第9章 壊された安全
「尾井! こんなところにいたのか!?」
「信二君!? 一体何があったの!?」
悲鳴が聞こえてからすぐに美樹たちの目の前にある観音開きのドアが開かれ、ハンマーを持った信二が姿を現した。彼は酷く取り乱した様子で、背後を気にしながら続けた。
「先に非難してた奴らの中に感染者がいたんだ、!!」
「そ、そんな……っ!?」
「チクショウっ、噛まれてんなら勝手に死ねよ! 俺のスーパーを危険にさらしやがって!!」
苛々した様子でじだんだを踏んでいた。
身勝手な事を言う信二。いつの間にか彼の中ではこのスーパーは自分の物になっていたらしい。
(本当に身勝手な人だな……武器を持っているなら送ってあげれば危険は無くなるのに…………)
信二に呆れを通り越し軽蔑すら感じ、美樹はため息を吐いた。しかも、よく見れば沙苗がいない。どうやら置いてきたらしい。本当に軽蔑しか感情が浮かんでこなかった。
「ま、待ってよ……信……ちゃん……はぁ、はぁ…………置いて……行かないでよ」
ようやく息を切らせながら沙苗が追い付いた。彼女の縋るような目は、捨てられまいと必死に愛嬌を振り撒く子供のように見えた。
(…………信二って人も駄目だけど、沙苗さんも駄目だ……)
まるで信二以外に頼れる相手がいないかのようにハンマーを持っていない左手に抱き着く沙苗。それは、まさに依存以外の何物でもなかった。
「うぜぇな、離れろよ! とにかく、裏から出るぞ!!」
「え、えぇ……」
沙苗を引きはがすようにして歩き始める信二。仕切り始めた事は置いておいて、美樹は裏口―――ではなく階段に向かった。
「え? み、美樹ちゃん、どこに行くの!?」
「太田さんを呼んできます! 奈穂さん達は先に行っててください!!」
突然の行動に慌てる奈穂に意図を伝えつつ、美樹は階段を駆け上がる。
踊場に差し掛かった時、いきなり誰かとぶつかった。
「っと、すまんすまん、人がいるとは思わなくて……おお、美樹ちゃんか。大丈夫かい?」
「だ、大丈夫です」
固い胸板に顔をぶつけたため鼻が痛んだが、とりあえず他は大丈夫だった。
「何かあったのか? すごい悲鳴が聞こえたが……」
「はい、その事を伝えようと思ってたんです。先に非難してた人の中に噛まれていた人がいたらしくて、すでに一人が犠牲になってます…………」
「くそ、大輔の言ってた事は本当だったわけか……」
多五郎は心底悔しそうな顔で拳を握り締めた。
その姿を見て美樹は少しホッとしていた。信二とは違い、多五郎が人が犠牲になった事を悲しめる人間だったからだ。
「とにかく様子を見に行こう。出来ればここを出て行きたくはないからな」
「はい!」
先に行く多五郎に頼もしさを感じつつ、美樹は後を追った。
階段を下り、ドアの所まで行くと、何故か奈穂達が立っていた。その中には裏でドアを見張ると言っていたはずの大介の姿もあった。
「おい、あんたらどうしたんだ? 大介まで何でここにいるんだ?」
「裏から逃げようと思ったんですけど、予想以上に奴らが居て……出られそうになかったんです」
奈穂が代表して多五郎の問いに答える。
これで後ろに下がる事は出来なくなった。まだ屋上があるが、食料もない上に、逃げ場すらない屋上に逃げるわけにはいかなかった。
「よし、とりあえず店内の様子を見に行こう。倒せるんなら倒したほうが安全―――」
多五郎が店内に続くドアに手をかけた時に、何かを崩したような大きな音が聞こえてきた。
「ど、どうしたんだ!?」
「い、ぎゃあぁぁぁぁぁぁ!?」
慌てて店内に入ると同時に入口の方から悲鳴が聞こえてきた。
美樹よりも頭二つほども違うがたいのいい男が走って来た。
「ゾンビに驚いた人が入口のバリケードを開けてしまいました! 奴らが入ってきます!!」
「何だと!? 裏口も奴らがいるから出られないぞ…………よし、事務所に行くぞ!!」
ドア脇にあったバールを掴みながら多五郎が叫ぶ。
「事務所ですか?」
「ああ、入口とは逆のとこにある、走れば奴らが来る前に行けるはずだ」
「わ、わかりました!」
今美樹達がいるのは入口と事務所の調度真ん中の位置。右側に走り出した多五郎に続いた奈穂に手を引かれて走り出す。
「て、店長!」
商品棚の影から青年が現れて多五郎に声をかける。
「君達! 事務所に急げ!」
「は、はい!!」
