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歌劇団の囚人  作者: 青識or惣菊


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10/12

1-10

翌朝、稽古場はいつもより早く動き出していた。

照明の最終確認、衣装のしわ直し、楽士たちの音合わせ。


彼はいつもの場所に立ち、いつものように台本を開いていた。

指は落ち着いている。顔も平静だ。

少なくとも、外から見れば。


「おはようございます!」


明るい声が響いた。

彼女だった。


昨日の夜の面影は、どこにもない。

背筋は伸び、歩幅は軽く、視線はまっすぐ舞台を見ている。


「……おはよう」


そう返すと、彼女は一瞬だけ立ち止まり、にこりと笑った。


「昨日は、ありがとうございました。おかげで、よく眠れました」


その言葉は、礼儀正しく、軽やかで、

もう頼る必要のない人間の声音だった。


彼は何も言えなかった。


開演前。

幕の裏で、団員たちが位置につく。


彼女は深呼吸を一つしただけで、震えもしない。

手も、声も、驚くほど静かだった。


(……本当に、怖くないのか)


そう思った瞬間、鐘の音が鳴る。


幕が上がる。


彼女は舞台に出た。


一歩目で、空気が変わった。


声は澄み、よく通り、

動きは自然で、無駄がない。

感情は過剰でも不足でもなく、

まるで最初からそこに立つために用意されていたかのようだった。


観客が、ざわめく。


彼は舞台袖から、それを見ていた。


台詞が、完璧だった。

間の取り方も、視線の配り方も、

昨日まで彼が教えたはずのものが、

彼の想像を越えた形で使われている。


(……俺がいなくても)


その考えが浮かび、慌てて振り払う。


だが、舞台は進む。


終幕。

鐘楼の場面。


彼女は一瞬、天を仰ぎ、

迷いなく、声を張り上げた。


その声に、観客が息を呑む。


鐘が鳴る。

拍手が、割れるように起こった。


カーテンコール。


彼女が中央に立つ。

光を浴び、深く頭を下げる。


観客の視線は、彼女だけに注がれていた。


彼も、舞台に出る。


隣で彼女が微笑む。

誇らしげで、晴れやかで、

昨夜の涙など最初から存在しなかったかのように。


拍手が続く。


彼は、手を叩いた。


叩かなければならなかった。


主役を支える者として。

先輩として。

舞台の一部として。


(……ああ)


拍手の音に紛れて、胸の奥で何かが音を立てて崩れる。


(俺は、もう――)


彼女は、成功した。

完璧に。


そしてその瞬間、

彼は初めて、舞台の上で「必要とされていない自分」をはっきりと理解してしまった。


”脇役でもなくなった。



拍手は、いつまでも鳴り止まなかった。


幕が下りても、拍手はすぐには止まなかった。

客席からは歓声が混じり、誰かが彼女の名を呼ぶ声がはっきりと聞こえる。


「すごかったな……」


舞台袖で、誰かがそう呟いた。


「初公演で、あれは反則だろ」


「次も彼女で決まりだな」


軽い笑い声。

悪意はない。

ただの事実確認のような口調だった。


彼は衣装のまま、動けずにいた。


彼女は楽屋へ向かう途中で立ち止まり、彼の方を振り返る。


「先輩」


その声は、舞台の上と同じくらい澄んでいた。


「ありがとうございました。昨日、教えてもらった通りにやったら……本当に、何も怖くなかったんです」


彼は、喉が詰まるのを感じた。


「先輩がいなかったら、私、きっと――」


「……よかったな」


それだけ言うのが、精一杯だった。


彼女は満足そうに頷いた。


「はい!次は、もっと良くなれる気がします」


その「次」が、

彼のことを含んでいない未来だと、

彼女自身は気づいていなかった。


楽屋では、団長が彼女の肩を叩いていた。


「見事だった。観客の反応も上々だ」


「ありがとうございます」


「しばらくは、この配役で行こう」


その言葉が、静かに決定される。


誰も、異を唱えない。


彼は少し離れた場所で、その光景を見ていた。

拍手の中心から、半歩外れた位置。


「……ああ、先輩」


通りすがりの団員が、何気なく声をかける。


「今日は助かりました。彼女、初日とは思えない出来でしたね」


「そうだな」


「やっぱり、時代は若さですよ」


冗談めかしたその言葉に、

誰も傷つくつもりはなかった。


だが、彼の胸の奥で、何かがはっきりと音を立てる。


(俺は――過去か)


その夜、彼は一人で部屋に戻った。


ランプを灯し、衣装を脱ぎ、

いつものように椅子に腰を下ろす。


静かだ。

昨日と同じ部屋。

同じ壁、同じ床。


それなのに、

まるで舞台だけが遠くへ行ってしまったような感覚があった。


彼は、台本を開く。


彼女の台詞。

彼女の場面。


そこに、自分の名前はない。

少なくとも今までなら脇に代役として俺の名前が書かれていたはずなのに…


(……もし)


ふと、考えてしまう。


(もし、あの一瞬で、声が裏返っていたら)


(もし、鐘の前で、足が止まっていたら)


その想像は、すぐに胸の奥へ沈めた。

だが、一度浮かんだ影は、消えなかった。


彼は台本を閉じ、闇の中で目を閉じる。


拍手の音が、まだ耳に残っている。


それは祝福だった。

だが同時に、

彼を舞台の外へ押し出す合図のようにも聞こえていた。

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