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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。

水神オーバードライブ

作者: 深水湖水
掲載日:2026/05/28

 水神オーバードライブ 深水湖水


 琵琶湖総合研究所の助手、水神レイは姿見の前で迷っていた。

 今夜の七時、レイは二週間ぶりに想い人の鏡浩一と会う。

 待ち合わせ場所は琵琶湖の南湖、におの浜の湖岸に建つ高層ホテルのロビーだ。

 そこに何を着ていこうか、レイは決めかねているのだった。

 鏡にうつるしなやかな身体をレイは眺める。

 線の細いすっきりとした顔に背中までとどく漆黒の髪。レイは体毛が薄く、ひげも無い。そんな女性と見まがう外見に人がどんな反応を見せるのか、レイは十分に知っていた。

 初夏のこの時期、レイはシャツにブルージーンズというラフな格好を好んだ。

 もちろん、かしこまった場面では違っていて、そんなときには細い身体をぴったりとした黒いスーツで包み込む。

 ストレートの長い黒髪は普段そのままおろしているが、鏡と約束して会うときはまとめてアップにしていた。

 だから、湖岸のホテルで鏡と待ち合わせるとき、レイは毎回同じ姿なのだった。


 *


 午後六時、琵琶湖の南湖、におの浜の湖岸にレイはたたずんでいた。

 今夜のレイは細い身体にぴったりとした黒のスーツを身に着け、鮮やかなブルーのネクタイを銀のカイツブリのピンで留めている。いつもの姿だ。しかし、長い黒髪はアップにせず、まとめて束ねるだけにしておいた。

 レイは後ろを振り返る。

 そこは遊歩道になっていて、ジョギングを楽しむ人、ペットと散歩をしている人、若い人、そうでない人、一人だったり、何人かで連れ立ったり、思い思いに夕暮れを楽しむ人たちがレイの背後を通り過ぎてゆく。

 遊歩道の向こう側には高層ホテルが建っていて、窓から漏れる灯りが暖かい。

 学生らしき集団が近づいてきた。

 レイは湖に目を戻す。

 今日は穏やかだ。暮れゆく水面を初夏の風が渡ってゆく。

 釣り人の操る高速艇が視界の端から現れた。

 その蹴立てる波までもが、一枚の絵のように風景に溶け込んでいる。

 東の空に昇ったばかりの月が低い。

 まもなく夜が来る。


 そろそろホテルに行こう。

 バッグを肩にかけなおすとレイは湖に背中を向けた。

 そのときだった。

 周囲が昼間のような明るさになった。

 その明るさが、すーっと背後へ移動してゆく。大音量が響いた。あちこちで悲鳴があがる。レイは湖を振り返った。

 火球だ。

 眩い光の塊がずっと向こうの水面に落下してゆく。

 たぶん落下水域は水平線の向こう側だろう。北湖だ。

 遊歩道を行き来していた人たちがみな足を止め、不安そうに湖を見つめている。

 轟音が止んだ。レイはスーツのジャケットから携帯端末を取り出し、通話機能を起動する。琵琶湖総合研究所の上司、藤堂室長の連絡先をタップした。呼び出し音が鳴る間もなく室長が答える。