多五郎は止まる事なく声をかける。青年は近くにいた老人をおぶり走り出した。
美樹は青年の行動に感動していた。信二などは、遅れている大介を無視し、腕を掴んでいる沙苗を引きずるように走ってっていた。だが、沙苗が腕を掴んでいるためか、妙に遅く、ぎりぎり大介がいるためにびりを逃れているような状況だった。
その必死の形相に嫌悪感すら抱きつつも、美樹自身奈穂に手を惹かれるままに走っている自分を嫌悪した。
入り口を破壊した人はもう喰われたらしく、悲鳴も聞こえない。
バリケードを越えた感染者達は、他の食材などには目もくれず、一直線に美樹達に向かって更新を開始していた。
「よし、早く入れ!! ドアを閉めたらそこらへんにあるロッカーなんかを積み上げてバリケードを作るぞ!!」
『はい!』
ようやくたどり着いた事務所に皆転がり込むように入る。
十メートルもない店内を走り抜けるだけで息が上がっていた。
「お前達、早くくるんだ!!」
振り返ると、多五郎が、ドアに手をかけたままの多五郎が遅れていた信二達に声をかけていた。
その時、突然沙苗がバランスを崩し、倒れた。彼女の足は感染者に掴まれていた。
一気に遅れた信二達の脇を大介が通り抜ける。だが、さすがに見捨てるのは心苦しいのか、立ち止まった。
「い、いやぁ!! 助けて信ちゃん!!」
沙苗は何とか振りほどこうと足をバタつかせながら叫ぶ。
「は、離せこの馬鹿!! 俺まで巻き込むんじゃねぇ!!」
「え、ぐぅっ!? し、信ちゃ―――」
沙苗の顔を思い切り蹴り、何とか離そうとしてする信二。そんな行動をされ、彼女は絶望にも似た表情を浮かべた。
「離せっ、離せって! てめぇなんかここで死ねば―――い、ぎゃあああああああああああああ!?」
どうやら完全に感染者に追いつかれたらしく、信二にも感染者が取り付き、首筋に噛み付いた。
「し、信ちゃ―――ぎゃああぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」
沙苗もまた足を掴んだ感染者に引き寄せられ、噛み付かれてしまった。
これでもう二人共助けたとしても感染者になってしまうだけである。
「だ、だすげ……」
「いだい……いだいぃぃぃぃぃぃ!!」
まだ二人は噛み付かれたままなので生きていた。だが、助けた所で事務所内が危険になるだけだ。
美樹は多五郎の隣まで行き、心を鬼にして叫んだ。
「大規君! 早く! 君が来ないとドアが閉められない!!」
「……あ、ああっぁっぁあぁぁっぁあ!」
大介は美樹の声に反応したのか、はたまた狂っただけなのか分からないが、踵を返して一直線に事務所に飛び込んできた。
「……っ! 閉めるぞ!!」
ドアが閉まると同時に先ほどのがたいのいい男を筆頭に多五郎達がロッカーを積み上げていく。
感染者がドアを叩く頃にはちょっとやそっとではビクともしないバリケードが組まれていた。
「…………くそっ!!」
がたいのいい男が壁を殴る。おそらく信二達を救えなかった事に対して怒っているのだろう。美樹自身も嫌な人間だとは思っていたが、実際に目の前で悲惨な最後を遂げられると後味のいいものではなかった。
「とりあえず落ち着け……」
「あなたは悔しくないんですか!?」
「悔しいに決まっているだろう!! 客を守るはずの店長が誰よりも先に事務所にいたんだ、悔しくないはずがないだろうが!!」
多五郎は拳を握り締め、今にも噛み切ってしまいそうなほど唇を噛んでいた。
「お、落ち着いてください! とりあえず現状、ここは安全なんですよね?」
奈穂が二人の間に入り仲裁する。
「あ、ああ……ただ、このドアも一応鉄製だが裏口ほど頑丈じゃないいつまでもつか分からんぞ」
「分かりました……食糧などは?」
「一応あるが菓子やパンとかだけだ。惣菜はその場で作ってたからな」
「じゃあとりあえずは大丈夫そうですね」
ホッと胸を撫で下ろす奈穂。食糧は確かに大事なものだ、あるのとないのとでは心理状況もかなり変わってくる。
水は通っている上、従業員用に確保してあるペットボトルのお茶もいくつかあるらしい。多五郎の経営方針に感謝しつつ、美樹は逃げ延びた者達に視線を向けた。
今八畳ほどの事務所には。美樹を含めて七人の人間がいた。奈穂に大介、多五郎、がたいのいい男、それと青年と老人である。
人だけでかなり手狭になっている上に、バリケードを築いたためにさらに狭くなっていた。半ば鮨詰め状態である。
