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 日本の西国には、その土地に昔から伝わる妖怪と、妖怪使いがいる。


 地方によってさまざまに呼び方が変わり、姿形も操り方も違ってはいるが、共通点をまとめてみれば、それは『犬神』という名に収束する。


 いわゆる、邪神の類である。


 なんとかとハサミは使いよう。古来より人間はその邪神を自分たちに利する存在にするよう、巧みに操ってきた。

 もちろんそのためには特殊な能力が必要である。

 その能力を磨くための修行もせねばならない。能力者は村の雑事を免じられ、犬神を使役することだけに全生涯を費やすことになった。


 能力は遺伝しやすい。

 やむなく、一族としてその仕事を引き受けるようになった。


 そこから嫉妬が生まれ、得体の知れぬものに対する恐怖が味付けに加わった。

 やがて犬神の一族は村から忌避されつつも、必要悪として特権をも与えられる存在となったのだった。


「犬伏の、一族……!」


 老人が呻いた。


「くそっ」


 フォウが構えを取りながら悪態をついた。


「どうりで! 真一くんの家に漂っていた妖気の正体はこれだったのか!」


 それを聞いて和彦も思い出した。フォウはあの家に入ってからずっと、落ち着かない様子で朽ちた部屋のあちこちを確かめて回っていた。

 犬神使いの一族が長く住んだ屋敷だ。

 主を失っても、その痕跡は残されていたのだろう。


 けれども、犬神の本体は。


「なぜこの家に移されていたんだ?」


「さあな。けど、想像はつくぜ」


 真一は四つ足で床に伏せ、目を真っ赤に光らせている。顔つきもその姿も、ついさっきまでの小学生とはまるで違っている。

 その真一と対峙しつつ、フォウが言った。


「おそらくは、真一くんのお母さんのしわざだ。犬神一族のしがらみから逃れるため、村を逃げ出す前に、このニセ札づくりの家へ、犬神を封じた甕を放り込んでいったんだ。

 ここなら村人は誰も寄り付かない。ニセ札を守ろうとする連中が、犬神の甕も守ってくれる……。

 ちっくしょう、さすがは先祖代々からの使い手がほどこした封印だぜ。この俺も、封印が破られるまではこれほどの妖気に、まったく気が付かなかった」


 そうして、甕から解放された犬神の前には。

 おあつらえむきに、一族の末裔がいたというわけである。


「真一くん!」


 無駄を承知で和彦は叫んだ。


「正気に戻るんだ、真一くん!」


 すさまじい咆哮が和彦に応えた。

 あの小さくて臆病な真一の喉から出た声とは、とうてい思えなかった。

 

 けれどもすでに真一は、顔つきばかりか姿まで変化しつつある。全身から毛が生えて全身を覆い、唇の両端からは鋭い牙が突き出している。何度も床をひっかく両手両足には、ぞっとするような爪が伸びていた。


 狼男。


 西洋ではそう呼ばれそうな、禍々しい姿である。暗闇に光る目には、狂気の光が満ちている。


「おいっ、じいさん!」


 マッチの火を腕で回転させながらフォウが肩越しに後ろの老人へ怒鳴った。


「俺は日本の妖怪のことはよく知らねえんだ。あんたの知ってるだけのことを教えろ! 犬神ってなあ、どんな力を持つんだ! どうやって操り、弱点はなんだ!」


「し……知るものか!」


 老人が泣き声まじりで叫び返した。


「それを知るのは犬伏の家の者だけよ! わしらはただ、やってほしいことがあるときに犬伏の家へ伝言すればよかった。田畑の虫をよその村へ追い払うことから、わしらの村へ入り込もうとした夜盗の征伐。他にも、村に仇なか誰かを呪い殺したり、近隣の村から欲しいものを盗みとったり……わしらが直に手を出したくない荒事は全て、犬伏の家が請け負うことになっておったのだ」


