1-6 崩れ
稽古場の窓から差し込む午後の光は、粉塵をきらきらと浮かび上がらせていた。
彼は舞台袖で楽譜を整理していた。主役ではあるが、次の演目では脇に回ることがすでに決まっている。そんな微妙な立場に、まだ慣れきれずにいる。
「……あ」
軽い声。振り向くと、彼女がいた。
新しく入った団員――もう“新入り”と呼ぶのもおかしいほど、今や誰もが彼女の名を知っている。
「ねえ、少しだけいい?」
彼女は遠慮がちに近づいてくる。だがその目は曇りがなく、まっすぐだった。
「どうした?」
「この場面なんだけど……私、入りの呼吸がどうしても合わなくて」
彼女は楽譜を差し出した。彼が何年も前に何度も何度も歌い、ようやく身につけた箇所だ。
「あなた、この役をやったことがあるでしょう?」
「そうだね」
「やっぱり! 団長が言ってた。ここは“経験者に聞くのが一番だ”って」
屈託のない笑顔だった。
彼の胸の奥が、少しだけ――ほんの少しだけ、温かくなる。
「ここはね、息を吸うより先に、身体を前に出す。歌は後からついてくるんだ」
「身体を……前に?」
「そう。観客に身を投げ出すつもりで
そうすれば自然にできるよ」
彼女は真剣に頷き、言われた通りに立ち位置を直す。
「こう?」
「もう少し肩の力を抜いて……うん」
彼は思わず一歩近づき、姿勢を示した。
彼女はそれを見て、ぱっと笑う。
「すごい……分かりやすい。あなた、教えるの上手ね」
その一言が、胸に刺さった。
「……そんなことはないよ」
「ううん。私ね、歌劇団に入ってから、ずっと不安だったの」
「不安?」
「だって、みんな上手でしょう?
だから……頼れる人がいるって、すごく心強い」
彼女はそう言って、少し照れたように視線を落とす。
「あなたがいてくれて、よかった」
その言葉を、彼はどう受け取ればよかったのか分からなかった。
“必要とされている”という感覚と、
“主役ではない者に向けられる信頼”という現実。
「……役に立てるならいくらでも」
「うん!
これからも、分からないことがあったら聞いていい?」
一瞬、答えに詰まる。
だが彼女はもう、彼の返事を疑っていなかった。
「もちろん!」
そう言うと、彼女は満足そうに微笑み、稽古場の中央へ戻っていく。
「ありがとう!」
その背中を見送りながら、彼は思う。
彼女は何も奪おうとしていない。
ただ、光の中を、当然のように歩いているだけだ。
それが、なぜこんなにも苦しいのか――
その答えを、彼はまだ言葉にできなかった。
その日の夜
ヴェネツィアの運河は月を映し、静かに流れている。
だが、その静けさは彼の部屋までは届かなかった。
扉が閉まった瞬間、
彼は背中を押しつけるようにして崩れ落ちた。
蝋燭の火が揺れ、
昼に食べ残したパンが机の端に転がっている。
「……俺が……」
立ち上がり、机を叩く。
「俺が……ここまで……!」
帳面を掴み、床に投げつける。
紙が散り、過去の役名、走り書きの台詞、
すべてが無意味な紙切れに見えた。
「五年だぞ……!」
椅子を蹴り飛ばす。
木が壁に当たり、鈍い音を立てる。
「五年……!
毎日、毎日……!」
「すべてを捧げた!」
喉が裂けるほど叫びたいのに、
声は掠れ、言葉にならない。
「俺は……俺は……!」
鏡の前に立つ。
そこに映るのは、
特別でも、若くもない、
ただの男だった。
「……なんで……」
拳が震える。
「なんで、あいつなんだ……!」
無邪気に笑い、
助言を求め、
感謝を向けてきた顔が脳裏に浮かぶ。
「違う……!憎む理由なんて……!」
そう思おうとするほど、
胸の奥が焼けるように痛む。
「俺が……積み上げたものを……!!」
棚を掴み、引き倒す。
埃が舞い、楽譜が床に散らばる。
「全部……!全部、踏み越えて……!」
息が荒くなる。
視界が滲む。
「努力したのに!
耐えたのに!
待ったのに……!」
床に膝をつき、
両手で髪を掴む。
「……ふざけるな!……」
声が震える。
「才能一つで……!それだけで……!
俺の全てを奪うのか!!」
笑顔で言われた言葉が刺さる。
”一緒に、いい舞台にしようね。”
「……黙れぇぇ!!」
「……ふざけるな!そんな目で見るなぁ!……」
胸の奥で、
今まで知らなかった感情が蠢く。
「……失敗すればいい!うぁぁぁぁ!……」
その言葉に、
彼自身が凍りつく。
「……あ……」
口を押さえる。
「……今、俺は……」
蝋燭の火が、ぱちりと音を立てた。
部屋は荒れ、
息は乱れ、
だが夜は何も答えない。
彼は床に座り込んだまま、
震える手で顔を覆った。
「……俺は……
主役になりたかっただけなんだ……」
その言葉だけが、
誰にも届かず、
静かな夜に溶けていった。