「見たか?」

 レイも即座に応答する。

「見ました」

「研究室の窓からも見えた。落下水域は北湖だろう」

「わたしもそう思います」

「調査船を出す」

「今すぐですか?」

「そうだ」

「警察は?」

「無線があった。警備艇がすでに向かっている」

「被害は?」

「わからん」

「わたしも行きます」

「君は非番だろう?」

「しかし……」

「今日はゆっくり休め」

「でも……」

「明日も予定の通りに休むように」

「しかし!」

「すぐに忙しくなる。だから今は休め」

「はい……」

 藤堂室長の説得にレイは渋々従った。室長は言う。

「これから調査船に乗る。切るぞ」

「気をつけて」

「うむ」

 通話は切れた。

 携帯端末をジャケットの内ポケットにしまったレイは気配を感じて後ろを向く。

「よう」

 鏡だった。

「ここにいると思った」

 鏡はそう言って片手をあげた。レイも片手をあげてハイタッチする。火球の落下でざわついていた心が落ち着いてゆく。鏡が訊く。

「今のは右手?」

「え? ああ」

 ややあってレイは答える。

「右手です」

「残念、左手だ」

 今日の鏡は明るいグレーのスーツで厚い胸板を包んでいる。レイは少し見上げるように目を合わせた後、視線を泳がせる。

「すいません」

「どうしてあやまる」

「だって……」

「遅刻したわけでもない」

「そうですけど……」

「で、どうする?」

「え?」

 レイは鏡の問いに戸惑った。鏡が何を言いたいのかわかっている。火球の落ちた北湖に行きたいのだろうと言っているのだ。

「室長からは休むようにいわれました」

「おまえはどうしたい?」

 レイは考える。鏡とはそうたびたび会えない。なぜなら、彼は小型潜水艇の操縦者で、その小型潜水艇を搭載した調査船に乗って全国で仕事をしているからだ。

 レイと鏡が出会ったのも、鏡の操縦する潜水艇で琵琶湖の湖底に潜る仕事でだった。

 どうするか。二人とも今日明日は非番だ。ゆっくり会えるのは今夜しかない。レイは答える。

「あなたと一緒にいたい」

「なるほど」

 鏡はふむふむと頷く。

「俺と一緒に北湖に行きたいということだな」

「なんで」そうなるのか。「ここの予約はどうするんですか?」

「食事だけする。大急ぎでな。これでいいんだろう?」

 レイは言葉を失う。相変わらずこの人は……

「北湖にもホテルはあるさ」

 レイは顔から火の出る思いだった。


 *


 レンタルしたオフロード車で北湖に向かったレイと鏡はその夜結局何もできず、安曇川駅近くのホテルに宿泊した。

 翌早朝、快晴の空のもと、レイと鏡は安曇川河口周辺の漁港を回り、北船木漁港で藤堂室長の乗る調査船と合流できた。

 岸壁に立つレイと鏡に気づいたらしい藤堂室長が調査船のデッキから声をかけてくる。

「休めといったはずだぞ!」

 それには鏡が返す。

「昨夜は十分休みましたよ」

 室長が額に手を当てる。

「君らにはかなわんな」

 昨夜から調査に協力していたらしい漁師たちの手を借りて、恰幅の良い室長はよっこらっしょと言いながら岸壁に上がった。レイは向き合い、訊く。

「何かわかりました?」

 服をはたきながら室長が答える。

「わからん」

「被害は?」

「ない。今はな」

「今は?」

「そうだ」

 レイの側に立っている鏡が訊く。

「何か気になることでもあるんですか?」

「火球は分解せずに落下したと思われる」

「それが何か?」

「隕石から稀に有機物が見つかるのは知っているね?」

「はい」

「今度の隕石は大きい。表面は焼けているだろうが、内部まではわからない。表面を急冷された隕石は湖底でバラバラになっているかもしれない」

「つまり、そうやってバラバラになった隕石から有機物が漏れ出している可能性がある?」

「あくまで可能性で、それが危険である確率は極めて低い」

 今度はレイが訊く。

「確率は低いけれども何か被害が出るかもしれない?」

「それを確かめるのが我々の仕事だ」

「もう依頼が?」

「知事からだ」

 そこで藤堂室長はひらひらと手を振る。

「そういうことだから君たちは二人の時間を楽しみたまえ」

 レイと鏡は顔を見合わせる。鏡が言う。

「食事をされるなら適当なところまでお送りしますよ」

「ありがとう。休憩場所の手配はできている。君たちが食い込む隙は無いぞ」

 なんでもお見通しだ。

 大きく伸びをした室長は調査船の船長と一緒に漁師たちが手配したらしい車に乗り込んだ。発進する。

 鏡が訊いてくる。

「どうする?」

「とりあえず朝食を」

「そうだな」

 レイと鏡はオフロード車に乗り込み、安曇川駅前に向かった。


 *


