1-2 晴れ舞台
まだ日が昇り切っていないころ俺は家を出た。
扉を閉める音は小さく、廊下に長く残らなかった。
朝のヴェネツィアは、まだ騒がしくない。
運河を渡る風が湿り、洗濯物が壁沿いに揺れている。
人々はそれぞれの仕事へ向かい、誰も俺を見ない。
当然俺もだれも見ない。
俺は毎朝街角のパン屋で朝食と昼用のパンを買いに行く。
パン屋の木の扉を押すと、焼いた小麦の匂いが鼻を突く。
彼は銀貨を一枚、台に置く。
「いつもの白パンを2つ」
「はいよ」
そう言うと店主は少し硬めのパンを紙に包んで渡した。
出来立てだが昼のころにはどうせ冷えているから関係なかった。
外に出て、歩きながら一口かじる。
噛めば粉っぽく、味は薄い、
出来立てでなければ腹を満たしやすいという事以外になにも特筆すべき所がない。
俺と同じなのだ。
「もう少し稼いでいれば…
もう少しいいものでもかえるのだろうけど今の俺には無理だな」
そう呟いきながら歌劇場へと向かう。
劇場へ向かう途中、
裏口の前で数人の団員とすれ違う。
「おはよう」
「おはようございます!」
軽い挨拶。
それ以上の言葉はない。
稽古場の空気は、どこか張り詰めていた。
新作の初日が近い。
タイトルは「暁の運河」
舞台はここヴェネツィア、
主人公は朝を告げる鐘を鳴らすことを夢見てる船大工の青年だ。
物語は疫病や、陰謀によって揺れるヴェネツィアで最後まで人を信じ
終幕で誰もいなくなった鐘楼を自分の意志で鳴らす。
そしてその鐘と共にヴェネツィアの人々がもう一度希望を抱き終わる物語だ。
誰もが自分の立ち位置を気にしている。
自分の演じる部分を仲間と一緒に打ち合わせしていると、
団長に名を呼ばれた。
「おいおい、なんかやらかしたんじゃないのか?」
「そんなわけないだろ」
仲間に冗談を言われながら俺は団長の部屋に入る。
俺が入るのをみるなり団長は話し出した。
「主役が一人、倒れた」
彼は息を止める。
「代役が必要だ。
お前なら、歴も長いし大丈夫だろ」
「声も安定している。
動きも問題ない。
派手ではないが、変に悪い部分がないから舞台は崩れない」
団長は淡々と言う。
「初日はお前がやれ」
一瞬、意味が理解できなかった。
胸が高鳴るより先に、頭が冷える。
「……私が?いいんですか?」
あぁ…
ようやく私の夢が叶った…
主演を演じる事を夢見て5年間もここを務めてきた。
それがついに報われた!
喉の奥が、ひどく乾いた。
言葉を返そうとして、何も出てこない。
代わりに、胸の内で何かがゆっくりとほどけていくのを感じた。
「……分かりました」
ようやく、それだけを口にした。
声は震えていた。
多分嬉しさと同時に同じぐらいの責任感が俺を襲った。
「では失礼します!」
話は終わりだった。
小部屋を出ると、廊下の空気が少しだけ違って感じられた。
同じ壁、同じ床、同じ匂い。
それでも、彼の足取りはわずかに軽い。
稽古場に戻る途中、
誰かに声を掛けられることはなかった。
皆、自分の役に集中している。
主役が誰かなど、今は関係ないのだ。
「おお!帰ってきたか!
団長さんはなんて?」
同僚が話しかけてくれる。
「主演が急遽俺に変わったんだ!ついに俺の夢が叶ったんだ!」
「まじか!おめでとう!」
別の公演で主演を張っていた同僚が俺をほめてくれた。
稽古はその後も続いた。
だが彼の中で、時間の流れだけがわずかに変わっていた。
同じ台詞、同じ動き。
何度も繰り返してきたはずの場面なのに、
一つ一つが急に重く感じる。
視線の先にあるはずの鐘楼を思い描き、
足の運びを確かめ、他の仲間と舞台の流れを確認してく。
失敗は許されない。
だが、恐怖よりも「任された」という感覚が胸を支えていた。
休憩時間、彼は壁際で白パンをかじった。
朝と同じ、
味気なくむしろ冷めたから朝よりも旨く感じないはずのそれが、
なぜか少しだけ旨く感じられた。
”人の努力は報われる”
今まではただの優しい嘘だと思っていたが
今はこの言葉が本当だと思った。
夕方、照明の確認が始まり、
衣装が運ばれ、
舞台は少しずつ形を持ち始める。
自分の為にあるこの舞台…
胸の奥で、静かな熱が灯る。
――ここまで来た。
――ようやく、ここまで来た。
彼は深く息を吸い、
誰に聞かせるでもなく、心の中で言った。
こっそりと舞台裏から観客席を見るとたくさんの人たちが見に来てくれた。
仲間たちが自分たちの役の位置につき始める。
「今日は、俺が主役だな」
確認するように声を出す。
そう言うと舞台の幕が上がり始める。
思い切り息を吸い込む。
足を半歩出し、両手をなるべく開いて希望を表現しつつ喉に力を込める。
…怖くなってきたな…
だけどそれ以上に…
楽しみだ…
「さあ!今日も素晴らしい一日の始まりだ!」




