「誰も読まない」——十年前の日記帳には、私への恋文が綴られていた。届かないはずだった想いを受け取った私は、今度こそ届ける側になると決めた
「誰も読まない」
その一文が、日記帳の一ページ目に書かれていた。
古書店の片隅。埃を被った段ボールの底で眠っていたそれは、ボロボロの革表紙に金箔の剥げた背表紙という、どこにでもある古い日記帳だった。持ち主不明。買取記録なし。店長が「適当に処分しといて」と押し付けてきた雑品の山。普通なら、そのまま廃棄ボックスに放り込んで終わり。
——なのに。
私の手は、最初のページを捲っていた。
『四月七日。晴れ。今日から日記をつけることにした。理由は特にない。強いて言えば、吐き出す場所が欲しかったから。誰にも見せない。誰にも読ませない。だから何を書いてもいい。そう思ったら、少しだけ息がしやすくなった』
十年前の日付。私がまだこの街に住んでいた頃の。
何の変哲もない日記だった。二十二歳の青年が、古書店で働きながら、日々の些細な出来事を淡々と綴っている。暗い。全体的に暗い。でも不思議と嫌な気持ちにはならなかった。この人は暗いんじゃない。正直なだけだ。自分の弱さを、誰にも見せられないだけだ。
少しだけ、分かる気がした。
そして五月に入った頃——日記の雰囲気が変わった。
『五月三日。晴れ。彼女は今日も来た』
彼女。
『いつもの席で、いつもの本を読んでいる。セーラー服の襟が少し曲がっていた。直してあげたいと思ったけど、そんなこと出来るわけがない。話しかける勇気もない。名前も知らない。ただ、見ているだけ。……気持ち悪いな、俺』
ページを捲る手が止まった。
セーラー服。古書店。いつもの席。
——まさか。
『五月十日。今日、彼女が買った本は「星の王子さま」だった。何度目だろう。俺がこの店に来てから、彼女があの本を買うのを見るのは』
心臓が嫌な音を立てた。
私は高校時代、「星の王子さま」を何冊も買った。古書店で見つけるたびに買った。傷んだら買い替えて、古いのは友達にあげていた。
偶然だ。そんなの、偶然に——。
『五月十七日。今日、初めて目が合った。ほんの一瞬。彼女がレジに本を持ってきた時、俺は——Loss、顔を上げてしまった。彼女の目は、黒かった。深くて、静かで、本を読む時みたいに真剣で。「ありがとうございました」。俺が言えたのは、それだけだった。——ああ、駄目だ。これは、駄目だ』
『五月二十四日。彼女の名前が分かった。友達らしき女の子と一緒に来ていた。「栞、また本?」と言われていた。——栞。しおり。本に関係のある、綺麗な名前だと思った』
視界が滲んだ。
私だ。
これは、私のことだ。
◇
「——ちょっと。雨宮」
顔を上げると、先輩の水瀬凛さんが腕を組んで立っていた。赤いフレームの眼鏡の奥で、鋭い目が私を射抜いている。
「あんた、三日前からずっとおかしいでしょ。何かあった?」
「……別に、何も」
「嘘つくの下手すぎ」
凛さんはため息をついて、カウンターに肘をついた。店内に客はいない。昼下がりの静かな時間帯だった。
「言いたくないなら言わなくていいけど。仕事に支障出てるからね? さっきも、お客さんに『いらっしゃいませ』言い忘れてたでしょ」
「……すみません」
「謝んなくていいから、原因を解決しなさいよ」
正論だった。ぐうの音も出ない。
「……凛さん」
「なに」
「人に、好かれてたことが、後から分かったら——どうしますか」
凛さんの眉がぴくりと動いた。
「……なにそれ。告白された?」
「違います。もっと……もっと複雑で、もっと、どうしようもない話です」
私は日記帳のことを話した。十年前の日付。古書店で働いていた青年。そして——その日記に書かれていた「彼女」が、どうやら自分らしいということ。
凛さんは黙って聞いていた。途中で茶化すこともなく、真剣な顔で、最後まで。
