っ! ………………わかっ……た」
康太は何度も、何度も自らの中で葛藤し、苦悩し、頷いた。本当ならば頷きたくない、そう思っていてもこの世界を壊した『モノ』は待ってくれない。刻一刻と奈穂の意識は削られているのだ。
駄々をこねた所で結果は変わらない。噛まれれば皆感染者になる。
「……ありがとう、康太」
「…………」
「ねえ、笑って? 酷い事……言ってるのは……分かってる……でも、最後に見るのが……大好きな人の……康太の泣き顔じゃ……嫌なんだ」
「……ああ、これでどうだ?」
康太は無理矢理な笑みを浮かべた。涙は流れ、頬は引き攣り、とても笑顔とは言えるものではなかったが、奈穂は嬉しそうに―――本当に嬉しそうに笑った。
「ふふ、変な……顔……ありが……とう…………最後に……康太……と……恋人になれて…………よかっ…………た…………」
奈穂の身体から力が抜けた。それは、永遠の別れであり、化け物へと変わる合図でもあった。
「ああ、俺も奈穂の事好きで居続けられてよかったよ」
康太はもはや聞こえていないであろう奈穂にそう言うと、拳銃を構え、撃った。
笑顔のまま逝った奈穂の頭に小さな穴が穿たれ、後頭部が弾け飛ぶ。康太はそれを無理矢理作った笑顔のまま見詰めた。奈穂の前では最後まで笑顔でいようと康太は考えたからである。
既に奈穂が見えていない事は分かっていたが、それでも笑顔でいたかった。
「俺もすぐに逝くからな……」
奈穂の身体を布団に横たえ、顔に近くにあったハンカチをかける。
康太は拳銃を構えた。だが、すぐには死ねない。
奈穂の身体を、この二人の場所を荒らされないようにするために、ロッカーを扉の前に倒しておく。
「……これでよし」
元々入口近くにあっためあまり時間がかからず塞ぐ事が出来た。
康太はちょっとやそっとでは動かない事を確認すると、奈穂の隣に寝転んだ。
「……向こうで……会おうな」
そう自分に言い聞かせるように呟くと、口を開け、銃口を押し込む。
やはり自らの手で死ぬのは恐ろしいのだろう、康太の手は震えていた。だが、一度奈穂に目を遣ると、決心が付いたのか引き金を引いた。
軽い音がして、康太の頭が吹き飛ぶ。
(奈……穂……)
康太が死の間際に見たものは、手を繋ぎ幸せそうに笑い会う奈穂と自分の姿だった。
というわけで、このような終わり方をしていました。
前話で二つの銃声が聞こえたって書いといて、この話の中では微妙に間が開いていたりしているのは、気にしないでください。
元々この二人は寮で死ぬ予定でした。しかも、名前すらなかったキャラなのですが、ちょっと暴走してしまい、スピンオフみたいな漢字で書いてみました。
賛否両論あると思いますが、変えるつもりはないです。
誤字脱字の報告はいただければ修正します。