5 見覚えのないドレスと訪問者
レースカーテンから温かな日が差し込み、小鳥のさえずりが聞こえる。穏やかで清々しい気持ちの良い朝を迎えたはずなのに、今日のエリシアの目覚めは最悪だった。
「眠れなかった……」
昨日の求婚劇から一夜明け、エリシアは一睡もできずに朝を迎えていた。
エリシアはあの後、兄を置き去りにして屋敷へ帰り、早々に身支度を整えて寝台に入った。たった数時間滞在しただけなのに疲労感は極限にまで達していたが、全然眠たくならない。むしろ頭と目が冴えて仕方がない。
しばらくして帰ってきた兄に叱られるかと身構えたものの、兄はエリシアに声をかけることなく義姉の待つ別邸に帰ったようだ。兄からはお咎めもなければ、お小言もなかった。
(だからこそ、逆に怖いわ)
事の成り行きは兄経由で父の耳にも入っているだろう。
――エリシアはプロポーズされたにも関わらず、その場から逃げ出したと。
「……お父様には無礼を叱られてしまうでしょうね。けれど、あんな素敵な方が『鉄仮面令嬢』の私と結婚するメリットがないもの」
にこりとも笑わない、痛くても悲しくても泣かない、腹立たしくても怒らない、表情が乏しいゆえにエリシアに付けられたあだ名は『鉄仮面令嬢』。
エリシアはドレッサーの前に座り、鏡に映る自分の顔を見つめた。
シルバーブロンドの癖のない髪の毛に、切れ長の瞳。醜くもないが秀でて美しいわけでもない。おまけに万年無表情で、今日に至っては目の下に隈までできている。
エリシアはにぃと口角を上げてみた。
「……酷い顔」
鏡の中にはどこか動きが固くぎこちない表情の歪な女が映っており、すぐさま表情を戻した。幼い頃は今よりも少しだけ上手に笑えていた気がするのだが、今や作り笑いすらこのザマである。
はあ、と深い溜め息をついていると、扉の向こうから声をかけられた。
「エリシアお嬢様、おはようございます。シェリーです。お支度に参りました」
エリシアが入室を促すと、目尻がつり上がった壮年の侍女が入ってきた。
「おはよう、シェリー」
「おはようございます……ってあらあら、まあまあ! 昨日は眠れなかったようですね」
シェリーはそう言って、しかし深く追求することはなかった。
彼女はエリシアの侍女でもあり、リヴェール家の侍女長でもある。恐らく、昨日のうちに何があったのか知らされていたのかもしれない。
「では、今日のお支度は念入りにさせていただきますね」
シェリーはどこか嬉しそうにしている。長年、リヴェール家で働いてきたシェリーの趣味は、エリシアを磨き上げることらしい。その前はエリシアの母、ユージェニーの侍女だったが、母が亡くなってからはエリシア専属の侍女になった。
「いいのよ。今日は誰ともお会いするお約束はないのだし、着飾る必要はないわ」
シェリーの手を煩わせることはない――。そう言いたかったのだが、シェリーはカッと目を見開いて両の拳を握りしめた。
「なりません! エリシアお嬢様付きの侍女であるこのシェリーにもプライドというものがございます! お嬢様の魅力を何十倍、何百倍と魅力的にするのがシェリーのお仕事なのですよ! シェリーはお給金泥棒をする気はございませんし、ユージェニー様に顔向けできない真似はいたしません! ささ、ドレスから選びましょう!」
彼女のつり上がった目がさらにつり上がる。何が彼女に火を付けたのか、いつにも増して張り切っている。こうなってしまってはシェリーを止めることはできない。
シェリーは早速クローゼットを開け広げると、そこには伯爵家の令嬢にしては少ない枚数のドレスがかけられていた。とはいえ引きこもりのエリシアからすれば選ぶのが大変なくらい多いのだが。
「どれになさいますか?」
「シェリーに任せるわ」
「またそう言って……」
シェリーは呆れ気味に額を抑えた。
そうは言っても仕方ないだろう。エリシアは自分が着飾っても何も変わらないと思っている。どれほど素敵なドレスであろうと、元がこれでは宝の持ち腐れである。
「では、ドレスは私が決めるとして、エリシアお嬢様は眠れなくても良いので目を瞑って少しでもお休みになってください。このままでは倒れてしまいますよ」