 安曇川駅前の喫茶店に落ち着いたレイと鏡はモーニングを注文した。ウエイターがテーブルを離れると鏡が訊いてくる。

「調査船、新しくなってたな」

「わかります?」

「そりゃわかる」

「見たことありましたっけ?」

「潜水調査のときに何度か見ている」

「ああ!」

 レイは思い当たった。鏡と初めて出会った調査のことだ。あの日、レイは鏡の操縦する小型潜水艇で安曇川河口沖の琵琶湖最深部に潜水したのだった。

「よく覚えていましたね」

「記憶力はいいんだ。知ってるだろ?」

「はいはい」

 鏡の冗談にレイは笑う。鏡はさらに言う。

「今度の調査船、エンジンがデカくないか?」

「えっ?」

 レイは驚いた。二週間前に引き渡された新しい調査船はこれまでのものより倍近い排気量のエンジンを積んでいるのだ。

「あたりだろ?」

「どうしてわかったんですか?」

「排気量を書いたステッカーが貼ってあった」

「ああ……」

「気づかなかったか?」

「ええ……」

「なんノットくらい出せるんだ?」

「普通は三十ノットくらいです」

「普通じゃなければ?」

「オーバードライブで八十ノット」

 鏡が口笛を吹く。レイはあたりを見回した。前のテーブルのちょうどレイと向き合う席の客が顔をしかめている。鏡が言う。

「失礼。凄い性能だな。で、オーバードライブってなんだ?」

「琵琶湖で追いつける船は無いと思います。オーバードライブとはギア比を変えてスクリューを高速回転させることです」

「危なくないか?」

「危ないですね」

「乗っ取り対策は?」

「秘密です」

「OKだ。それでいい」

 ウエイターがモーニングを運んできた。目の前に、トースト、サラダ、スクランブルエッグ、ホットコーヒーが並べられてゆく。

「いただきます」

 鏡がさっそくトーストにかじりつく。レイはコーヒーカップを持ち上げようとした。そのときだった。

 手に力が入らない。いや、手は確実にカップをつかんでいる。そして口元へと運んでいる。しかしその感覚が無いのだ。

 レイは言う。

「ああ、ほっとします」

 鏡がトーストをおいて答える。

「そうだな」

 今、レイは言葉を発していない。しかし、自分の発した言葉は聞こえる。どうなってしまったのか。

 レイはため息を吐く。しかしレイはそんなことをしていない。

「どうした?」

「わたし疲れました」

「どこかで休むか?」

「そうしたいです」

「ふむ」

 鏡がじっとレイの顔を見ている。

「どうかしましたか?」

 鏡さん、気づいて。

「どうもしない。さっさと食べてホテルに行こう」

「はい」

 レイは身体が熱くなっているのを感じる。そう、それは感じることができる。しかし手足も口も自由が利かない。勝手に動いているのだ。わけがわからない。ひょっとして何かの神経症状だろうか。そう思ったとき、声が聞こえた。

「申し訳ないですが、少しお身体をお借りします」

 レイは愕然とする。とうとう気が狂ったか。

「あなたは正常です。安心してください」

「安心?」

 レイは言った。しかしそれは声にならなかった。なのに相手は答えた。

「わたしはアルタイル。昨夜落下した微小天体とともにやってきました」

「火球とともに?」

「そうです。あなたがたの概念ですと、憑依が近いです。わたしは昨夜琵琶湖に落下した微小天体に憑依してやってきたのです」

 これは何の冗談だろう。夢だ。きっとまだホテルで寝ているに違いない。レイは目を閉じて頭を振った。しかし、目を閉じることはできなかったし、頭も動いていなかった。


 *


 鏡が運転するオフロード車の助手席にレイは乗っていた。

 これから昨夜宿泊したホテルに戻るのだ。

 レイの視線は車を運転する鏡に向けられている。姿勢を変えることはできない。まるでテレビ画面でも見ているかのようだ。

 アルタイルと名乗る声は言う。

「わたしは比較的近方にある恒星系からやってきました」

「昨日の火球に乗って?」

「そうです」

「何万年もかかる」

「問題ありません。わたしたちに時間は関係ない」

「わたしたち? 時間が関係ない?」

「混乱させないように単数形で語ってきましたが、わたしたちには地球人の個人にあたる存在はないのです。もちろん、わたしは水神さんではありません。しかし、わたしたちの――」

 アルタイルは言葉を探しているようだ。

「――わたしたちの種族のうち、わたしは、もう一人の誰かでもあるし、さらにもう一人の誰かでもある。個の区別が無いのです」

 なんとなくわかったような説明だ。

「じゃあ時間は?」

「わたしたちは時系列に縛られた存在ではないのです。1万年前は今日でもあるし、1万年未来でもある。母星を発ってからここに到達するまで数万年を要しているのは事実です。しかし、発つと同時にここに存在しているとも言えるのです」