「……それで、日記はまだ読んでる途中なの?」
「はい。怖くて、なかなか進めなくて」
「怖い?」
「だって——私、十年前、何も言わずにいなくなったんです。あの街から。あの古書店から。家庭の事情で、突然引っ越すことになって。誰にも何も言えなかった」
凛さんの目が、少しだけ細くなった。
「その人に、何か言いたかったの?」
「……分かりません。当時は、何も。ただの店員さんとしか思ってなかったし、顔も覚えてないし」
「でも今は?」
「——今は」
日記を読み返すたびに、胸が痛くなる。
あの人は私を見ていた。私が気づかなかっただけで、ずっと。毎日のように。話しかけることもできず、名前を呼ぶこともできず、ただ遠くから見つめて、この日記帳にだけ想いを吐き出していた。
『六月十二日。彼女が笑った。友達と話している時、ふっと口元が緩んだのを見た。初めて見る表情だった。——ああ、こんな顔もするんだ。俺の前では絶対に見せてくれない顔。当たり前だ。俺はただの店員で、彼女にとっては風景の一部でしかない。でも、いい。届かなくていい。届けるつもりもない。ただ、書き残したかった。俺がここにいたこと。彼女を見ていたこと。——誰にも読まれなくても、いい』
「……読みなさいよ、最後まで」
凛さんの声で我に返った。
「その人が何を書いていたのか。最後にどうなったのか。逃げてたら、一生もやもやするでしょ」
「でも——」
「でもじゃない」
凛さんは少しだけ遠い目をした。
「私もね、昔、似たようなことがあったの。好きな人がいて、でも何も言えなくて、そのまま離れ離れになった。後から聞いたら、向こうも私のこと気にしてたらしい。でも——もう遅かった」
「……凛さん」
「だから」
凛さんは私の目を真っ直ぐ見た。
「あんたは、逃げるな。読め。そして——自分がどうしたいか、決めなさい」
◇
その夜、私は覚悟を決めて日記の続きを読んだ。
六月、七月、八月——ページを捲るたびに季節が進んでいく。日記の中の「彼女」は変わらず毎日のように店に来ていた。そして日記の主は、変わらず話しかけられずにいた。
『八月十五日。今日、決心した。明日、話しかけてみよう。何を話すかは決めてないけど、とにかく一言。「暑いですね」でも「今日は何をお探しですか」でもいい。ただの店員の声かけ。それくらいなら、許されるはずだ。——十年後に読み返したら笑うだろうな、こんな些細なことで緊張している自分を。でもいい。笑えたら、それでいい』
八月十六日。
その日付を見た瞬間、息が止まった。
——私が引っ越した日だ。
『八月十六日。彼女が、来なかった。開店から閉店まで、ずっと待っていた。レジから目を離さなかった。扉が開くたびに心臓が跳ねた。でも、来なかった。——明日は来るだろうか』
『八月十七日。今日も、来なかった』
『八月二十五日。一週間以上、来ていない。店長に聞いてみた。「最近、セーラー服の女の子が来ませんね」と。店長は首を傾げて、「ああ、あの子? 引っ越したらしいよ」と言った。引っ越した。……引っ越した? どこに。いつ。なぜ。何も分からない。何も、教えてもらえない。俺には——最初から、何も、なかったのだから』
涙が頬を伝った。
私は知らなかった。何も知らなかった。あの日、突然母に「引っ越すから」と言われて、訳も分からないまま荷物をまとめて、次の日には知らない街にいた。父の借金だと知ったのは、ずっと後のこと。
古書店のことなんて、考える余裕もなかった。あの店員さんのことなんて、一度も思い出さなかった。
——ひどい。私は、なんてひどい。
震える手で、最後のページを捲った。日記は九月で終わっていた。最後の日付は、九月十五日。