「さいっ、てー!」


 フォウが吐き捨てた。


「そんだけやなことを押し付けといて、自分らはその家系を馬鹿にして差別してたってのかよ? あんたらまさに、珊瑚ちゃんのいう因習村ってやつだったんだな!」


 その憤りには和彦も共感できたが、だからといって現状がどうなるわけもない。

 真一には犬神が憑りついてしまっており、その真一は制御の方法を伝授されていないのである。


 というよりも、知識を持つ者はすでにこの世に誰一人残っていないのだ。


「まずいぜ、和彦さん」


 フォウが小声で言った。


「長年の間、人間から一方的に使役され続けた妖怪ってのは、それだけでもずいぶんな鬱屈をため込んでるんだ。そいつがだしぬけに自由の身になって、自分たちをこき使ってきた憎い一族の体を操る機会を得た。

 そしたら、何を始めると思う?」


 答えるまでもなかった。


 復讐だ。


 犬伏の一族に。村人に。人間に。

 真一の体を乗っ取った犬神は、暴れ放題に暴れて、何百年にも渡る鬱憤を晴らそうとするだろう。


 それも怖いが、何よりも。


「そんなことをされたら、真一くんの体が持たない……!」


 なんの修行もしたことのない、一族の血が流れているというだけの幼い子供なのだ。犬神のやりたい邦題の大暴れに、いつまでもつきあってはいられまい。

 魂を食いつくされる前に、肉体が壊れてしまう。


 止めなければ。


 しかし、どうやって? 和彦はもちろんフォウでさえ、犬神については何ひとつ知らないというのに。


「やあああっ!」


 炎を両の拳にまとわらせ、フォウが犬神に殴りかかった。

 犬神が大きく飛びずさろうとするのを許さず、炎を投げ縄のように伸ばして真一の胴体に巻きつける。

 力任せにひき戻し、床に転がした。


 がああ、と犬神が吠えた。


 床を転がりまわることで、逆にフォウの炎を蹴散らす。かと思うと、パッと壁を蹴って斜めに跳び、フォウの二撃目をかわした。


 速い。

 ものすごいスピードだ。これが犬神の能力のひとつか。


 フォウが態勢を入れ替えて犬神のほうを振り返るが、そのときにはすでに、犬神は天井へ飛び上がっている。さかさまになって天井を駆ける。ぐわんと両足が屋根板を突き破り、剥き出しになった梁を蹴り壊す。


