1-13 終演
その朝は、あまりにも普通だった。
彼はいつも通り目を覚まし、顔を洗い、白パンをかじった。
窓の外では、水面が静かに揺れている。
風は弱く、鐘の音もまだ遠い。
「今日か」
声に出す必要もなかった。
心は、驚くほど落ち着いていた。
劇場へ向かう道すがら、誰もが彼に挨拶をした。
「おはようございます」
「今日は満員だそうですよ」
「彼女、緊張してないみたいですね」
どの言葉も、穏やかで、善意に満ちている。
稽古場は静かだった。
最終確認だけが淡々と進み、誰も大声を出さない。
彼女は舞台中央に立ち、深く息を吸う。
完璧だ。
声も、姿勢も、表情も。
「じゃあ、本番で」
団長の一言で、全員が動き出す。
彼女が彼の横を通り過ぎるとき、足を止めた。
「……来てくれますよね、最後まで」
「もちろん」
それだけで十分だった。
彼女は微笑み、舞台袖へ消える。
幕が上がる。
彼は袖から舞台を見つめていた。
観客のざわめきが、遠い波のように聞こえる。
彼女は、完璧だった。
一音も揺れず、感情は溢れ、
観客は彼女の一挙手一投足に息を呑む。
彼は拍手をした。
誰よりも早く、誰よりも強く。
——支える者として。
終幕。
割れんばかりの喝采。
彼女は深く一礼し、顔を上げる。
その瞬間、彼と目が合った。
彼女は、笑った。
あの夜と同じ、
怖さを隠すための笑顔ではない。
全部を信じきった笑顔だった。
舞台が終わり、楽屋へ戻る廊下。
人の波が引いたあと、静寂が戻る。
「少し、話せる?」
彼女が言う。
「……はい」
楽屋の扉が閉まる音は、驚くほど小さい。
「成功しまね」
「ええ……」
彼女は椅子に腰を下ろし、息を吐いた。
「怖かったけど……でも、楽しかった」
彼を見上げて、微笑む。
「あなたがいてくれたから」
その言葉は、祈りのようだった。
疑いのない、まっすぐな感謝。
「私、ちゃんと終われましたよね?」
彼は一歩、近づく。
「はい」
声は、静かだった。
「……もう、大丈夫ですよね」
彼女は笑った。
肩の力を抜いた、無防備な笑顔。
その笑顔を、彼は見つめる。
——舞台は終わった。
——恐怖は終わった。
——彼女は、もう怯えなくていい。
「ええ」
彼は、優しく答えた。
「もう、何も怖くない」
彼女は安堵したように目を伏せる。
その瞬間、
世界は、驚くほど静かだった。
外では、夜のヴェネツィアが何事もなかったように息をしている。
運河は揺れ、風は湿り、
誰も、この楽屋の中を知らない。
彼女は、最後まで笑っていた。
静寂が戻った。
それが、最初におかしいと感じたことだった。
息が荒れているのは、自分だけだった。
心臓の音が、やけに大きく響く。
彼は立ち尽くし、
自分の両手を見下ろす。
震えている。
止まらない。
「……あ……?」
喉から漏れた声は、
自分のものとは思えないほど、かすれていた。
さっきまで確かにあったものが、
もう、どこにもない。
あるのは赤色と空虚な目
「……違う……」
一歩、後ずさる。
「こんなはずじゃ……」
頭の中で、
あれほど何度も繰り返した言葉が、
今は一つも形にならない。
彼女の声が、思い出される。
――「ありがとうございます」
――「あなたがいてくれたから」
その言葉が、
今になって、
刃のように胸に突き刺さる。
「……やめろ……」
耳を塞ぐ。
だが、声は内側から響く。
彼女は笑っていたはずだ。
穏やかな夜だった。
終わったと思っていた。
なのに。
「……俺は……」
床に膝をつく。
世界が、急に現実を取り戻す。
朝が来る。
人が来る。
彼女の名が呼ばれる。
「……俺は……」
言葉にならない。
胸を掴み、
呼吸を探すように、
何度も空気を吸う。
涙が出る。
止まらない。
それは後悔でも、恐怖でも、
もう名前のつけられない何かだった。
「……戻れない……」
初めて、
はっきりと理解する。
彼女は、もう舞台に立たない。
彼は、もう歌えない。
代役も、夢も、希望も——
すべて、ここで終わった。
正気が、完全に戻った瞬間だった。
だからこそ、
耐えられなかった。
彼は立ち上がる。
足取りはふらつき、
何度も壁に手をつく。
「……せめて……」
誰に向けた言葉でもない。
「……この命をもって……」
それは、
赦しを乞う言葉でも、
言い訳でもなかった。
ただ、
一人になることへの、耐え難さだった。
夜明け前、
ヴェネツィアはまだ眠っている。
鐘は鳴らない。
風も静かだ。
彼は、最後に一度だけ、
舞台の方向を見る。
かつて夢見た場所。
奪われ、壊し、
そして、自分で踏み潰した場所。
「……さあ……」
かすれた声で、
誰にも届かない言葉を残す。
「……終わりだ……」
その後、
彼の声を聞いた者はいない。