『九月十五日。この日記を終わりにしようと思う。もう彼女は来ない。来る理由がない。俺のことなんて、覚えてすらいないだろう。でも、それでいい。俺は幸せだった。毎日、彼女を見られて。同じ空間にいられて。たったそれだけのことが、どれだけ俺の支えになっていたか。——届かなくていい。最初から、届けるつもりもなかった。ただ、最後に一つだけ。書かせてほしい。誰も読まない、この日記に。誰にも届かない、この言葉を。さようなら。君がこれを読むことは、きっとない。——ありがとう。好きでした』
日記帳を抱きしめて、私は泣いた。声を殺して、肩を震わせて、子どもみたいに泣いた。
届いたよ。届いてるよ。十年遅れで、届いてるよ——。
◇
泣き疲れて少し落ち着いた頃、私はある重大なことに気づいた。
——この人の名前を、私は知らない。
日記には名前が書かれていなかった。手がかりは「十年前」「この街の古書店で働いていた」「二十二歳」——それだけ。
私は日記帳をもう一度丁寧に調べた。そして——見つけた。裏表紙の内側、革と紙の間に小さく畳まれた紙が挟まっていた。
古びた名刺だった。
『柊書房 藤崎蒼』
柊書房。それは、私が通っていた古書店の名前だった。藤崎蒼——ふじさき、そう。この人が、あの日記を書いた人。
名前が分かれば、調べられる。会えるかもしれない。
震える指でスマートフォンを取り出した。検索窓に「藤崎蒼」と入力する。エンターキーを押す指が、一瞬止まった。
怖い。何が出てくるか分からない。もしかしたら——もういないかもしれない。
でも。
「逃げるな」
凛さんの声が脳裏に蘇る。
私はエンターキーを押した。
検索結果が表示される。最初に目に入ったのは、三年前の日付がついた記事だった。
——訃報。
『藤崎蒼氏(享年29)が病気のため死去。告別式は——』
世界が、止まった。
嘘。嘘でしょう。だって、まだ何も伝えていない。あなたの言葉が届いたって、伝えていない。「届かなくていい」なんて嘘だって、言えていない。——私だって、あなたに届けたいことがあるのに。
日記帳を抱きしめて、また泣いた。さっきとは違う涙だった。悔しくて、悲しくて、やりきれなくて、泣いた。
どれくらいそうしていただろう。
不意に、何かが落ちた。日記帳から、ひらりと。一枚の紙が床に滑り落ちた。
涙で視界がぼやけていた。でも手を伸ばして拾い上げて、目を凝らして——。
息が、止まった。
それは、古書店の買取伝票だった。この店の。私が働いている、この古書店の。
日付は——一週間前。
品目:日記帳 一点
売却者氏名:藤崎蒼
一週間前。藤崎蒼。
——生きている?
◇
翌朝、私は店に着くなり買取記録を調べた。
一週間前の伝票。売却者・藤崎蒼。連絡先——住所と電話番号が、そこにあった。住所はこの街ではなかった。電車で二時間ほどの、隣県の小さな町。
「何してんの」
背後から声をかけられて飛び上がった。凛さんだった。
私は昨夜のことを話した。日記の主の名前が分かったこと。訃報記事を見つけたこと。でも買取伝票の日付が一週間前だったこと。
凛さんは黙って聞いて、最後に深いため息をついた。
「……同姓同名の別人でしょ、訃報」
「え?」
「だって、一週間前にうちに日記売りに来たんでしょ? 三年前に死んだ人間にそれは無理でしょうが」
言われてみれば、その通りだった。混乱していて、当たり前のことに気づけなかった。
「じゃあ——」
「生きてるんじゃないの、その人」
凛さんは肩をすくめた。
「で、あんたはどうすんの。電話番号あるんでしょ。住所も分かってるんでしょ」
「でも——迷惑かも——」
「迷惑かどうかは相手が決めることでしょうが!」
凛さんがバン、とカウンターを叩いた。
「いい? 私はね、二十年後悔してんの。あの時、追いかけていれば。あの時、電話一本かけていれば。そう思いながら、もう二十年」
「……」
「でもあんたは違うでしょ。まだ間に合うかもしれないんでしょ。相手が生きてて、連絡先が分かってて、あんたには伝えたいことがある。——これ以上の条件、ある?」
