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歌劇団の囚人  作者: 青識or惣菊


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12/14

1-12

夜は、前よりも静かだった。

舞台が成功してから、彼女は強くなった。少なくとも、皆の前では。


だからこそ、その夜に彼女が稽古場の隅で立ち尽くしていたことは、彼にとって“異常なほどの恩寵”だった。


「……ごめん。こんな時間に」


彼女は笑おうとして、うまくできなかった。

照明の落ちた稽古場で、舞台用の床だけが白く浮かんでいる。昼間には拍手と喝采を浴びた場所だ。


「怖いの」


小さな声だった。

前に聞いた「怖いんです」とは違う。あの夜は、すがるような弱さだった。

今夜のそれは、誰にも見せてはいけないと分かっている人間の、ぎりぎりの告白だった。


「皆が期待してる。失敗しないって信じてる。

でも……私、もし明日、声が出なかったらどうしようって」


彼女は自分の腕を抱いた。

その仕草が、彼の中で“守るべきもの”ではなく、“囲うべきもの”に変わった瞬間だった。


——ああ、やっぱり。


安堵に近い感情を覚えてしまった。


彼女は完璧じゃない。

舞台の上では神話みたいに輝いていても、夜になると、こうして壊れかける。


「それ、誰にも言ってないよね」


声は穏やかだった。

その穏やかさが、彼自身を安心させた。


「……うん。あなたにだけ」


その言葉が落ちた瞬間、何かが確定した。


彼女の弱さは、俺だけに向けられている。


「大丈夫だよ」


彼は言った。

だがその言葉の意味は、もう“支える”ではなかった。


「もし、何かあっても……誰も、

君の代わりなんてできない」


嘘だ本当は君よりも俺の方がうまく演じられる。


彼女はその意味を深く考えなかった。

疲れていたし、信じたかった。


彼女は少し笑って、「ありがとう」と言った。


その「ありがとう」は、以前のように刃ではなかった。

けれど彼の中で、それは鎖になった。


——弱い君を知っているのは俺だけ。

——強い君を見ていいのは世界だけ。


その分断が、彼の中で美しく整列していく。


その夜、彼は初めてはっきりと想像する。

舞台に立つ彼女ではなく、

舞台から降りた後の彼女が、二度と誰にも弱さを見せられなくなる未来を。


それはまだ、罪ではない。

ただの願望で、ただの独占欲で、ただの歪みだった。


——でも、彼はもう知ってしまった。


彼女は壊れる。


壊れなければならない


そして壊れる瞬間に立ち会えるのは、自分でありたい、と。






翌日も、舞台は成功した。

成功しすぎるほどに。


彼女は一切の揺らぎを見せなかった。

声は澄み、動きは正確で、感情は完璧なタイミングで観客に届く。

昨夜の「怖いの」という言葉など、どこにも存在しなかったかのように。


拍手は波になり、嵐になった。


彼は舞台袖で、それを見ていた。

支える者として。

代役ではなく、主役でもなく、ただ“そこにいるべき人間”として。



拍手の後


「この舞台は、私一人では立てませんでした」


よくある言葉。

安全で、正しくて、誰も傷つけない感謝。


「特に、いつも一番近くで支えてくれた人がいます」


観客がどよめく。

彼は、その瞬間に悟ってしまった、その言葉が向かう先を。


「不安な時も、迷った時も、

“大丈夫だ”って言ってくれた人です」


スポットライトが、彼に向く。


逃げ場はなかった。

拍手が、彼の役割を固定する。


——支える者。

——見守る者。

——代わりにはならない存在。


その夜、祝賀の席を抜けて、彼は一人で部屋に戻った。

照明もつけず、暗いまま椅子に座る。


彼女の言葉が、頭の中で反芻される。


「大丈夫だって言ってくれた人」


それは事実だった。

だが同時に、それは彼女が彼をそこに閉じ込めた言葉でもあった。


もし彼が崩れたら?

もし彼が舞台に立ちたいと言ったら?

もし彼が、代役として名乗りを上げたら?


——その時、彼女は同じ声で「ありがとう」と言うだろうか。


彼は、考え始める。


代役とは何か。

失敗のために用意される存在。

主役が立てなくなった時にだけ、許される立場。


つまり——

主役が立てなくなれば、代役は“正当な主役”になる。


その論理は、あまりにも静かに、彼の中に根を張った。


彼女の顔が浮かぶ。

昨夜の、震える声。

誰にも見せない弱さ。


——あれを、もう一度。


いや、違う。

もう一度では足りない。


永遠に、あの弱さだけが残ればいい。


舞台の上の彼女はいらない。

観客の前の彼女もいらない。


必要なのは、

「怖い」と言って、彼を見上げる彼女だけだ。


彼は、初めて自分の考えを言葉にしてしまう。


「……俺が、終わらせてあげればいいんだ」


それは怒りでも、憎しみでもなかった。

救済の顔をした結論だった。


——彼女は疲れている。

——期待に潰される。

——なら、舞台から降ろしてあげればいい。


その瞬間、彼の中で何かが静かに整った。


殺す、という言葉はまだない。

だが「戻す」「守る」「終わらせる」という言葉が、

すべて同じ意味を持ち始めていた。


彼は窓の外を見た。

劇場の灯りは、もう消えている。


明日、彼女はまた笑うだろう。

強く、完璧に。


——それが、最後だと知らずに。

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