「ええ、ありがとう。そうさせてもらうわ」
シェリーの気遣いに感謝しながら、エリシアは瞼を閉じた。
*
エリシアが次に目を開けたのは、シェリーによる身支度が終わり、声をかけられた時だった。
シェリーの話だと、エリシアはあれからすぐに眠りについたらしい。確かにさっきよりは幾分か頭がすっきりしている。
シェリーは宣言通り、お肌のお手入れもヘアメイクも念入りにしてくれていた。おかげで目の下のクマは消え、血色の良い顔が鏡に映っている。人前に出る予定はないが、人前に出ても遜色ないだろう。
シェリーが選んだドレスは、見覚えのない淡い水色のゆったりとしたドレスだった。胸元は白の糸で刺繍が施されており、胸下の切替部分はシルクのリボンが使われている。ドレスに合わせるようにシルバーブロンドの髪はふわふわに編み込んで下ろしている。
(ドレスは楽なものだけれど、昨日の舞踏会よりも気合が入っているわね……)
社交の場に出る時は極力地味に目立たないようにするからか、シェリーは日常の中でこうやってエリシアを着飾ることがある。エリシアを目一杯着飾りたいシェリーに我慢させている分、普段は好きにさせている。
「ところで、こんなドレス持っていたかしら?」
先ほど抱いた疑問を口にする。
シェリーは「ああ、それなら」とクローゼットの隅にかけられたドレスを指し示した。
「あちらに入っておりました」
「ああ、サラお義姉さまからの……」
それならばエリシアに見覚えがないのも納得だった。
最近義姉からエリシアの趣味とはかけ離れた色のドレスをプレゼントされることがあるので、多分その内の一着なのだろう。普段から着ないので隅に追いやってしまって申し訳ないが、ピンクやクリーム色、はたまたこの淡い水色だってエリシアには可愛らしすぎて到底似合わないのだ。
それにしてもこのドレスは、透き通った淡い海のような色をしており、いやでもあの方を彷彿させる。だが、それはたまたまだろう。このドレスも義姉からもらったもののはずだ。義姉は淡い色が好みなのかもしれない。
「とてもお似合いですよ。まるで麗しい水の妖精のようです」
「…………そう」
似合わないと思ったエリシアの心の内を読み取ったようにシェリーは褒めてきた。彼女は表情の乏しいエリシアの感情が読み取れる数少ない人物の一人でもある。それにしても『水の妖精』は言い過ぎだ。むず痒くなるような恥ずかしさに襲われる。
「エリシア様。旦那様が食堂でお待ちです」
普段外出していることの多い父が食堂で待っているという意味が、エリシアに分からないはずはなかった。
「お父様がお待ちなら念入りにしなくても良かったのに」
「いいえ、これは旦那様のご指示ですから。お時間のことは気にしないようにと仰せつかっております」
どういう意味だろう。父には叱られると思っていたのだが、時間をかけて身支度するよう指示が出された意図が分からない。
「そう。じゃあ、お父様が待っていらっしゃるから行くわ。きっと大事な話だろうから付き添いは結構よ」
「承知しました。行ってらっしゃいませ」
エリシアは一つ頷くと、一人で食堂へ向かう。
(お父様がお待ちということは、昨日の話をされることは確かね。逃げ出したことは叱られるでしょうし。いいえ、もしかすると昨日の時点でアルベルト公爵家から抗議が入っているかもしれないわ)
はあ、と大きなため息をこぼす。
しかし、あの場から逃げ出したのは他の誰でもないエリシア自身である。ハルトヴィヒと話したのも踊ったのもエリシアだ。もっといえば、義姉に頼まれて舞踏会の参加を承諾したのもエリシアなのだ。
結局、自分の起こした行動の後始末は自分でつけねばならないものだ。
考え事をしていると、あっという間に目的地に辿り着いてしまった。
胸に手を当て、一度大きく息を吸ってゆっくり吐き出した。そしてエリシアは意を決したように食堂の扉に手をかけた。
「おはよう、エリシア・リヴェール嬢」
エリシアが食堂の扉を開けるとそこには、金髪の美丈夫がにこやかな笑みを浮かべて座っていた。