私は黙っていた。凛さんの言う通りだと、頭では分かっている。でも怖い。拒絶されるのが怖い。「誰だっけ?」と言われるのが怖い。
「——でもね」
凛さんが少しだけ穏やかな声で言った。
「後悔するなら、やって後悔した方がいいよ。やらなかった後悔は、一生消えないから」
その言葉が、最後の一押しになった。
「……やっぱり、電話じゃ駄目だ」
「は?」
「電話じゃ、伝えきれない。直接、会いたい」
私は伝票をもう一度見た。住所の欄。隣県の、小さな町の名前。
「凛さん。今日、早退しても——」
「行きなさい」
凛さんはにやりと笑った。
「走れ、雨宮」
◇
電車を二本乗り継いで、二時間。私は知らない町にいた。
買取伝票の住所を頼りに歩くこと十分。目的地に着いた。
古い平屋の建物。入口には手書きの看板。
『製本工房「蒼」』
——製本工房。古書店ではなく、本を作る仕事。でも、本に関わる仕事であることは変わらない。あの人らしい——と思った。
深呼吸をして扉に手をかける。——開かない。
『本日休業』
ここまで来て、休み?
呆然としていると、背後から声がした。
「あの、何かご用ですか?」
振り返ると、若い男性が立っていた。二十代後半くらい。明るい茶髪に人懐っこい笑顔。
「あ、えっと……藤崎蒼さんに、会いに来たんですけど」
男性の表情が一瞬変わった。
「兄に? ——失礼ですが、どちら様ですか」
「兄……? あ、俺、藤崎朔って言います。蒼の弟です」
弟。この人が、藤崎蒼さんの弟。
「……雨宮栞、と言います。十年前に——藤崎さんと、同じ古書店にいたことがあって」
朔さんの目が見開かれた。
「雨宮……? ——ちょっと待って。栞って書いて、しおり?」
「……はい」
「……あなた、もしかして——『彼女』、ですか」
心臓が跳ねた。
「ご存知、なんですか」
「名前は知らなかったんですけど。でも兄が——昔、好きな人がいたって。毎日来てくれてた女の子がいたって。それ以来、兄はずっと一人なんです」
——ずっと、一人。
「日記を、読んだんです。藤崎さんが古書店に売った日記帳。それが——私が働いている店に、流れてきて」
朔さんはしばらく黙っていた。そして——小さく笑った。泣きそうな顔で。
「ああ、そうか。届いたんだ。十年かかって、届いたんだ——」
「藤崎さんは——」
「兄は、三年前に大きな病気をしたんです。その時に——もう関係ないからって、昔のものを色々処分して。日記帳も、その時に。——でも奇跡的に回復して。今はピンピンしてます」
「訃報記事を見ました。同姓同名の——」
「ああ、それ。同じ時期に同じ名前の人が亡くなって。誤解した人もいたみたいで」
「今は——」
「生きてますよ。明日には戻るんですけど——いや、待って。電話します。今すぐ戻ってこいって」
「え——」
朔さんはスマートフォンを取り出した。
「兄は、たぶん——喜ぶと思います。いや、泣くかも。いや、たぶん逃げます」
「……逃げる?」
「昔から、嬉しいことがあると逃げ出すんですよ、あの人。照れ屋なんで」
朔さんは笑った。今度は明るい笑顔で。
「でも——会ってやってください。十年待ってたんです、あの人」
◇
二時間後。
私はもう一度、あの製本工房の前にいた。
朔さんから「兄が戻りました」と連絡があった。扉の札は『営業中』に変わっている。
深呼吸をする。何を言おうか、ずっと考えていた。でも、何も浮かばなかった。いい。浮かばなくていい。とにかく、会うんだ。
扉を開けた。
工房の中は、紙とインクと糊の匂いがした。懐かしい匂いだ。古書店とは少し違うけれど、本に関わる場所に共通する、あの匂い。
奥の作業台に、人影があった。背中を向けて、何か作業をしている。長身で、少し猫背気味。色素の薄い髪が、窓からの光に透けている。