 そんなアルタイルの言葉を咀嚼している途中でレイは違和感を覚えた。車はホテルに向かっていない。これは……

「この車は昨夜宿泊したホテルに向かっていません」

「当然のように言うのね?」

「今と過去と未来はわたしたちにとって同時に存在します」

「結果を知っている?」

「はい」

「あなたの企みが失敗するかどうかも?」

「企みとはひどい言い方ですね」

「そんなふうに感じる感情はあるんだ。それで何を企んでいたの?」

「あなたと、あなたのパートナーの遺伝情報が欲しい」

「わたしと鏡さんの?」

「そうです」

「なんのために?」

「繁殖情報が必要なのです」

「わたしは女じゃない」

 アルタイルは少し沈黙し、言う。

「あなたの遺伝情報は取得しました。あとはパートナーの遺伝情報です」

「鏡さんの遺伝情報? どうやって……」

 そこでレイは気づいた。だからホテルに行かせようとしたのか。

「精子は減数分裂だから遺伝情報の全セットを取得できない」

「精子が必要とはいっていません。必要なのは遺伝情報です。あなたのパートナーの体液があなたの体内に入ればいい」

 遠慮のない指摘にレイは穴があったら入りたくなった。

 車が路地を曲がった。そこにあったのは昨夜止まったのとは別のホテルだった。旅館だ。鏡が言う。

「休憩のあるところにした」

「いいですよ」

 レイは、いやアルタイルは答えた。視線がナビを向く。そこにはベッドのマークが幾つもプロットされた地図があった。鏡はいつのまにか付近のホテルや旅館を検索していたのだ。車が停まる。小さな駐車場だ。

「大丈夫か?」

 鏡がのぞき込んでくる。

「少し横になりたい」

 レイは黙れと叫んだ。声にならなかった。鏡が言う。

「わかった」

「手続してくるから待っていろ」

「はい」

 鏡が車を降りて旅館の入り口に歩いてゆく。なんてことだ。ここは連れ込み旅館じゃないか。

 しばらくして、古めかしいルームキーを持って鏡が戻ってきた。助手席側のドアを開き、手を差し出してくる。レイ=アルタイルは鏡の手につかまり車を降りた。


 *


 旅館の部屋に落ち着くとレイ=アルタイルはジャケットを脱いだ。鏡も脱いでいる。部屋には小さな座卓が一つと座椅子が二つあって、その隣には布団が敷かれていた。レイ=アルタイルは布団の端を回り、窓際に行ってカーテンを引く。レイはこれから起きることを想像し、やめてと何度も叫んだ。だが声にならない。鏡が訊いてくる。

「どうした?」

 レイ=アルタイルは鏡に近づく。向かい合う。目を閉じる。鏡の腕がレイの腰を抱いた。だがそれはすぐに離れた。ポンと頭をはたかれる。

「昨日は満足できなかったのか?」

 レイ=アルタイルは目を開く。

「ええ」

 なんて会話だ。レイは身体をよじる。しかし身体はアルタイルの制御下にあって思うようには少しも動かない。アルタイルの声がする。

「あなたはいつも自身を抑圧していた。わたしたちに任せればいいのです。今日だけは、その抑圧から解放してあげます」

 鏡の両手がレイの薄い肩をつかんだ。いぶかしげな表情で言う。

「ずいぶんと正直に言うな」

 レイ=アルタイルは鏡の目をまっすぐに見る。

「そうですか?」

 鏡もまっすぐに見つめ返してきた。

「おまえらしくない」

「そんなことはないです」

「いや、おまえらしくない。おまえの目の中に誰かがいる。おまえでも俺でもない」

「ずいぶんと非科学的ですね」

「普段のおまえならそんなセリフを使わない」

 鏡がハンガーから上着をとった。着る。

「おまえも着ろ」

「どうしたんですか?」

「それはこっちのセリフだ」

 鏡はレイのジャケットもハンガーから外した。そのままレイの手を引く。レイ=アルタイルは焦ったように言う。

「ちょっと! 鏡さん!」

 レイはそのまま旅館の外に連れ出され、車に乗せられた。ジャケットは膝の上だ。鏡はいったんフロントに引き返し、そしてすぐに戻ってきた。運転席に座ると携帯端末を出し、タップを数回、コール音が鳴る。