皆一様に疲れた表情をしている。特に目の前で信二達が喰われるのを見た大介は膝を抱えてうずくまっていた。そんな中、多五郎だけが何か出来ないと考えているのか、顎に手を当てて眉を寄せていた。
「とりあえずずっとここにいるわけにはいかんな……女性は隣の更衣室で休んでくれ、さすがに男と鮨詰め状態は辛いだろ。仮眠室も兼ねてるからここよりは狭いが寝るには十分なはずだ」
「ありがとうございます」
奈穂がお礼を言い、美樹も慌てて頭を下げる。
「あと、助けが来ます」
「本当ですか!?」
がたいのいい男がいち早く反応する。見た目は怖いのに、明らかに年下の奈穂にも敬語を使っている辺り意外に礼儀正しいのかも知れない。
「本当よ。ね、美樹ちゃん」
「……え? あ、はい」
がたいのいい男を観察していた所にいきなり声をかけられ、一瞬呆けてしまう。
「自衛隊の人が今装備を取りに行ってるんです。すぐに戻ってくるはずですよ」
「装備? この辺りに武器がある場所なんかあるんですか?」
「自衛隊の寮がこの近くにあって、そこに武器があるらしいんです」
美樹にさえ敬語を使ってくるがたいのいい男に少し驚きながら、美樹は経緯を説明する。
自衛官である厚司に助けられ、香奈を助けた後に寮に向かう途中で別れた事。寮で装備を整えたらすぐに助けに来ると約束した事。
「厚志さんは絶対来ます」
「ふむ、なら何とかここを死守しなくちゃな」
「……はい!」
多五郎は特に疑う事を否定する事も無く、信じてくれた。美樹の頭を撫でながらあの快活な笑みを浮かべた
「……本当にくるのかの」
「…………え?」
呟くような声が聞こえた。声の方を向くと老人が渋い顔で美樹を見ていた。
「腰の重い自衛隊なんぞが来るとは思えんが、仮にその寮に辿り着けていたとしてももう一度外に出るのかの?」
『…………』
老人はどこか諦めたような、絶望したような表情を浮かべていた。
この世に未練の無い者の呟き。それは、他の人間にも伝染し、皆一様に表情を暗くする。
だが、そんな中美樹だけは希望を失っていなかった。
「…………来ます」
「……ん?」
「絶対に来ます」
毅然とした態度で、自分が全く来る事を疑っていないのを示す。厚志と約束したのは事実なのだ、今疑って希望すらなくしてしまっては救ってくれた鹿田にも申し訳が立たない。
「な、何故そう言えるんじゃ?」
美樹の態度にたじろぎながら老人が聞く。
「約束したからです」
「や、約束!? そんな曖昧なもので絶対とかぬかしたのか!?」
「はい」
老人が顔を赤くし、声を荒げて威圧するような物言いになる。だが、美樹は全く怯まず、ただ頷いた。
「ぐ、ぬぅ……」
「もういいですか? あとは待っているだけなので、休ませてもらいます」
「ふん、来なかった時に泣いて喚いても慰めてやらんからの!!」
「ええ、結構です。厚志さんは必ず来ますから」
美樹はそう言うと、まだ怒りの収まらない老人を置いて更衣室に入った。慌てたように奈穂が追い掛けて後ろ手にドアを閉める。
更衣室は六畳ほどの座敷で、靴を脱いで上がるみたいである。奥の壁際にロッカーがこちらに背を向けるようにして壁から部屋中程まで並べてあり、奥が見えなくなっている。どうやらその影で着替えるらしい。もちろん壁からロッカーにかけて掛かるカーテンも用意されていた。布団もあり、かなり整った場所になっていた。
「よかったの? あんな喧嘩みたいな感じになっちゃって」
「……よくはないと思います。ただ、厚志さんを知らない人が信じてないのが嫌だっただけです」
靴を脱ぎながら老人の言葉を思い出し、信じてもらえなかった悔しさからギュッと拳を握り締めた。
「…………本当に彼氏じゃないの?」
「だ、だから違いますって!」
「んーじゃあ夫?」
「お、おおお夫!? も、もっと違いますよ!! もう、寝ます!」
ガバッと仮眠用に置いてあった毛布を被り、布団に寝転ぶ。
「ふふ、おやすみ」
「…………おやすみなさい」
頭をすっぽりと毛布で被った状態で、答える。
電気を切る音が聞こえた数秒後、隣に奈穂が寝転がったのが気配でわかる。ロッカーで半分に区切られているため布団は一組しか敷けない。必然的に寝るためには同じ布団に入るしかなくなる。
疲れている上に、隣に誰かがいるという安心感からか、美樹はすぐに眠りに落ちていった。