「——いらっしゃ……」
その人が振り返って、声が止まった。灰色の瞳。伏し目がちだったそれが、大きく見開かれている。
「……え」
——十年前と、変わっていなかった。
少し痩せただろうか。目元に疲れが見えるだろうか。でも、あの日記を書いた人だと、すぐに分かった。
「藤崎蒼さん、ですか」
私の声は震えていた。
「……どちら、様」
藤崎さんの声も震えていた。
「雨宮栞と言います。十年前——柊書房に、通っていました」
藤崎さんの顔から血の気が引いていくのが分かった。
「あ……あまみや……」
「日記を、読みました」
「——」
「あなたが古書店に売った日記帳。それが、私の働いている店に来て。偶然、私が見つけて」
「……嘘、でしょう」
「本当です」
藤崎さんが後ずさった。作業台にぶつかって、道具が落ちる。でも拾おうともしない。ただ私を見ている。信じられないものを見るような目で。
「なん、で——」
「分かりません。偶然です。運命かもしれないし、ただの事故かもしれない。でも——」
私は一歩前に出た。
「届きました。あなたの言葉。十年遅れで、届きました」
「……」
「『届かなくていい』って書いてありましたけど——届いてます。全部、読みました。全部、受け取りました」
藤崎さんの目に涙が滲んでいた。
「あなたが私を見ていてくれたこと。話しかけられなかったこと。私がいなくなった後も、ずっと想っていてくれたこと。——全部」
「……やめて、ください」
「やめません」
「恥ずかしいん、です。あんなもの、若い頃の、馬鹿な——」
「馬鹿じゃないです」
私はまた一歩近づいた。
「あなたの言葉は、馬鹿なんかじゃなかった。読んでいて——泣きました。嬉しくて、切なくて、どうしようもなくて」
藤崎さんが顔を覆った。肩が震えている。
「私、十年前は何も思ってなかったんです。本当に、何も。あなたのことを、ただの店員さんとしか見てなかった。だから——」
言葉が詰まった。
「——だから、ごめんなさい」
「……謝らないで、ください」
「でも——」
「あなたは、何も悪くない」
藤崎さんが顔を上げた。涙で濡れた灰色の目が、真っ直ぐ私を見ていた。
「俺が勝手に、見ていただけです。勝手に、好きになっただけです。あなたには何の関係も——」
「あります」
私は言い切った。
「今は、あります」
「……え?」
「十年前は、なかったかもしれない。でも今は——私にも、伝えたいことがあるんです」
藤崎さんが目を見開いた。
「日記を読んで、ずっと考えていました。あなたに会ったら、何を言おうって。でも、何も思いつかなくて」
「……」
「だから——これだけ、言わせてください」
私は深呼吸をした。
「十年遅れて、ごめんなさい。でも——」
「——はじめまして。雨宮栞です」
藤崎さんがぽかんとした。
「十年前は、お互い名前も知らない他人でした。だから——今日から、始めませんか。ちゃんと、知り合いとして。友達として。——その先が、あるかもしれない人として」
沈黙が工房に落ちた。
紙の匂い。窓から差す光。どこかで鳥が鳴いている。
藤崎さんはしばらく何も言わなかった。そして——。
「……藤崎、蒼です」
震える声で、そう言った。
「——はじめまして」
私は笑った。泣きながら、笑った。
十年越しの「はじめまして」。届かないはずだった言葉が、今、ここで交わされている。
「——あの」
藤崎さんがおずおずと言った。
「お茶、淹れましょうか。話、したいことが——その、たくさん、あって」
「はい」
私は頷いた。
「私も、聞きたいことがたくさんあります」
窓の外で風が吹いた。十年分の季節を飛び越えて、今、新しい物語が始まろうとしている。
誰にも届かないはずだった言葉が、届いた。誰も読まないはずだった日記が、読まれた。
——だから、これからは。
私から、届ける番だ。