「フォウくんっ、危ない!」


 なだれかかってくる構造材の下から、和彦は間一髪でフォウを横抱きにして脱出した。


「水よ!」


 さきほどの甕からこぼれた水を呼ぶ。剣の形にして、今しも飛び掛かってこようとした犬神の足を薙ぎ払った。

 ずでんどうと犬神が倒れる。

 しかし、ダメージは大きくない。真一を傷つけないようにと、剣には刃先をつけなかったからだ。


 犬神はすぐに跳ね起きた。

 ぶるんと全身を振るって、長い遠吠えを響かせる。


「くそっ、これじゃどうしようもないぜ!」


 なおも向かってくる犬神に、フォウが炎を幾つもの塊にして次々とぶつけた。犬神はギャンと鳴いてひるんだ。元は獣だけに、炎は怖いようだ。

 だからといって、真一の体ごと炎で焼き払うわけにもいかない。だから、相手がひるんだのを確かめたら、炎はすぐに消さねばならない。


「どうする、和彦さん!」


「とにかく犬神を真一くんの体から引っ張り出さなければ! フォウくん、何かいい手はないのか」


「そんな簡単に言うなよ」


 さしもの霊幻道士も途方に暮れている。


「ただでさえ、よその国の妖怪なんだぜ。俺の使う呪文が通用するかどうか……」


「とにかく、やってみるしかないだろう!」


「おっしゃるとおり!」


 腹をくくったらしいフォウが、ぐいと両脚を広げて立った。

 両手の人差し指の端を歯で食い切り、ほとばしった血で空間に複雑な文様を描き始める。低い声で呪文を唱えている。


 その間に和彦は再び水を呼び集めた。今度は剣ではなく、鞭の形にして大きく振りかぶる。

 フォウの呪文が完成するまでの時間を稼ぐためだ。


「来い、犬神!」


 挑発した。

 鼻先で水の鞭をジグザグに振ってみせる。

 苛立った犬神が、鞭の動きにつられて右へ左へと吠えかかった。跳びついてくるのを、きわどいところで鞭を引き上げてかわす。

 返すもう一方の手で、氷のつぶてを作って背中へ叩きつけた。


 和彦の背後の空気が、ぐわんと熱さを増した。

 フォウの唱える呪文が絶え間なく聞こえている。それにつれて、室内に紅の輝きが満ちてくる。


 しかし、和彦に翻弄されている犬神は、頭に血が昇っていてそれに気付かない。気付かないまま、次第に紅の空気で包囲されていく。


「破!」


 フォウが鋭い気合を飛ばした。


 とたんに、四方八方へ広がった紅の文様が、一気に犬神へ襲い掛かった。

 全身にまとわりつき、締め上げる。


「があああ!」


 犬神がもがいた。


「ほうら、その体から出てきやがれ!」


 両手で呪術の印を作ったままのフォウが、食いしばった歯の間から唸った。

 ギリギリと歯のきしむ音まで聞こえる。両手も両足も小刻みに震えている。渾身の力で、真一の体から犬神を押し出そうとしている。


 真一の体が歪み、点滅しているかのように脈動した。

 苦し気な犬神の姿と、もっと苦し気な真一の顔が二重写しになる。


「フ、フォウくん!」


 和彦は不安の声を漏らした。


「こんなことをして、大丈夫なのか真一くんは」


 フォウに返事をする余裕はない。少しでも力を緩めたら、犬神のパワーに押し返されてしまうのだろう。

 

それでも、犬神が真一の姿に戻っていくにつれ、彼の苦しみようがはっきりと見て取れるようになった。


「あ、あ」


 獣の叫びに、人間らしい呻きが混じり始める。

 そしてついに。


「や、やめ……やめ、て……」

 紛れもない、真一の声。


「やめ……、フォウ、くん」

 

 ウッとフォウがたじろいだ。

 呪文が弱った。


「フォウくんっ!」


 とたんに犬神が真一の体へ、さらに深くもぐりこんだ。

 一声吠えると、フォウに襲い掛かる。


 呪文に全力を注ぎ込んでいたフォウは動けない。きわどいところで直撃は避けたが、鋭い牙を肩口に打ち込まれ、仰向けに倒れる。


「フォウくん!」


 和彦は水の鞭で打ちかかった。犬神の首に鞭を巻きつけ、思い切り引き戻す。牙がフォウの肩から抜けて、傷口から派手に血がほとばしった。


 それでもなお、犬神はフォウを攻撃しようとしている。

 首に鞭を巻かれた状態のまま、暴れながら、両手両足の爪でフォウをひっかく。間一髪でフォウは身を引いたが、ジャケットを爪にひっかけられた。


 引き裂かれたジャケットから、色とりどりのものが周囲にまき散らされた。フォウが子供に配るといっていた、ポケットいっぱいの駄菓子である。


 と、そこで。

 犬神の動きが変わった。


 自分の周りに転がった駄菓子に目を丸くして、くんくんと臭いを嗅ぎ始めたのである。こうなると、まさに犬っころだ。目を輝かせ、がつがつと食べ始めた。


 今がチャンスよ。


 声がした。


 和彦でもフォウでもない。ましてや、真一でもない。

 知らない女性の声だった。


 犬神は常に飢えている。へそを曲げて甕から出てこようとしないときは、食べ物でつって引っ張り出すの。


 声はなおも語った。

 どこからともなく、という表現がふさわしかった。耳のそばで囁いているようにも、天の向こうから話しかけているようにも聞こえる。か細い、震えるかすかな声。けれどもその声の中には、はっきりとした憂いの響きがある。


 異国の妖怪ハンターさん。お願い、真一を助けて。


「……合点承知!」


 肩口から血を流しながらも、フォウが瞳をきらめかせて跳ね起きた。

 手近に転がっていた駄菓子をわしづかみにし、袋を破いてさらに遠くへ放り投げる。まき散らされた色とりどりの駄菓子。中には魚の干物の加工品もあったようで、美味しそうな臭いまでが犬神を誘った。