「鏡です。今どちらにいます? 港ですか? すぐに向かいます」

 端末から声が聞こえる。藤堂室長だ。

「どうした?」

「レイの様子がおかしい」

「なんだって?」

「レイの様子がおかしいんです。病気とかじゃない」

「よくわからんな」

「室長はレイとの付き合いが長い」

「君よりはな。それで、わたしはどうすればいい?」

「会って話してください」

「それでいいのか?」

「はい」

「わかった」

 鏡の語気にはただならぬものがあった。室長もそれを感じ取ったのだろう。

「これから向かいます。十分ほどで着きます」

 鏡が通話を切った。携帯端末をしまう。車のエンジンをかける。

「シートベルトをしろ」

 レイ=アルタイルは黙って従う。

「飛ばすぞ。すぐになんとかしてやる」

 急発進した車は安曇川河口方面を目指した。


 *


「着いたぞ。降りろ」

 鏡が言った。

 そこは安曇川北流河口のさらに北、早朝に訪れた北船木漁港だった。岸壁には調査船が停泊している。

 レイは不思議に思った。レイ=アルタイルが車から降りない。すると、外から助手席側に回り込んだ鏡がドアを開き、レイ=アルタイルを引きずり下ろした。レイ=アルタイルはおずおずと鏡を見上げる。厳しい視線がレイを見下ろしていた。その後ろから誰かがやってくる。藤堂室長だ。

「いったいどうした?」

 室長はのんびりと言った。鏡が横に避ける。レイ=アルタイルは室長と向き合う形になった。鏡が言う。

「今朝、喫茶店でモーニングを食べているときからおかしくなったんです」

 気づいていたのかとレイはほっとする。だからといって事態が好転したわけではないが。室長が訊く。

「水神君。君の利き手はどちらだったかな?」

 レイ=アルタイルと、レイは答える。

「右です」

「そうだな。で、それはどっちだ? 三秒で答えてくれるかな?」

「えっ?」

 レイ=アルタイルは声を上げた。レイは気づく。これはいつものテストだ。自分は左右盲で、とっさに右左の反応ができない。しかし、レイ=アルタイルはこともなげに右手を挙げた。室長は顎に手を添える。

「確かにおかしいな。いつもなら迷ったうえで間違えるところだ」

 室長は鋭い。しかしとレイは考える。これで確信がもてるわけじゃない。偶然正解を示す場合だってあるのだから。さて、室長はどうするか。そしてアルタイルはどうでるか。レイ=アルタイルは言う。

「なるほど。お見事です」

「君は誰だね?」

「アルタイル」

「どこから来た?」

「こことは違うどこかから」

 突然、レイ=アルタイルは駆け出した。岸壁の方向へ。鏡が叫ぶ。

「待て!」

 レイにはわかる。待つわけがない。その予想の通り、レイ=アルタイルは逃げた。そして岸壁から飛んだ。調査船に飛び乗ったのだ。これにはレイも驚いた。しかし、驚くことはそれだけではなかった。レイ=アルタイルが調査船に飛び乗ったと同時に二本の係留索が切れた。そしてエンジンが起動した。ありえないことだった。係留索は直径数センチのロープだ。エンジンだって二つのキーを同時に回さないと起動できない。アルタイルの仕業だとして、いったいどうやったのか。レイがそんなことに頭を巡らせていると、レイ=アルタイルは調査船の操舵室に入り、ハンドルの前に立つ。

「逃げますよ。オーバードライブ!」

 そしてレイ=アルタイルはスロットルを最前方へと押し込んだ。


 *


 ぐっと船首を持ち上げて、調査船は北船木漁港を出てゆく。岸壁では大勢が騒いでいた。レイは注意する。

「よそ見をしない」

 当然それは声になっていないのだが、アルタイルはレイの声で答えた。

「ご忠告どうも。あなたが見たいと思ったもので」

 漁港を出た。目の前に広がっているのは琵琶湖の北湖、その広大な水面だ。そこを、調査船は波を蹴立てながら疾走してゆく。すぐに追手はかからないだろう。追うにしても、もう北船木漁港からは追いつけない。オーバードライブで突き進むこの船に追いつける船は琵琶湖にはない。アルタイルは言う。

