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8 約束事

 大きな鉄門を抜けた先には、伯爵邸とは比べ物にならないほどの豪華な城のような屋敷があった。

 白を基調とした荘厳な公爵邸は優美で、大理石で作られた石柱が正面のバルコニーを支えている。

 前庭には綺麗に整えられた生け垣と季節の花――今は大輪のバラが彩りを添え、その中央には優雅な曲線を描く噴水が水を高く吹き上げていた。


 正面玄関の前でハルトヴィヒのエスコートを受け、エリシアは馬車から降りた。


「ようこそ、リヴェール嬢。今日からここが君の家だ」


 エリシアは新居となる屋敷を見上げる。

 アルベルト公爵家といえば、イベルタ王国で歴史ある公爵家の一つである。先代の頃こそ没落寸前であったが、元々は歴史ある由緒正しき家柄だ。それを象徴するかのようにこの城のような屋敷は堂々と構えている。

 時を重ね威厳を刻み込んできたような新居を前に、エリシアはこの場に足を踏み入れることさえ躊躇うほど、分不相応だと感じた。

 そもそも、昨日突然プロポーズされ今朝婚姻誓約書を結んだばかりだ。そのままその足で来てしまったが、アルベルト公爵家側は準備できているのだろうか。婚約した当日に婚約者を連れ帰るなど、前代未聞のことだろう。


「さあ、おいで」


 ハルトヴィヒが先を促した。

 金の装飾が施された重厚な扉を通り抜ける。屋敷に入ると使用人がずらりと並んで、主人の帰りを出迎えていた。

 ハルトヴィヒは手を挙げると、二人の人物が一歩前へ出てきた。一人は白髪の長身で眼鏡をかけており、黒のモーニングコートに身を包んだ老紳士で、もう一人は黒のロングドレスを身に着けた壮年の女性だ。

 二人は恭しく頭を下げる。


「紹介しよう。婚約者のエリシア・リヴェール嬢だ」

「よろしくお願いいたします」


 『婚約者』という慣れない響きに居心地の悪さを感じる。

 相変わらず顔に笑みは浮かべられない。無愛想で鉄のように冷めた表情のまま挨拶をした。きっと第一印象は最悪だろう。


「この屋敷の家令であるブルーノと侍女長のベルタだ」

「奥様、お待ちしておりました。どうぞよろしくお願いいたします」

「奥様、よろしくお願いいたします」


 白髪の老紳士がブルーノ、壮年の女性がベルタという名前らしい。二人は無表情なエリシアを見ても怪訝な顔ひとつ見せず、その顔に笑みを浮かべた。

 急に決まった話だというのに、アルベルト公爵家の他の使用人にも動揺は少しも見られない。さすがは公爵家の使用人だ。たとえ胸の内で思っていたとしてもそんな素振りを少しも見せないのは、主人に対する忠誠心の現れだろう。完全無欠の若き公爵閣下は使用人からも一目置かれているようだ。

 それはいいとして、一つだけ訂正しておきたい。


「まだ奥様では……。どうか、エリシアとお呼びください……」

「承知しました、エリシア様」


 まだ『婚約者』である。いや、そもそも本当に婚約したのかも信じられないくらいなのに、それをすっ飛ばして『奥様』はいたたまれない。エリシアは気まずさのあまり消え入りそうな声で願うと、二人は気を悪くすることもなくどちらかといえば幼子を温かく見守るような優しい微笑みを浮かべた。気づけばこのホール全体がそんな温かい空気に包まれているような気がする。嫌われるよりはマシだが、この雰囲気はなんだか身の置きどころがない。

 この場の空気を変えようと、一歩後ろを振り返る。見慣れた侍女の顔を見て少し気持ちが落ち着いた。


「後ろに控えているのは、私の侍女のチェルシーです」


 エリシアの背後に控えていたチェルシーが、背筋を伸ばし深く一礼した。その姿は馬車で明るく努めていた彼女から一変、まるでシェリーを見ているかのような責任感と落ち着きを纏っていた。思わず感嘆の声が漏れた。エリシアも心のなかでは鼻高々である。

 まさかこの侍女が、エリシアを見て鼻血を垂れ流していたとは到底思えないだろう。

 実際にブルーノとベルタの印象も悪くないように見える。チェルシーを見ても、シェリーのように眉を顰めることも唇を引き結ぶこともしていない。

 一通り挨拶を終え、チェルシーはベルタに公爵家での仕事を教わることになった。

 チェルシーはにこりと微笑むことも愛想良くすることもできない、鉄仮面のような可愛げのない主人に着いてきてくれたのだ。せめてエリシアが原因でチェルシーが貶められるようなことはないようにしようと彼女の後ろ姿を見つめ心の中で誓った。



