1-9
夜の稽古場は、昼とは別の顔をしていた。
客席は闇に沈み、舞台の上だけに、消し忘れたランプの光が落ちている。
彼は台本を抱えたまま、舞台袖に腰を下ろしていた。
指先で紙の端をなぞる。文字はもう、何度も身体に染み込んでいる。
足音がした。
「……あの」
振り向くと、彼女が立っていた。
昼間の稽古の時よりも、ずっと小さく見えた。
「どうした?」
「こんな時間にすみません。でも……」
言い淀み、視線を落とす。
しばらく黙ったあと、彼女は舞台を見上げた。
「……怖いんです」
それは、あまりにも素直な声だった。
彼は言葉を探したが、すぐには見つからなかった。
代わりに、隣を軽く叩く。
「座れ」
彼女はためらいがちに腰を下ろした。
二人の間には、腕一本分ほどの距離。
「初舞台、ですよね」
「はい。主役なんて、正直、まだ……」
彼女は笑おうとして、うまくできなかった。
「昼は平気なんです。みんながいると、声も出るし、身体も動く。でも……」
指先が、膝の上で絡まる。
「夜になると、急に全部が現実になって。失敗したらどうしようって、考え始めると……」
彼女の声が、少しだけ震えた。
「観客の前で、言葉が出なくなったら。動けなくなったら。……先輩みたいに、長くここにいる人でも、怖くなることって、あるんですか?」
その問いに、彼は一瞬、答えられなかった。
怖くないわけがない。
だが、それを口にするのは、なぜか違う気がした。
「……慣れるだけだよ」
彼はそう言った。
「怖さが消えるわけじゃない。ただ、慣れるんだよ、いつもやってたらいずれ慣れるんだ。」
彼女は、真剣に頷いた。
「やっぱり……先輩は、強いですね」
「強くはない」
そう言いながらも、胸の奥で、何かが静かに持ち上がるのを感じた。
「ただ、慣れただけだ」
”そうだ…私はもうこの脇役に慣れてしまっている。
だが…
その慣れは俺の中ではもう無価値に等しい。
だれかの脇に存在するよりも誰かの中央に立っていたい。”
「……よかった」
ぽつりと呟く。
「先輩がいて」
俺は、はっとした。
「誰にも、こんなこと言えなくて。団長にも、仲間にも。弱いって思われそうで……」
「でも、先輩なら……分かってくれる気がして」
その視線は、信頼そのものだった。
俺は、ゆっくりと息を吐いた。
「……舞台に立ったら、余計なことは考える暇なんてなくなるよ」
「はい」
「鐘楼を見るんだそしたら誰かが合図を送るし、
そしたら音を思い出す。」
「……はい」
しばらく、沈黙。
やがて彼女は立ち上がり、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。話せて、少し楽になりました」
その笑顔は、まだ完全ではなかったが、確かに軽くなっていた。
彼女が去ったあと、舞台には再び静けさが戻る。
彼は一人、暗い客席を見つめた。
”ああ……”
胸の奥に、奇妙な感覚が残っている。
”俺は、あの人にとって必要な存在なのだ”
それは誇りでも、喜びでもなく、
役割を与えられたという確信だった。
あの弱さを知っているのは、自分だけ。
あの震えを支えたのも、自分だけ。
ランプの灯りが、ゆらりと揺れた。
彼はその光の中で、
彼女が舞台に立つ未来を思い描きながら、なぜか自分がそこにいない光景を想像できずにいた。
その夜、彼は眠れなかった。