「和彦さん、今だ! 真一くんの体を押さえてくれ! しょせんは犬っころの妖怪だ、目先の欲に負けて、中から飛び出すに違いねえぜ!」


「わかった!」


 駄菓子に跳びつこうとする犬神の胴体に、和彦は水の鞭を絡ませた。中身を降り出すかのように、タイミングを合わせて思い切り引いた。


 ぽおん、と真一の目から何かが飛び出した。


 ひとつだけではない。何匹もの小さな犬だ。どの犬にもぶち模様がついている。

 犬とはいったが、尻尾の先は二股に割れ、口は鳥のくちばしのように尖っていた。そのくちばしを広げて、たあいもない駄菓子を必死で追いかけ始める。がつがつと食い荒らす。


 これが犬神の本体か。


 それにしても、相変らず動きはとてつもなく素早かった。

 まとまって真一の体内にいたときも稲妻のようだったが、小さな本体となった彼らの動きはさらにすごいスピードだ。駄菓子という目的物があるから把握できているものの、食べつくしてしまえば、この幾つもの犬神がてんでバラバラに走り回り始めるのだろう。

 そうなったら、もう捕捉するのは不可能だ。

 駄菓子がつきかければ、食べ損ねた何匹かはまた、真一の体に戻ってくることも考えられる。居心地のいい、先祖代々からの犬神の一族の体内へ。


「和彦さんっ!」


 フォウがひときわ大きな炎を巻き起こした。


「やつらの動きがはっきり俺たちの目に見えてる今のうちに、そいつらをまとめて凍らせてくれ! 動きを止めてしまうんだ!」


「わかった!」


 水の鞭はぶうんと空中でうなると、投網の形となって犬神たちの上に覆いかぶさった。

 犬神たちはまだ夢中で駄菓子をむさぼり食っている。

 和彦がリューンの腕輪に念をこめると、網目の隙間にも氷の幕が広がり、犬神たちを包み込んだ。

 リューンの腕輪が輝く。犬神たちが凍り付いていく。


「今だ、フォウくん! 頼むぞ!」


「おう!」


 フォウの炎が轟音と共に放たれた。


 竜巻のように回転しながら、まっすぐに和彦の作った氷の罠へ向かっていく。

 犬神を包んで塊となった氷の全体を包み込んだのと同時に、和彦が表面の氷を溶かし、凍った犬神の姿を剥き出しにした。


 呪文を内部に含んだ炎が、犬神を取り囲む。


 焼きつくす。


「おお……おおお……」


 唖然とする老人をよそに、和彦は真一を急いで抱き上げた。

 真一は揺さぶられても目を覚まさず、ぐったりとしている。手早く触診してみただけでも、あちこちの骨が折れている嫌な感触もある。

 それでも、かろうじて息はしている。和彦はホッと&の息をついた。

 

「か……和彦さん」


 力を使い尽くしたフォウが、がくりと膝をついた。驚いて振り返った和彦に、しかし彼は首を振ってみせる。


「俺のことはいい。早く、真一君を病院に」


「だが……」


「俺にかまけて真一くんを後回しにするようなら、俺ぁ和彦さんを軽蔑するぜ」


 そこまで言われては、どうしようもない。

 和彦は真一を抱き上げ、しぶしぶ立ち上がった。


「いいか、フォウくん。真一くんを病院に運んだら、必ず戻ってくる。だから、それまでは勝手なことをしないで、ここで待っているんだぞ」


「そうは言ってもさ、和彦さん」


 苦しげに息を吐きながらも、フォウは悪戯っぽく片目をつぶってみせた。


「二台目の救急車が来てくれたら、俺がそれに乗るのは許してくれるだろ?」


 和彦はきょとんとした。


「救急車だって? どうやって、誰が呼ぶんだ?」


「そりゃあもう、いまだに腰をぬかしてあそこに隠れてるクソジジイが、幽霊の演出に使ったスマートフォンを使って呼んでくれるに決まってらあ」

 老人が瓦礫の向こうで、驚きのあたまりぴょんと跳ねた。

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