 エリシアはチェルシーが戻るまでの時間、少し話がしたいとハルトヴィヒに言われ、応接室に案内された。


 南向きの窓から明るい日差しが差し込んでいるこの応接室には、長椅子とティーテーブルが置かれている。長椅子は青と金の刺繍が施されたベルベットの布地で作られており、格式の高さがうかがえる。中央のティーテーブルにはティーカップが二つ置かれており、ティーカップからは湯気と共にほんのりと甘く爽やかな香りが漂っていた。

 ハルトヴィヒは、家令のブルーノが扉の前に立ったことを確認してから口を開いた。


「さて改めて。ようこそ、リヴェール嬢。それから、ここまで来てくれて本当にありがとう」

「……お邪魔します」

「もうこの邸は君の帰る場所でもあるんだよ。まあ、急な話で君に戸惑いがあることは分かっているし、君の気持ちを無視していることも重々承知している。けれど、これだけは言わせてほしい。君を妻として迎えたいと思っている、僕の気持ちは本気だ。」


 ハルトヴィヒは真剣な面持ちではっきりと言いきった。

 エリシアが心の内で思っていること、そのすべてを言い当てられた。


(――だからきっと、これは驚いただけ)


 とくとくと鼓動が変に波打っている。

 昨日のプロポーズの時と同じくらい身体が火照って暑い。すべてを見透かされているようで、青の瞳をまっすぐ見られない。


「……そう、ですか」


 エリシアは自分の手元に視線を落とした。

 こういう時にどう返せばいいのか分からない。父にも言われた通りエリシアは、社交界を避け、屋敷に閉じこもりがちで、外の世界をろくに知らない。人生経験も対人経験も何もかもが足りなすぎるのだ。

 だがハルトヴィヒはそんなこと気にも留めた様子はなかった。切り替えるようにその美しい顔に笑みを浮かべる。


「これでも半ば強引に婚約を進めた自覚はあるからね。まず初めに、この生活における約束事を決めよう」

「約束事、ですか?」


 ハルトヴィヒが合図をすると、ブルーノが紙とペンを持ってきた。


「そうだ。共同生活における最低限決めておきたいルールかな。例えば、そうだな……寝室は一緒がいいとか」

「別々でお願いします」

「食事は共にするとか」

「別々でも構いません」

「愛称で呼び合うとか」

「まだ知り合って二日です」

「……うん。まあ、そういうことをきちんと決めて書面に残しておこうと思うんだが、リヴェール嬢はどうだろう?」

「わかりました」


 確かに、それは是非にでも決めておきたい。

 ハルトヴィヒはさらさらとペンを走らせた。婚約合意書にもハルトヴィヒのサインはあったが、内容が衝撃的過ぎて字の美しさまで見る余裕はなかった。


(字も綺麗なのね)


 顔だけでなく、字も美しいこの男に欠点などあるのだろうかと、癖のない綺麗な文字が綴られていく様を見ながら思う。


 ハルトヴィヒとの話し合いの結果、寝室は別々になった。まあ議論の余地もない。当然である。ハルトヴィヒは口では残念だと言っていたが、飄々としていたので戯れに過ぎなかったのだろう。

 食事も別々で良かったが、ハルトヴィヒの強い希望によりできる限り共にすることになった。


「けど、食事は出来立てが美味しいからね。僕が遅い日は気にせず先に食べていてくれ」


 ハルトヴィヒはアルベルト公爵家の当主としての仕事と王国軍の仕事どちらもこなしており、多忙を極めているに違いない。もしかすると、共に食事を取る機会は少ないかもしれないとエリシアは思う。


「それから僕のことは『ハルト』と呼んでくれ。君のことは……いつまでもリヴェール嬢と呼ぶのはよそよそしいから、ひとまずはエリシアと呼ばせてもらっても?」

「……問題ありません」


 そういえばハルトヴィヒは昨日の舞踏会でも、愛称で呼んでほしいと言っていたことを思い出した。愛称というのは本来、親密さや関係の深さで呼ばせるものだろう。まだ出会って二日、昨日に至っては初日である。親密も何もないが――本人が強く望んでいるのであれば致し方ない。


(ハルト様……か)


 なんだか気恥ずかしくて、人前はおろか二人きりでも呼べる気がしない。心の中で呼ぶ練習をすれば、そのうち慣れるだろうか。


「こんなところかな」


 エリシアが胸の内で葛藤している中、ハルトヴィヒは約束事を書き留め、ペンを置いた。紙にはまだ余白がたっぷりある。


「今後共に生活していく中で様々な問題が出てくるだろう。そうしたらその都度また話し合って追加しよう」

「わかりました」

「というわけで――――これからよろしく、エリシア」

「……こちらこそ、よろしくお願いいたします」


 ハルトヴィヒは目を細め、微かに笑った。柔らかな――けれどどこか懐かしさすら覚えるような表情だった。

 ただの挨拶のはずなのに、ハルトヴィヒの声もまなざしもやけに優しかった。自分に向けられるには少し過ぎたその温度が、胸の奥にうっすらと残った。

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