1-4 白い声
数日後、歌劇団に新しい団員が入った。
「今日から入る子だ。みんな、よろしくな」
団長の一言で、稽古場の視線が一斉に集まる。
そこに立っていたのは、どこにでもいそうな若い女性だった。
派手な化粧もなく、衣装も簡素で、少し緊張した様子で頭を下げる。
「……よろしくお願いします」
声は小さい。
それだけなら、何も残らなかったはずだ。
「若いね」
「ヴェルナッツァから来たんだってさ」
「またすぐ辞めるんじゃないか?」
周囲の団員たちが、いつもの調子で囁き合う。
彼も、その輪の中にいた。
「まあ、最初はそんなもんだろ」
そう言いながら、
自分でも驚くほど、彼女から目を離せずにいた。
稽古が始まる。
彼女は端役だった。
台詞も少なく、立ち位置も目立たない。
「そこ、もう少し前」
「声、出しすぎなくていい」
指示に、彼女は素直に頷く。
そして、歌った。
その瞬間、
稽古場の空気が、ほんのわずかに変わった。
「……今の、聞いたか?」
「なんだ、あの声…」
隣の団員が、小声で言う。
彼女の声は、強くない。
だが、雑音の多い稽古場でも、不思議と音を失わなかった。
団長が、帳面から顔を上げる。
「もう一度、そこ歌ってみろ」
彼女は戸惑いながらも、同じ旋律をなぞる。
「……凄いな…」
誰かが、ぽつりと言った。
彼は、その言葉を聞き逃さなかった。
「なあ、あの子どう思う?」
「正直、当たりじゃないか?」
「覚えるのも早いしさ」
パンをかじりながら、団員たちと話す。
「でも、努力してる感じしなくない?」
「それが才能ってやつだろ」
その言葉に、彼の指がわずかに止まる。
「……最初は誰でもそう見えるだけでしょ」
そう返したが、自分の声が少し硬いことに気づいた。
「おー!嫌みか!」
彼女は、壁際で一人、水を飲んでいた。
誰とも話さず、ただ次の稽古を待っている。
それが、余計に目についた。
一週間も経たないうちに、
彼女は重要な場面を任されるようになった。
「え、もうそこ歌うのか?」
「早くないか?」
団員の一人が、半分冗談めかして言う。
「団長のお気に入りだな」
「いや、実力だろ」
「あんなの聞いたら誰だって凄いと思うだろ」
彼は、黙って聞いていた。
五年かけて覚えた動き。
五年かけて身につけたもの。
彼女は、それを一度で越えていく。
「すごいね……」
そう声をかけると、
彼女は少し困ったように笑った。
「いえ、皆さんに教えてもらってばかりで」
その言葉に、嘘はなかった。
だからこそ、胸の奥が痛んだ。
ある日の稽古終わり。
「次の公演だけどな」
団長が言う。
「彼女を主役に据える」
一瞬、ざわめきが走る。
「おお……」
「やっぱりか」
誰かが拍手をする。
それに続いて、拍手が広がる。
彼も、手を叩いた。
遅れて。
静かに。
「すごいね!」
「頑張って!」
彼女は何度も頭を下げ、
最後に、彼の方を見て微笑んだ。
「ありがとうございます。……先輩」
感謝の、何の疑いもない笑顔。
その瞬間、
彼の中で何かが、失われた。
――奪われた。
誰も悪くない。
それは分かっている。
それでも彼は、
自分が積み上げてきたものが、
音もなく崩れていくのを止められなかった。