「気持ちいいでしょう?」

 レイは声ではない声で答える。

「悠長ね」

「だって追いつける船はないんですから」

「ほかの港からなら追いつける」

「無理ですよ」

「包囲されたら停船するしかない」

「包囲されたらの話しですね」

「自信家ね」

「自信家ですとも」

「どうしてそんな性格になったの? 個や時間を超越してるから?」

「どうでしょうね。わたしたちにはもともと個性なんて無いのですけど」

「じゃあなんで?」

「あなたに会ったからでしょうね」

「わたしに会ったから? わたしはこんなことしない」

「そうでしょうか?」

「しない」

 レイは断言した。アルタイルは言う。

「この調査船を初めて見たとき、あなたはこの船で湖面を疾走してみたいと思いませんでしたか?」

 レイは黙った。図星だったからだ。会う前のことまでどうして知っているのか、それは訊くまでもなかった。アルタイルは時間を超越した存在だったからだ。レイは言った。

「確かに気持ちいいな」

 それはレイの声になった。


 *


 北船木漁港を出た調査船は今、南湖との境である琵琶湖大橋あたりを目指して南下している。その行く手に低く雲が出ていた。アルタイルが言う。

「琵琶湖の天気は変わりやすいですね」

 何でも知っているんだなとレイは感心する。するとアルタイルはさらに言う。

「もっと積極的になればいいのに」

 レイは気づいて制止する。

「それ以上は言わないで」

「鏡さんに抱いてくださいって言えばいいんですよ」

「張り飛ばすよ!」

「できるものなら」

「ああっ! もうっ!」

「あきらめましたか?」

「あきらめてない」

「おお怖い」

 レイはため息を吐く。それは現実のため息になった。アルタイルは言う。

「あなたは自分を抑圧しすぎです。よくない」

 レイは返答に詰まる。

「わたしは……女じゃない……」

「引け目に感じているのですね?」アルタイルは明るく言った。「気にしないことです」

「余計なお世話。おせっかいな宇宙人ね……」

「あなたがそうさせているんですよ」

「どうだか」

「認めない?」

 レイはまたため息を吐く。

「認めます」

「正直でよろしい」

 そんな冗談めかした言葉を吐いてきたアルタイルだが、何か居住まいを正すような気配が伝わってきた。何かが変わったわけでもないのに。アルタイルは言う。

「お伝えしなければならないことがあります」

 かしこまった言い方にレイは訊く。

「なんですか?」

「あと数分でわたしは消えます」

「えっ?」

「ですから、あと数分でわたしは消えるのです」

「わたしの中から? また誰かに取りつくの?」

「いえ、この世界から、わたしという存在が消えるのです」

 そこでレイは気づいた。アルタイルはわたしと言っている。わたしたちとは言っていない。

「よくわからない。あなたの種族はどうなるの?」

「消えません」

「あなたは?」

「消えます」

「個という概念は無かったんじゃないの?」

「個の区別がないのです」

「同じじゃない」

「同じではありません。言うなれば、わたしは地球に派遣された有効期限付きの探査機なのです。この探査機には実体がありません。有効期限を過ぎれば消滅します」

 アルタイルがそう言ったとき、調査船が雲に突っ込んだ。激しい雨が船窓を叩く。その雨の中を、レイ=アルタイルは器用に操船してゆく。レイ=アルタイルはスロットルを絞った。船はゆっくりと停まる。レイ=アルタイルは錨を降ろす。

「すぐに鏡さんたちが追いつきます」

 レイは訊く。

「時間切れなの?」

「時間切れです」

 レイは酷くさびしい気持ちになった。この世界から消えるということは、どこにも存在しなくなるということだ。レイは訊く。

「もう会えない?」

「もう会えません」

「そう……」

「最後に一言いわせてください」

「なに?」

「ご自分の想いを大切に」

 レイには返答することができなかった。どう言い返そうか迷っている間にアルタイルの気配は消えた。


 *


 アルタイルの気配が消えて十数分が経過した。雨は止み、雲が薄れてゆく。北から漁船が近づいてくる。おそらく鏡たちの乗った船だろう。レイは操舵室から出る。

 上空は晴れ、虹が出ていた。

 漁船の上の人影が識別できるようになる。鏡だ。藤堂室長もいる。

 レイは考える。何をどう説明すればいいのか。説明したとして、信じてもらえるだろうか。

 やっと追いついた漁船の上から鏡の声がする。

「無事か!」

 レイは答える。

「無事です!」

「とんだオーバードライブだったな!」

 レイは虹を見上げて笑った。


 了

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